保護者見つけました。
痛い、熱い、苦しい、怖い、寒い。
取り留めのない感情と現象が交互に襲い掛かって意味を為さない。
熱いのか寒いのか痛いのか苦しいのか怖いのか安心しているのか、まともに機能しない頭ではどれが正しいことなのか判別がつかず、ただ薄暗い陽も差さない路地裏で横たわる自分という光景がどこか遠い世界のことのように思えた。
カツン。
不意に聞こえた足音にぐるりと目を動かす。体は動かない。けれど微かに霞む視界で、覗き込む人影を見つけて眉を寄せた。赤い。真っ先に認識したそれに茫洋とした目を向ける。人影が近づく。膝をついたのだろうか。傍らの気配に、コヒュ、と掠れた息が零れた。あぁ、まぁ、なんでもいい。どうでもいい。
「 」
縋るように、動かすのも億劫な指先を伸ばせば、温かな何かに包まれた気がした。
※
人生での難関を上げよと言われたらまず異世界トリップ後の順応、生死を駆けた戦いをあげることは当然だ。経験上確実に言えるね。これを難関といわず何を難関と呼ぶのか。勉強か。あぁそりゃ難関だ。特に数学とか嫌いだった。わけわかんねぇよあれ使う機会あんのか、とか。基本的に勉強なんて無駄なものを学んでなんぼ。生きるのに必要なものなんて学ぼうとしなくとも学ぶものだ。勉強なんて雑学、要するに教養であっていらないけどあって困るものじゃない、そういうもんだ。彩雲国に限って言えば別に文字がなくともやっていけんことはない。証拠に庶民は文字を学ぶこともない人達だって大勢いる。使う必要がないからだ。使えたら便利だし、就職口だって多くなるけどね。でも現実はそういうのは教養に属しているわけで、学ぶことが少ない。秀麗姉さんや、昔いた近所のお爺さんのように教えてくれる人がいないわけではないけれど、少ないのは事実。私は運がいい方だった。近所に教えてくれる人がいたから。大体話す聞くでは日本語なのに文字だと漢文とかどういう了見だ。漢文覚えるのは本当に骨が折れたよ。なまじ元々日本語っていう知識があるもんだからわっけわかんないことわかんないこと。漢字はすぐ書けるんだけどね。
そんなこんなで物凄く苦労して身につけたんだ、漢文は。今私が元の世界に戻って古典の漢文をやれば返り点なしに読める自信があるよ。それはさておき。
「あ、アイキャントスピークイングリッシュ!」
めっちゃカタカナ英語ですが伝わると信じたい・・・っ!というかこれはすでに英語が話せているという突っ込みがなされるボケだが、現実はそんなところに突っ込んではいられないのだ。目が覚めて真っ先に目に飛び込んできた赤毛の、ぶっちゃけカッコイイけど怪し過ぎるおじさ、いやお兄さんのひっくい美声で紡がれた流暢な英語に、石化すること数秒。盛大なる困惑と焦りに心臓がばくばくいってどうしようもない緊張感を味わいながら、掴み切れない状況に手に汗を握って硬直した。
だって!目が覚めてここどこだ?って思ったら英語で!英語で話しかけられて!!体痛いなぁって思いながら顔みたら彼の半分をマスクで隠した怪しい人で!!一気に混乱するのも仕方なくない?!咄嗟にこんなカタコト英語が出るだけ私すごいと思う。褒められてしかるべきだ。
何故か枕元にいる金色の謎の物体はこの際無視して、体の痛みとあまりにも掴めなさすぎる状況におろおろと視線を泳がせていると、タバコの煙を吐き出して、お兄さん(てかおじさん?)は顔を顰めた。怖い。
「Chinese?」
え、えーっと、チャイ、ニーズ?・・・・・・・・・・・・間違いでもないが正解でもない!彩雲国を中国と称していいのか甚だ疑問である。一応中華だけど決して中国ではない。そもそも別次元の話しだし。まあしかし、お兄さん(おじさんと言ったら怒られそうだ。なんとなく)がそう思うのは仕方ない。アジア人っぽかったらそう聞くよね。しかしだからといって中国語で話されても私はサッパリだ。なにせ彩雲国の公用語は何故か日本語。中国語なんぞ喋れない。縮こまりながら首を横にふる。ぷかー、とタバコの白い煙で輪ッかを綺麗に作って、お兄さんは更に問い掛けた。
