04. 死んでも言えない(愛しているなど)



 携帯の時計が午前十二時を指す。待ち合わせ時間は午前十一時。完璧なる遅刻、いや最早忘れられているのかもしれない。
 カフェテラスのウッドデッキに鎮座する白いテーブルの上で、頬杖をつきながらカラコロとグラスの中身をかき回した。氷同士がぶつかって涼しげな音が聞こえる。
 綺麗な琥珀色の紅茶が、溶けた氷のせいで薄くなって体積を増しているのにストローに唇を寄せて中身を吸い上げれば、やっぱり薄くなっていて美味しくなかった。ほんの少しの溜息を吐いて、どうしようかな、と携帯を弄りながら少しの逡巡を浮かべた。
 きっと忘れられているのだろう。そういえば最近クラスメイトに声をかけられることも減ったし友人達も近くにいても気づきにくくなってきたし、日向先生なんか名前も忘れかけてたな。
 中々思い出せなくて焦ってる先生は面白かった。悪い、なんて。先生は何も悪くないんだから別にいいのに、なんて思ったけど、隣のトキヤがちょっとあれだったから何も言わなかった。うん、でも、そっか。そう思うと彼女は順調にこの世界に順応していっているのだろう。こりゃ選択の日も近いかもしれないな。
 光る液晶から視線を外し、携帯を鞄にしまって席を立ち上がる。伝票を持ってレジに向かい、目の前に立ってみるのに店員さんは気づかなかったので声をかけたらようやく気づいて思いっきり驚いていた。うーん、店員さんにまで気づかれないのは不便かも、なんて思いながら会計をすませて、カフェから外に出ると直射日光に思わず目が眩んだ。
 手で影を作りながら、雑踏の中に進みだす。今犯罪起こしても案外私捕まらないんじゃないかしら、なんて物騒な思考を巡らせつつも実際そんな度胸もないので結局想像するだけに留めて、鞄にしまった携帯を再び取り出して液晶を確認してみる。
 メールメッセージも着信もなし。トキヤに限って寝坊はないだろうし、何か事情があるなら連絡の一つもよこすだろう。それがないってことは、と薄々わかっていながらも念のため、と彼の連絡先を呼び出して通話ボタンを押した。何コール目かのあと、ぷつりと音がしてもしもし?と電波越しの少し掠れた声が耳に届いた。

?どうしたんですか?】
「んートキヤ、今なにしてるー?」
【今ですか?音也たちと、・・・って、こら、やめなさい小春っ】
ちゃん!今なにしてるの?ねね、こっちにきて一緒に遊ぼうよ!今トキヤの部屋で皆でゲーム大会してるんだけど、レンたちすっごく強くて相手にされないんだよー!】
「あーそうなんだ。ごめんねぇ、今ちょっと映画みにいくとこでさー。また今度誘って?」

 トキヤの携帯の受話器ごしになんかうるさいなーというか賑やかだなーと思えば、どうやら携帯を奪われたらしいトキヤが小春ちゃんの後ろで何か言っている声がしている。
 あ、なんか今それを宥めてる一十木君の声もした。なんだ、マジで皆いるのか。二人っきりじゃないとか・・・あのヘタレむっつりめ。
 とりあえずへらり、と笑みを浮かべながらお断りをすると、そうなんだ・・・とちょっとしょんぼりとした声が聞こえた。そういえば彼女だけはまだ私を覚えてて懐いてたな。でも、彼女も少しずつ私を忘れていると思う。最初の頃ほど引っ付いてこなくなったし、最近は捌け口にもされていない。いい傾向だろう。そう思っていると、電話の向こう側がまたしても騒がしくなって、彼女の声が遠ざかる。このまま切っても用件は済んだから問題はなかったのだけれど、さすがにそれじゃトキヤが気になるよね、ということで大人しく待った。
 すると少し息を切らしたトキヤが、周りにあなた達は!と怒りながらまた低い声でもしもし?と語尾をあげて声をかけてきた。おかんみたいだな、トキヤ。

【すみません。それで、どうかしたんですか?】
「いや、ちょっと映画見に行くからさ、トキヤも暇だったらどうかと思ったんだけど、小春ちゃんたちいるみたいだし、今回は諦めるよ」
【そうだったんですか・・・なんなら、もこちらにきますか?多少五月蝿いですが】
「んーん。今日は映画の気分なの。じゃ、切るね?邪魔してごめんねー」
【いえ、いいんですが・・・
「ん?」
【・・・本当に、それだけですか?】

 そう、窺うように問われて。ほんの少し、心臓が跳ねたけれど、私は携帯を握る力を強めて、少しだけ声を弾ませた。

「それだけだよ。トキヤの様子が知りたかっただけだから」
【そう、ですか・・・ではまた、明日】
「うん、また明日」

 ぶつり、と。通話をきって、しばらく携帯の小さな画面を眺めてふふ、と笑みを浮かべた。
 結構、トキヤって鋭いよね、とか。もしかして私の調子どこか違和感あったかな?とか。もうちょっと演技力鍛えるべき?とか、考えながら、少しばかり嬉しくて口元を緩めた。

