03. 優しすぎる拒絶



 去っていく背中を見送る。握り締めた楽譜は取り残されたままで、私はその楽譜を握りしめながら、ただじっとその背中を見つめた。
 彼女を中心に音が広がる。それは笑い声だったり、泣き声だったり、怒り声だったり、様々だったけれど、それでも彼女の周囲はきらきら輝く音符で埋め尽くされていくように輝いていた。彼らが惹かれるのも無理はないと思った。諦めない彼女は真っ直ぐで、折れても曲がってもきっと諦めることをしないだろう。諦めたって、きっと立ち直るに違いない。
 七海春歌と同じだけひたむきな彼女は、きっと誰よりも素敵な音楽を奏でるに違いない。
 羨ましくないといったら嘘になるだろう。けれども、そんな彼女が幸せであればいいと思う。そんな彼女がいてくれてよかったと思う。


 だって、彼女と出会ってから、トキヤの歌に、心が生まれてきたのだから。


 彼女がきてくれて本当によかったと、私は彼のための楽譜を、くしゃりと握りつぶした。





 白黒の鍵盤が音を奏でる。高く低く早く遅く。流れるように、切れるように。刻まれる音は音楽となって空間を満たし、やがて余韻を残して壁に吸い込まれていった。
 例えばこの世界にこなければこんな風にピアノを弾く事も無かっただろうし、弾けることもなかっただろう。作曲なんて自分が手がけることになるとは思わなかったし、誰かのために歌を作りたいと思うことも、それを夢にすることもなかっただろう。
 そう思うと異世界で夢を見つけたことがどこか可笑しくて、くすくすと笑みが零れた。

【・・・本当に、あなたはそれでよいのですか?】

 自分で自分が可笑しくて笑っていると、ふと聞こえた声に口元を緩めながら笑みを浮かべて振り返った。ふわふわと浮く足元。ゆるく巻いた金の髪に、外国人みたいに掘りは深いが目鼻立ちが驚くほど左右対称に作られた顔。長い睫毛なんて瞬きをするたびに音が鳴りそうだし、唇なんかぽってりと厚くてかぶりつきたくなるほど魅惑的だ。
 出るとこはでて引っ込むところは引っ込んでて、服なんか胸元を強調するように布を巻きつけて作られたようなそれだし。あぁ本当にギリシャ神話の女神様みたいだ。
 半透明で向こう側が見えるぐらいだし、実際この世界でいう女神様なのだろうけれど。
 何人もの声が重なり合っているかのようなどこかぶれた声が、けれどそれ一つが音楽のように綺麗でいつまでも聞いていたくなる。うっとりとその声に聞き惚れながら、気絶するぐらい綺麗な顔に憂いを浮かべて女神様は私を見下ろしていた。
 生憎と半透明の女神様の瞳に自分が映っているのかは確認ができなかったけれど、でもきっと今の私は穏やかに微笑んでいるに違いない。
 だって女神様、とても悲しそうだから。

「いいんですよ。何かを選ぶなら何かを捨てなくちゃ。それに実際そうなるとも限らないわけですし」
【ですが、もしも彼女がその道を選べば、あなたは全てを捨てなくてはならない】
「今更」

 悲痛そうに愁眉を寄せた女神様に、思わず吐き捨てるように息をした。彼女が僅かに体を強張らせたのがわかって、私はそれに気づいたけれどどこか冷え込んだ心中を隠し立てする気も起こらなくて、冷ややかに目の前の女神様を見据える。

「私は一度、強制的に全てを捨てさせられましたよ。自分の頭が可笑しくなったんじゃないかって、そうやって自分を疑いながら生きてきました。あの世界が自分が作り出した夢物語で妄想なんだって思いながら、今まで生きてきました。まぁ、彼女のおかげで自分は正常だってわかって安心しましたけど」