「Japanese?」
ジャパ、ニーズ。簡単な単語だけなのは最初の私のカタコト英語が通じた結果だからだろうか。しかし、まあ一応そういうことにしといた方がよいのだろう。最早生粋とも言えないが、しかしそれでも私はそうであった過去がある。いや、私はそうでしかあれないのだ、きっと。
どことなく物悲しさを覚えながらも、こくりと無言で頷いた。僅かばかり瞼を伏せると、枕元にいた金色の物体がパタパタと羽を動かして正面に飛んでくる。飛べるの、これ。きょとんと瞬き首を傾げると、尻尾と思しきものをひらひらと動かして、私の頬を擽った。
えぇ、なんですか君。反応に困って眉根を下げ、優しく頬を撫でる尻尾を手に取る。冷たい・・・のか?金属、なのだろうかこれは。つーかほんとこれなんなんだ。生き物とは思えないが、かといって機械といえるのだろうか。え、ロボット?ここそんなに文明発達してるの?ていうか本当ここ何処?英語があるということはもしかして地球?でも地球にこんなハイテクなのないよね?未来?ガンダム?コロニーは存在してますか??・・・・思考がズレた・・・!じゃなくて、そうじゃなくて。あーもう、何を中心に考えればいいのかわかんない・・・っ。
尻尾を掴んだまま眉間に皺を寄せると、金色の物体は大きな体を動かして正面に泰然と座るお兄さんの元までいってしまう。でも尻尾が長いので割りとすぐ近くにいるお兄さんまでならば、掴んだままでも支障はなさそうだった。けれどずっと鷲掴みにしているわけにもいかず、戸惑いながらするりと手放す。頭の上が定位置なのだろうか。それともそこが好きなのだろうか。黎深様にも似た、倣岸な雰囲気のお兄さんの頭の上にぽすんと乗った金色の物体を目で追いかけると、必然的にお兄さんと目が合う。ギクリと肩を揺らし、視線を揺らめかせると彼は足の長い丸テーブルの上の灰皿にタバコを押しつけてもみ消すと、じっと私を見下ろした。
「名前は」
「え。・・あ、、です・・あれ、日本語?」
「お前、家事はできるか?」
「は?えぇ、まあ。一通りはできます、けど・・・」
「そうか。コーヒーは淹れられるか?」
「インスタントぐらいでしたら・・・・・ていやいや。あの、いきなり何を・・・」
つか日本語話せるんですかあんた。物凄くマイペースに、むしろ唐突に話をトントンと進ませ始めたお兄さんに、目を白黒させて首を傾げる。どうしても腰が引けたような言い方しかできないのが性分ではあるが。あー、・・・なんかこの問答無用な我が道っぷりはどことなく黎深様を思い出させる・・・。呆気に取られていると、お兄さんは長い足をこれみよがしに組んで見せながら、頭の上の金色の物体を掴んでこちらに投げた。そりゃもうぽーんと飛ばされたそれを咄嗟に受けとめて、目を見張ってお兄さんを見つめる。
「まぁ、妥協できるか」
「え?え?・・・あの、一体、え?」
ごめんなさい。状況がさっぱりわからない。私、一体何がどうしてどうなって・・・?困惑を隠せず、よくわからない金色の球体をぶにぶにと弄りながら、ズキズキと痛みを訴える胸部にそっと手を触れる。・・・そういえば、服、いつの間にか変わってる。金色の球体を膝において自分の恰好を見れば白い大きなカッターシャツ1枚で、いくつか外されたボタンの隙間から見える部分には白い包帯が巻かれていた。包帯・・・。思わずそこに触れれば、突き刺すような痛みが走る。ぐっと思わず呻けば、呆れたような声が上から降ってきた。
「馬鹿か。まだ怪我は治っていない。とりあえず、まともに動けるようになるまでは安静にしているんだな」
「けが・・・・ぁ、私、」
一瞬にしてフラッシュバックする光景。ぞわっと背筋を這い上がる恐怖と嫌悪感に引き攣った喉から乾いた吐息が零れる。カタカタと震える手で、縋るように膝の上に乗せた金色を掻き抱いた。
「わたし、どうして、こんなところに、」
悟る。理解する。いま、ようやくだ。ここは、彩雲国ではない!