「忘れてるけど、気にかけてくれるのは嬉しいなぁ」

 本当は、今日は、私と買い物に行く約束だった。一週間前ぐらいにした約束だった。なんだかんだトキヤは多忙だし(なにせ裏の顔は今世間を賑わせているトップアイドルだし?)、あんまり外に出るようなタイプでもないし、ちょっとばかり楽しみにはしてたんだけどね。
 荷物持ちにこき使ってやるつもりだったのになぁ、と思いながら、それでも仕方ない、と携帯を鞄に仕舞いこんだ。映画なんて見に行くつもりはなかったけど、辻褄合わせはしないとね。最近の話題はなんだったかなぁ、と思いながら進路を映画館に向けなおした。
 交わした約束を忘れるほどに、私という存在は薄くなっている。電話をしたのに思い出しもしなかった。まぁ、ちょっとは気にかかっていたみたいだけど。でもそれもすぐに忘れるだろう。彼の周りには、仲間と、気にかかる女の子がいるのだから。

「トーキヤはゲットできるのかなー?」

 できたらいいんだけど、ライバルは強力だしなぁ。まぁ、あの一ノ瀬トキヤだし?案外まるっとゲットしちゃうのかも!まぁ、その現場を見ることは叶わないんだろうけどなぁ。
 それはちょっと惜しいな。折角のトキヤの初彼女なのに。そう思いながら、いやまだ決定事項じゃないし、と一人ツッコミ。やってても不審に思われないのは幸か不幸か。
 きっとしあわせだ、と鼻歌を歌いながら、くるりとスカートの裾を翻した。


 帰れる日は近く、けれど、忘れられた約束は、ほんの少し、悲しかった。





 目の前に土下座せん勢いで頭を下げているトキヤがいる。彼が座ってでもいない限り見ることのない旋毛をマジマジと観察しながら、私はあー、と視線を泳がせた。

「・・・トキヤ?」
「すみません、。約束を破るなんて・・・!」
「あーいや、別に、大した約束でもなかったし、ほら、私も何も言わなかったし?うん、お相子お相子」

 うっわめっちゃ後悔してるよこの子・・・!なんで思い出してんのよこの子。そこは忘れたままでいようよ穏便にさー。ほら、なんか注目集めてるしー!
 今だ深く頭を下げたままのトキヤに冷や汗をたらりと流しながら、とりあえず練習室に入ろうか、と彼の腕を取って促す。渋々と顔あげてしかめっ面をしているトキヤの広い背中を無理矢理教室に押し込み、自分も押し入るように教室に入るとがちゃりとドアを閉めた。
 とりあえずこれで、人目からは逃げられた。ほう、と額に浮かんでも無い汗を拭う仕草をすると、トキヤは仏頂面でまた頭を下げた。表情だけを見れば喧嘩売ってんのか!って顔なのだけれど、少し下がった眉尻とか罪悪感に揺れている目とかを見ると、落ち込んでいるのは一発でわかる。あぁもう、無駄にこの子律儀だからこういう時扱いにくいんだけど!

「本当にすみません、・・・」
「だから、別にいいって。大した用でもなかったんだし、誰だって忘れることぐらいあるよ」
「ですが、約束していたんですよ?それを・・・どうして忘れていたのか・・・」
「あー・・・そう、だね。んじゃ、今度。今度は一緒に買い物行こうよ。この前の埋め合わせってことで」

 どうして忘れていたのか、自分で自分が信じられないのか、きゅっと寄せられた眉がなんだか心苦しい。約束を忘れるなんて、トキヤにとっては有り得ないことだ。已む無く破ることはあるが、それでも約束を忘れたことなんて、一度もない。
 それは、小さい頃から、ずっと。ずっと、他愛ない、約束さえも。
 だからこそ、自分が信じられない気持ちなのだろう。何故、と苦悩するように眉間に皺を寄せるトキヤに、あえて放置していただけに、その落ち込みようは妙にチクチクと良心を刺激した。しかも現状その物忘れは世界規模での仕様なのでどうしようもないことで、うんつまり、トッキーは実は何も悪くないんだが、それでも自分の責任だと追い詰める様はなんだかとても苦かった。
 トキヤのせいじゃないのに。彼が責任を負うことはないのに。

 それを望んだのは、私なのに。

 顔を伏せるトキヤに気づかれないように自嘲を浮かべると、ぐわしと見た目よりも結構柔らかい髪に触れて、口を開いた。

「ちょっとしばらく用事が合わないけどさ、また今度。ね?それよりも時間は有限だよ!打ち合わせやっちゃおうよ」
「・・・わかりました。この埋め合わせは必ずします」
「うん」

 これ以上問答しても無益だと悟ったのか、実際練習室は交代制なので時間は一秒たりとも無駄にはできない現実もあるのだろう。顔をあげたトキヤは、それでもやっぱりどこか申し訳なさそうに、しかし納得がいっていないような顔でこちらを真摯に見返し、こくりと深く頷いた。
 私はその様子に鷹揚に頷き、ファイルから楽譜を取り出してピアノの前に立てかけた。

「えーと今日はこの章から入るから。いける?」
「えぇ、早くやりましょう」
「オーケイ」

 歌うとなればガラリと空気を変えるトキヤに、人知れずほっと胸を撫で下ろした。さすが現役アイドル。切り替え方はばっちりだ。そう感心しながら、ピアノの前の椅子を引いて座り位置を調節し、白黒の鍵盤の上にそっと指を乗せた。
 ピアノの旋律に合わせて、トキヤの声が教室中に響いていく。あぁやっぱり、トキヤの声はいいなぁ。どこか踊るような心地で、ピアノを弾きながら、ふっと息を吐いた。
 


 あと何度。あとどれぐらい。
 私は、こうして彼の横で、彼の歌を聞いていられるのだろうか―――残さなかった約束の言葉に、彼が気づかなければいいと、切にそう願う。