01. 嘘のまま終われば良かったのに
「す、すすすす諏訪部ヴォイスはずるい!!!」
「なんのことを言ってるのかさっぱりわからないよ、レディ?」
足を止めて、振り返った先には、顔を真っ赤にした見知らぬ女生徒がいた。
※
机の上に広げた白紙の五線譜の上にいくつか綴られる黒色のおたまじゃくし。縦に伸びる棒線は上にも下にも伸びるし時々にょろりと違うものも飛び出て、その形を作っていく。
思い思いに書き足しては軽く鼻歌を歌って確かめて、消しゴムをかけて書き直す。いくらか繰り返すと一行書き終えるのもあっという間、というわけにもいかない。いや浮かべばあっという間なんだけど。天才肌でもないし、フィーリングだけで全部できるほど自分の能力を過信はしていない。
半分ほど用紙を埋めてから、前の席に座ってその大きな手にはいくらか余っているようにも見える小さな文庫本を広げているパートナーを見上げた。
「トキヤ」
「どうしました?」
「ちょっと見てくれる?」
本に集中していると見せかけてこれで案外こっちにも意識を向けているトキヤの反応は結構素早い。疑問符の形態をとりながらも、ほぼ有無を言わせないそれに彼が逆らうことはなく、長く爪先まで整った(さすがアイドル志望)指を文庫本に挟んで簡易的なしおりにしたトキヤは怜悧な美貌、と言えるような整った顔をこちらに向けて消しカスが残った五線譜を拾い上げた。その際に上に乗った消しカスを払い落とすのも忘れない。
全部丸々埋めているわけではないが、それでも五つに規則的に並んだ線の上に踊る音符を上から下まで目を通したトキヤは一呼吸をおいて薄い唇を開いた。
「悪くはないですが、ここは伸ばした方が語尾が綺麗に収まると思いますよ」
「でもそうすると次のブレスが難しいでしょ」
「私を誰だと思ってるんですか。これぐらいならいけますよ。あぁそれとここですが、もう少し音をあげた方が絞まりがでます」
「さらっと自慢いれやがった・・・」
自信があるのは悪くはないが、下手すると嫌味になるからあまり好ましくない、とはいってもそれを気にするほどトキヤとの付き合いは浅くない。一つ溜息を吐くだけで押しやると、言われたとおり楽譜を書き直して次の小節に移る。
私が再び楽譜に集中し始めたのを感じ取ったのか、トキヤもまた閉じていた本を開いてその紙面に視線を落としたときに、窓の方から賑やかな声が聞こえた。
決して静かな、とはいえないけれど騒々しいともいえない教室のざわめきを打ち破るような明るい笑い声。低い音と高い音。重なるように、打てば響くように聞こえてくるその声の集合体には覚えがあって、音符や記号を書き連ねながらその姿を思い浮かべると、窓の外越しなのにやたらと気に障ったのか、いや気になった、か。トキヤが読みかけの本を開いたまま窓の外に身を乗り出すようにして下を見下ろした。少し土ぼこりがついているような窓枠のサッシに、制服のブレザーが汚れるのも気にしないかのように肘をかけて下を覗きこむ。ちら、とその横顔を一瞥してから再び視線を五線譜に落すと、窓の下から明るい声が跳ね上がるように響いた。
「あ、トッキヤさーん!」
「・・・またなにをしてるんですか、あなた方は」
高い声はここ最近追加された声だ。名前はなんだったかな、とぼんやりと思いながら五線譜にシの音符を加える。呆れたような、けれども決して厭っているわけではない低めの声は殊更張り上げたわけでもないのによく響くので、きっと眼下の彼女らにも曲がることなく届いたことだろう。ここは半音あげようかな。フラットを加えると高い声とは別の快活な声がトキヤの呆れを含んだ問いかけに答えた。打てば響くような明るい声だ。
「かくれんぼ!今那月が鬼で・・・」
「ぎゃああああああ!!!!」
