見送った景色が滲んで見えた




 マリアン先生は綺麗好きだ。というか汚いものが嫌いだ。大抵そうだとは思うけど、汚いものがあると不機嫌になるので、家の中は常に掃除を怠っていられない。徹底的、というほど毎回できるわけではないが、それでも最低限いつも通りに掃除をこなして、椅子に座るとティムをキュキュッとハンカチで磨いていく。磨けば磨くほどピカピカに輝くのが見ていてなんだか楽しい。本人も気持ち良さそうなので、鼻歌混じりにティムを磨いてその金色をキラキラにしていくと、不意にばたん、と大きく扉が開け放たれた。驚いて振り向けば出かけたはずのマリアン先生がコートを翻して無言で押し入ってくる。なんだ?

「あれ、早いですねマリアン先生。忘れ物ですか?」
、出る準備をしろ」
「はい?」

 こてん、とティムと一緒に首を傾げる。いきなり何を言っているのか。明らかに内容を理解していないのはわかっているだろうに、マリアン先生は目の前に立つとそれだけを言い捨てて、奥へと消えていった。しばらく呆然と、意味のわからない先生の行動に瞬きをしていると、ティムがぱたぱたと飛んで私の服を噛んだ。

「え、なに、なんなのティム」

 服を咥えたままティムが引っ張るので、疑問符を飛ばしながらついていく。引っ張られるまま奥に入れば、マリアン先生はトランクに色々と物を詰めているところだった。え?

「な、なにやってるんですかマリアン先生」
、それを持って来い」
「人の質問に答えてくださいよぉ・・・」

 それ、と指差されたクローゼットの中の服を、溜息を吐きながら取り出して畳みながら先生に渡す。それを無言で受け取った先生はトランクに手早く詰めていき、元々荷物の少ない部屋はそれだけでがらんと物寂しい光景へと様変わりをしてしまった。・・・えーと、なんだろうこの今から引越ししますよ、と言わんばかりの状況は。眉間に皺を寄せると、マリアン先生は一服するようにタバコを取り出して煙を吐き出す。私はわけがわからないまま、ティムに促されて小さな鞄にやっぱり少ない荷物(着替えしか私物はないが)を詰めて、首を傾げた。・・・だから、一体なんなのこれは。

「えっと・・・?」
「準備はできたか」
「え、あぁ、はい。あの先生、だからこれは一体どういう・・・」

 鞄を持って、ティムを頭に乗せながら再度質問を試みるが、質問はどんどんどん!という大きなドアを叩く音にかき消された。乱暴なノックにびくっと体を揺らして慌てて後ろを向く。
 入り口を目を丸くして見つめれば、「おいこらクロス・マリアン!!出てきやがれ!!」という怒鳴り声が聞こえてくる。聞いたことがない怒声に思わずぎゅっと肩を竦めて鞄を抱きしめれば、ちっとマリアン先生は舌打ちをした。それにはっと気付いて上目に彼を見上げる。この人、何やらかしたんだ・・・?!

「もうきやがったか」
「ちょ、先生なにやらかしたんですか?!」
「ちょっと金を借りただけだ。肝の小さいやつめ」
「は?」

 どんどんどん、という音からしまいには、ドアを蹴る音にまで変化して、玄関先では口汚い乱暴な罵りまで聞こえてくる。はっきりいって脅し取ろうという魂胆がわかるほどのそれに、えーとそれはつまり、と口元の筋肉を引き攣らせた。先生は面倒だな、という雰囲気を隠しもせずに溜息を零して、片手にトランクを抱え、片手に―――私を抱えて、よいせ、と窓枠に足をかけた。おいおいおいおいおい。ちょっと待てあんた。

「ちょちょちょっ!!先生なにやるつもりですかっ。てかもしかしてあれって借金取り?!」
「黙ってろ。舌噛むぞ」
「いや、あのちょっとまっ、・・・・・・・ひぎゃああぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁ!!!!!!!!

 なんの躊躇もなく飛び下りやがったこの男おぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!
 人の制止も聞かず、窓枠から軽々と身を乗り出した先生に小脇に抱えられたまま落下していく。ばさばさとスカートが翻り、髪が風に煽られて額が丸だしになる。打ちつける風は冷たく強くて、急激な落下感に腹の底から悲鳴が零れた。怖い怖い怖い怖い怖い怖いここ四階なんだよせんせええええぇぇぇぇぇ!!!!!!!!二階ならまだしも四階!!足折れるどころじゃすまないからあぁぁぁぁ!!!迫り来る地面が恐ろしい。何より縋りつくものがなくて、抱えた鞄を強く強く抱きしめるしかないのが余計恐怖感を煽る。涙が浮かぶが端から吹きつける風に乾いていって、頭が真っ白になった瞬間にとん、という着地音がしてぐっとお腹に腕が食い込んだ。ぐえ。

「お前が叫ぶから気付かれたじゃねぇか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 答える気力がない。呆然と、小脇に抱えられたまま真下の地面を見ていると、先生はそのまま人の様子も見ずにさっさと走り出す。がくがくがくがく、と振動と共にお腹に食い込む腕が非常に痛いのだが、その痛みのおかげではっと我に返った。いやいやいや、なんなのこのアクション映画みたいな展開?!

「先生!!いきなりなにすっイッ!!」
「舌噛むって言っただろうが」
「う~~~」

 上下に揺れる反動でガチッと舌の端を力加減なしに噛んで咄嗟に手で口元を覆う。上から呆れた声が聞こえたが、それに反論する気力もなく痛みをやりすごしながら、流れていく景色を垣間見た。
 なんだ、なんなんだこれは。一体どういう状況なんだ。わけがわからないというかわかりたくもないというか。乗り心地は最悪な先生の小脇に抱えられるという移動手段で強制的に街の中を疾走しながら、道行く人の驚きの視線が注がれるのに、うわぁ、と顔を引き攣らせた。
 非常に居た堪れない。というか、この人、四階から飛び降りてなんで無傷?というか普通あの着地音はなくない?もっと派手な音とか衝撃がくるだろう。なんだあれ。ぐるぐるとわけもわからぬまま思考を回していると、ふと後ろから待てえぇ!!という怒号が聞こえた。咄嗟に首を捻って後ろを見れば、明らかにヤのつくご職業っぽい風体の男の人達が数人、追いかけてきている。般若の形相とはあれのことをいうのではないだろうか。瞬きを繰り返して人を抱えているマリアン先生を見上げる。えーと。

「・・・・・・・・・・まじ?」

 呆然とした呟きは、そのまま走る風に掻き消されて誰に届くこともなかった。
 あぁ、流れる景色に感慨すら浮かばないよ・・・・・・・。お父さんお母さん、彩雲国の皆、そして京の皆、聞いてください。私は今、人生で初めて、借金取りなんかに追われちゃうような事態に陥ってますよ?
 冷静に状況を把握できたのは、汽車に乗ってガタゴトと揺すられるようになってからだった。あの、先生。お願いですから最低限の説明ぐらいしてください。流れる車窓の風景に、思わず涙がちょちょぎれそうになった。