顔から血の気を引かせてわなわなと唇を戦慄かせる。自分に起こった出来事を正確に理解した今、私の全身を駆け巡るのはどうしようもない恐怖感だけだ。無論、この状況に至るまでの出来事も、煽りこそすれ安心させるものなど何一つない。
ヒュゥッ、と息が荒くなる。傷の痛みと鼓動の速さに蹲るように背中を丸め、息苦しさに目を大きく見開いた瞬間大きな溜息と共に、大きな掌が口元を覆った。びくん、と大袈裟に肩が跳ねる。一瞬前までの出来事を思い出して、咄嗟に跳ね除けようと動いた手は、しかし低く落ち着いた声に、ぱたりと力を失くした。
「助けてやるから、大人しくしろ」
耳朶を打つ低い声。面倒そうなのに、口元を覆う手は優しく、開いたもう片手が額にかかる前髪を払った。覗き込んだ顔の、マスクに覆われていない半面の鋭い鷹のような眼孔が細くなる。決して人相がいいとはいえないそれなのに、あの男よりもよほど、と、荒い息が徐々に収まっていく。明らかに怪しい人なのに、ここは、きっと私の知らない世界なのに。わけもわからず、私は震える手で口元を覆う手の袖の端を握りしめた。
「・・・落ち着いたか?」
ぎゅっと握りしめればお兄さんの手がゆっくりと離れていく。過呼吸になりかけてたんだな、とどこかぼんやりする頭で考えながら、私は離れていくお兄さんを目で追いかけて小さく息を吐いた。
「・・・ありがとうございます」
「礼なら体で払え。俺はタダでやるほど安い男じゃないんでな」
「・・・・あっ肉体労働?えっと、あれ?・・・面倒、みてくださるんですか?」
言い方!!一瞬、え?この人・・・?と思ったが、いやさすがに、と思い直して恐る恐る見上げれば、私の解釈は間違いではなかったらしい。新たな煙草を取り出し火をつけたお兄さんは、ふぅ、と煙を吐き出しながらテーブルの上にある灰皿の上にぽとり、と煙草の灰を落とす。
「簡単に言えばそうだ。それとも、ここを出てどこかに行くか?俺はそれでも構わんが」
言いながらさして興味もなさそうに再び煙草に口をつけたお兄さんに、パチパチと瞬きを繰り返して軽く俯く。投げられた金色の物体を抱きかかえながら、じっとつやつやと光るフォルムを見つめて吐息を零した。・・・選択肢なんて、ないじゃないか。
現実を考えれば今はこの人に従うほかないのだ。怪我が治ってからとはいえ、ここが異世界ならば出ていっても路頭に迷うだけ。遙かのようなポジションにあるわけでもなし、かといって運良く秀麗姉さん達のような人達に出会えるわけもなく。下手したら餓死、それかどこぞに売り飛ばされ花街やら奴隷やら、といったところだろうか。良い具合に真っ当な働き口が見つかればいいが・・・私、まだ外見が10歳だからな・・・雇ってもらえるかどうか。まあ、この人がそういう悪徳商売を生業としている人ではない、という確証などどこにもないのだが、しかし身を寄せる人など、目の前の人しかいない。ふと、煙草を持つ手を見つめて、自分の口元を覆った大きな感触を思い出す。
大きな、温かな手だった。手袋に包まれた、無骨で少しだけ乱暴そうな。だけど無意識に縋りついた私を、それは払いのけることもなく、ただ当たり前のように―――助けて、くれた。
信用できるのかはまだわからない。どうなるのか、なにも。今の現状でさえ、何も私は知らないし、わからない。けれど、どうせ考えていてもわからないのだ。この人が私にとって良い人なのか、そうでないのか、きっと知るときまで私は知らないままだろう。
ぎゅっと、金色の物体を強く胸に抱き込む。じっと煙草をくゆらせる人を見つめて、頭を下げた。
「お世話に、なります」
はっきりとした言葉に、その人は鷹揚に頷き煙草の火を灰皿に押し付けて揉み消すと踵を返してコートの裾を捌いて歩き出した。どこにいくんだろうなぁ、と思いながら
まあいいか、別に、と追いかけるのをやめてゆっくりとベッドに横たわった。・・・そういえばこのベッドあの人のだよね・・・寝床取っちゃってるんだ。申し訳ないことしちゃってるな、と思いながら、ズキズキする傷口を忘れるように目を閉じる。とりあえず当面は怪我を治すことだけを考えなければ。まぁ、色々聞きたいこともあるんだけど、それは彼が帰ってきたら、色々と尋ねればいい。答えてくれるかは不明だが、それでも聞かなければどうにもならない。ほんと、ここどこなんだろう。洋室なんて一体何年ぶりなのか。そう思いながら瞼を降ろしかけて、はっと気付いて振り向いた。すでにドアから外に出かけてしまっているお兄さんの背中に向かって声を張り上げる。
「あの!」
「ん?」
あ、痛い。ちょっと今傷に響いた。うっと小さく唸りながら、くるり、と振り返ったお兄さんの顔を顰めたまま視線を合わせる。仮面で覆われていない側の精悍な顔が、横目だけで私を捉えた。ドアから入ってくる逆光に多少目を眇めて、おずおずと問いかける。
「あの、あなたの、名前は・・・」
「あぁ」
そういえば名乗ってなかったか、そんな態度で納得したように頷き、その人はくい、と皮肉気に口角を吊り上げた。問答無用に男らしい。ただ口角を吊り上げるだけなのにやたらと色気が漂う様に、なんとなくもしかしてたらし属性?などと思っていると、その人は薄い唇を動かして帽子のつばを引き下げた。
「クロス・マリアンだ」
名乗り終えると、さっさとドアを閉めて出ていってしまったお兄さんにこてんと首を傾げた。そんな私に習うように、金色のそれも首?を傾げる。というか体全体を傾けてるよね。なんか可愛らしい動作だ。そう思いながら金色のそれを突っつき、あー、と低く声を零す。
「・・・・クロス・・・マリアン?」
はて。マリアンさんと呼ぶべきかクロスさんと呼ぶベきか。英語圏ならばファーストネームで呼ぶものなのだろうけれど・・・なんかどっちもファーストで通じそうな名前だよねぇ。そう思いながら、とろとろと置いてくる瞼に抗うこともなく、ゆっくりと意識を沈み込ませて――薄れいく記憶に埋没していた名前など、切欠もなく思い出せるはずもなく。