 あなたにわかるだろうか。似ているのに全く違う世界で、自分は知っているのに周囲は知らなくて、子供らしくない子供になってしまって、現実だったのか夢だったのかわからなくて自分自身すら何も分からなくなって全て投げ出した人間の気持ちが、投げ出さなくては生きていけなかった人間の気持ちが、何年も何年も、そうやって生きてきた人間の孤独が。わかるはずがない。人じゃないものに人の気持ちなんて。わかるのなら、誰が私をこんな目に合わせるというの。

【・・・あなたには、本当に申し訳ないことをしたと、】
「いいんですよ、今更。謝られたところで時間は戻らない。まぁ悪いことばかりでもなかったですし、それなりに第二の人生ってのも悪く無かったです。それに、実際戻れるとも限らない。そうでしょう?」
【全ては彼女の選択に委ねられます――もしも彼女がこの世界を望めば、あなたが代わりにこの世界から消える。逆ならば、彼女が消え、あなたはここに留まり続けるでしょう】

 それを聞いて、にっこりと笑みを浮かべた。私は何もしないけれど、全てを決めるのは彼女だとしても、それでもその言葉だけで十分だった。帰れる可能性があるだけでも、十分だった。あの世界に、戻れるのかもしれないだけで、私は、今までの自分が報われたような気さえしていた。

「迎え入れる異物は一つが限界・・・どこぞの漫画じゃないですけど、これもある意味で等価交換ってやつなんでしょうかね」
【この世界からいなくなれば、あなたという存在は消えてなくなる。記録も、記憶も、過去も未来も。全てなかったことになるのですよ?】
「元よりいないはずの存在ですから、それが妥当でしょうね。ふふ、いいじゃないですか。下手に残っているより苦しくない。・・・あぁ、そんな顔をしないで女神様。別に悲しくないとか、寂しくないとか言ってるわけじゃないんですから」

 泣きそうにきゅっと目頭に力をこめた女神様に、少し困った顔を向けて触ることも出来ないのに手を伸ばして、その手に触れようとしたけどふわりと光が舞っただけだった。
 ふわふわと舞い散って消えていく残滓。その美しい光景に、あぁ次の曲はこのイメージでもいいなぁ、なんてぼんやりと考えて、やっぱり可笑しくなって笑ってしまった。

・・・】
「私も大概音楽馬鹿になっちゃったみたいですよ?女神様。どこぞの誰かさんのせいで。あー。でも、そっか。もしも私がいなくなっちゃったら、約束、破ることになっちゃうのか。ま、それもなかったことになるんですから、破るも何もないんでしょうけどね」

 そういうことだろう。残されるものは何もないのだから。そう考えると気が楽だ。だって、悲しまれることを考えなくていいって、いなくなる側としてはこれほど心安らかになれることはない。個人的な感情はさておいても、今度の憂いがなくなるだけでも救われる気持ちがした。

「さて、女神様。何か一曲弾きましょうか?彼女の未来に光あれってね」
【・・・・そうですね。全ては、彼女と共に】

 薄い瞼を閉じた女神様を見て、白黒の鍵盤に指を滑らせた。
 零れ出る音楽は窓もドアも締め切った中から外に零れ出ることは無くて、この教室の中だけで跳ね返っては消えていく。聞いているのは私と女神様だけ。誰もしらない二人だけのコンサート。きっと、これからこんなことが増えていくだろう。私を知るのは私だけになっていくに違いない。それでいいと思う。だって帰りたかった。だって、ずっと信じてた。
 この世界が夢で、私の記憶は間違いなんかじゃなくて、きっといつかこの夢は覚めるんだって。信じてた。疑いながら、全てを投げ出しながら。それでも心のどこかで願ってた。
 今見つけた道にどうして縋らずにいられるだろう?向こうにはきっと本当の私が待っている。本当の家族が、友人が。私の世界は、向こうの世界だ。
 この世界は好きだった。大嫌いだけど、狭い世界の中では好きだった。優しい義理の両親。楽しい友人たち。―――優しい、不器用な、幼馴染。



 唯一未練を残すのならば、きっと彼との約束を守れないことだな、と鍵盤を弾きながらほんの少しの自嘲を浮かべた。