学園中に響くんじゃないかというような、いや嘘。これ嘘。この学園一つの都市なみに広いから多分無理だけど、少なくとも大分広い範囲には聞こえていそうな悲鳴はなんだか切なくなるぐらい可哀想だ。うっかり五線譜の綴りが悲愴なバラードになりそうなぐらいに、なんだか胸が締め付けられるような悲鳴だった。少なくともかくれんぼで出るような声じゃないよね。けしけしと思わず書いたメロディを消して、いやこれはこれで別の曲ができそうだから別のに書き写そう。タイトルは隠れ鬼でどうだろうか。新しく出した一枚に浮かんだメロディをさっと書き留めてから続きを書こうと向き直ると、悲愴な悲鳴に、恐らく諸々を悟ったのかトキヤの深い溜息が落とされた。
「それで、今見つかったのは翔ですか」
「なっちゃんが鬼だからねー・・・真っ先に見つかると思ったよ」
「他人事のようですけど、あなたの方は大丈夫なんですか?見つかったら確実に同じ目に遭いますよ」
だろうね。淡々と一見冷淡にも聞こえる調子で見事に私には関係ないですけど、といわんばかりのトキヤに窓下の・・・・あー、そうだ。柊沢小春、ちゃんだっけ。彼女がうっ!と詰まったような声をだした。なんでそんな声が聞こえるのか、それは早乙女学園クオリティと受け流して一枚の楽譜を埋め尽くす。二枚目行こうっと。
「み、見つからなければいいんですよ!」
「そうだよな、見つからなければいいんだよ!」
「あ、二人とも見つけましたよー」
「「ぎゃーーーー!!!」」
あ、ハモった。ハモリもいいよね。次はデュエット曲とかいいなぁ。カチカチ、と短くなったシャーペンの芯を出して次の音階を導き出す。これが終わったらデュエット曲を作ってみよう。歌うのは誰と誰に依頼しようか。次のことにも思いを巡らせながら、思い浮かぶものを書き留めていく。
正面で言わんこっちゃない、とばかりに肩を落として眉間の皺を寄せるトキヤの下では「逃げるぞ小春!」「オッケー音也!」と言葉を交わしあう声が聞こえる。その後に続くように「あ、待ってくださいよーぅ」とのんびりとした声が聞こえたので二人は颯爽と走り去ってしまったのだろう。
「全く・・・あれではかくれんぼではなくて鬼ごっこでしょうに」
確かに。かくれんぼは鬼に見つかればそこで終わりのはずなのだが、逃げ出した時点ですでにそのルールに反している。勝ちか負けかでいえばきっと一十木君たちの負けだ。だって逃げてるし。
やれやれ、と身を乗り出していた窓から中身を教室に戻して、ブレザーについた埃を軽く手で払い落すトキヤに顔を上げると、彼は本に視線を落としているようでどこか目が滑っているような印象を受けた。
「トキヤ」
「書きあがったんですか?」
「もうちょっとかな。そういえば気になってたことがあるんだけどさ」
「なんですか」
「諏訪部って、誰?」
ぴくり。僅かにトキヤの文庫本を支える手が揺れて、私はその動きを一瞥してからくるくるとシャーペンを回した。
「いや、この前さーさっきの、柊沢さんが神宮寺君に向かって真っ赤になって叫んでてさ。誰だろー?って」
「・・・・私が知るわけないでしょう。彼女しか知らない人ですよ」
「そっか」
じゃぁいいや。軽く答えて楽譜に視線を落せば、どこかほっとしたトキヤの雰囲気を感じた。それに俯いたまま瞳を細めて、音符をガリガリと黒く塗りつぶす。そうか、彼女しか知らないのか。そうか。
「俺様の美技に酔いな、だったかな」
「・・・なんです?」
「神宮寺君なら俺様の美声に酔いな、が妥当だろうね」
「はぁ・・・・馬鹿なことを言ってないでさっさと進めなさい。明日には音あわせをするんですからね」
馬鹿馬鹿しい、と顔に隠さず浮かべるトキヤに、やっぱり通じないか、と思いながら薄く微笑んだ。俯いたままだからきっとトキヤには顔は見えなかっただろう。まぁそれはそれでいいんだけど、ね。くるり、と手慰みのようにペンを指の間で一回転させながら、私は気を逸らすように窓枠の向こう側をみた。多分、彼女なら通じるんだろうな。彼女なら、わかると思う。
てにすのおうじさま、って、告げたらどんな反応するんだろう。想像して、くすりと少しだけ笑った。