行き先も告げずに、



 これは、あの夜の再現なのかもしれない。
 場所は家ではなく裏寂れた路地裏で、時間帯も夜ではなくまだ陽も高い時間ではあったけれど。
 それでもこれは、あの日辿るかもしれなかった運命の再現であるのかもしれない、と馬乗りになる男を見上げて思った。息を荒げて爛々と光る眼。背中に背負った太陽のせいで影になった顔は判別しづらく、けれど興奮と加虐に歪んだ顔の残忍さは隠せない。
 あの日、あの夜。私から父母を奪った姿そのままに、この男はまた私から「私」を奪おうとしていた。違うことといえば、男と私を隔てるように守ってくれた母がいないことぐらいか。直接向けられる興奮した男の殺意を一身に受けて、逃げるべきだと言う思考に反して体は委縮したように動けない。金縛りのようだ、なんて。呑気な思考は現実からの逃避故か。

「ハハッ、・・・あぁ、よぉやく、みつけた」

 ねっとりと張り付くような粘ついた声。ニタニタと歪んだ口元から臭い息を吐き出して、男の瞳が恍惚に歪む。あぁ、この男は、あの夜から。カサついた指先が頬を這う。子供特有のまろい柔らかな頬を、拾われてからそれなりの暮らしを送っていたせいで同年代よりもいくらか張艶も増しているかもしれない、そんな頬を、男の荒れた手が何度も行き来する。ぞわぞわと言い知れぬ嫌悪感と恐怖に肌が粟立つ。ひっと意図せず零れた声に、男の目が益々愉悦に弓なりにしなった。

「探したぞぉ・・・。全く、どこに隠れてたんだろうなぁ?」

 言いながら、男の手が頬から首筋、服の上を辿って薄い胸板に触れる。左胸の上、どくどくと早鐘を打つ心臓の真上に掌が押し当てられたとき、私の心臓が物理的に掴まれたのかと思うほどひやりと背筋が冷え込んだ。悲鳴を、声を、あげなくては。冷静な思考はそう言うのに、舌が張り付いたように動かない。あぁでも、逃げてきたこの路地裏は人気がないのだ。大通りも遠くて、声をあげたところで誰か気づくというのか。助けて、と。願うだけでは誰も助けてくれなどしないことを、知っているのに。

「は、はは・・・ずぅっと気がかりだったんだ・・・あの時、逃しちまったからなぁ・・・」

 言いながら、男が脈打つ心臓を確かめるようにぐっとやや力を籠めて胸部を押す。少し息詰まり、うっと声を零すと、嬉しそうに男は笑った。苦悶の声に薄らと興奮に頬を赤くして、ハァハァと犬のように荒い息が鼓膜に響く。気持ち悪い。吐き気がする。震える手で、男の手を振り払おうと緩慢に持ち上げた瞬間、バチン、と強かに頬を打たれた。
 じんじんと痛みの走る頬に僅かに目を見開くと、男の手が乱暴に顎を掴んだ。口元を隠すように力任せに掴まれた痛みと呼吸のし辛さに眉根が寄る。そのまま身を屈め、近づいた男の瞳孔の不穏さに息が止まった。

「おもちゃが、抵抗なんて、するもんじゃねぇよ、なぁ?」

 切れ切れの台詞に、男の思想の異質さが浮かび上がる。ああ、ああ。こいつは。この男は。


 きっとあの夜から、狂ってしまったのだ。


 ニタリ。泡のついた口角が歪んで、みしみしと顎を掴む手に力が籠る。痛みに眉を寄せ、ぱたりと地面に投げ出された指先がぴくりと動く。けれど強かに打たれた頬の痛みが消えなくて、男の狂気的な眼差しに委縮して、やがて力を失くしたように指先が伸びた。嗚呼。

「さぁ、遊ぼうぜ?」

 振り上げられた鈍色を、諦めたように見つめる自分のなんと滑稽なことか。