夕暮れの影




 夕飯の買出しの為に歩いている道の向こう側、はっきりいって格好その他諸々から浮きに浮きまくっている長身の人物を見つけて、あ、と瞬いた。金縁の長い漆黒のコートに、背の低いシルクハットのような帽子。好き勝手に伸びて遊んでいる燃えるような鮮やかな赤毛は道行く人の中で一際目立っていた。
 何より立って歩いているだけで雰囲気のある人なんてそう多くない。歩く度に後ろに流れる煙は傍迷惑だと思うけれど、睨まれては敵わないので何も言わずに前方でマイペースに歩くその背中に向かって小走りに駆け寄った。マイペースとはいっても、リーチの差は如何ともし難く、また歩くペースは非常に早い。他人のことを考えないからマイペースというのだ。追いつくにもそれなりのスピードを出さなければならず、買い物籠をぽんぽんと跳ねさせながら声をあげた。

「マリアン先生っ」
「ん?」

 駆けよって置いて行かれないようにマリアン先生のコートの腰の辺りを掴む。この人と共に歩く内に、はぐれないように、また置いて行かれないようにコートのどこかしらを持つのが癖になってしまった。
 だって人のこと考えないし、この人。リズ先生並に大きい上に、今の私はあの頃よりもずっと小さい。なので余計に首を大きく後ろに反らせなければならないのだが、もう慣れた。
 一応足を止めて振りかえってくれた先生が視線を下に落とすので、にこりと笑って少し弾んだ息を整える。

「今から何処かに行くんですか?それとも帰るんですか?」
「帰るところだ。お前はどうした」
「買い物です。珍しいですね、こんなに早く家に帰って来るなんて」
「そういう気分だったからな」

 会話しながらも歩き出すので、結局やや小走りになりながらついていく。先生って本当、足長いよなぁ。いつまでも首を上に向けているのは疲れたので、顔を元の位置に戻しながらしっかりとコートを握り締める。擦れ違う人が少し不思議そうに私達二人を見やっているが、ちら、と見るだけですぐに視線は外れていった。まあ確かに、一見してマリアン先生の風貌は小さい子供を並べておくような容姿ではない。それよかフェロモン系美女を横において花街でも歩いていそうな感じだ。おまけに私は完全なる東洋人。ミスマッチもミスマッチだろう。

「先生、私買い物していきますけど、先生はこのまま帰ってますか?」

 先生と八百屋とかお肉屋さんとか、なんて似合わない。問いかけると先生はタバコを指に挟んで一息吐いて、しばらく宙を睨むといや、と低く呟いた。

「酒が切れたからな」
「またですかぁ?もう。高いのは無理ですよ」
「ぁん?・・・止めないのか」
「止めても買うくせに・・・。今日は臨時収入が入ったんで、少しぐらいならいいですよ」

 そんな珍しそうに見ないでくださいよ。誰が口煩くさせてると思ってるのか。大体、基本的にそこまで禁止にはしていないのに。マリアン先生のお金遣いの荒さはもう身に染みてわかっているし、拒否しても問答無用だったりするんだから最低限の生活費以外は全部渡しているのだ。
 えぇ、最低限さえも手をつけようとした時は本気で逃げたけど。はあ、と溜息を零して心なしか嬉しげな先生は軽くスルーし、八百屋に近づく。ひょこ、と顔を覗かせるとここ何日かで顔見知りになったお店の人はまたきたか、と笑みを浮かべた。東洋人の、しかも子供は物珍しいらしく、顔を覚えられるのも早い。
 会話も聞き取りもまだおぼつかないけれども、このお店の人は割りと人が好いらしく、わかりやすくゆっくりと発音してくれるし、買うだけならばアクションだけで大体通じるものである。目下目標は物の値切りがスムーズにできるまでになることだ。それに、笑顔でいれば大抵相手も不快に思うことは少ないので、そんな大きな問題にはなっていない。
 明るく元気に人当たりよくしていりゃー人間関係なんて大抵上手くいくもんだ。しかし、今日は少し違った。
 八百屋のおじさんは私を見つけると笑みを浮かべたが、次の瞬間には驚いたように、意外なものを見る目で私の横を見た。丸くなった目は最初に私がここを訪れた時のようだと思う。
 なんだ?と首を傾げておじさんの視線の先を追えば、今だコートを掴んだままのマリアン先生がいた。・・・あぁ。そういやこの人とこんなところにくるなんて今までなかったな。そりゃ珍しいわ。
 風体は怪しいことこの上ないのだけど。だって顔の半面が仮面。オペラ座の怪人かよ。何故か立っているだけなのに微妙な迫力も備えているわけだし。なんとなく微妙な空気が流れたが、事の原因は素知らぬ顔で顎を軽くしゃくる。

「さっさと買うなら買え。何固まってるんだ」
「・・・・・・」

 マイペースだな、本当。はぁ、と溜息を零すと眉を動かし睨まれたが、故意に視線を逸らしておじさんに笑顔で野菜を指差す。そうすると、相手もさすが商売人といったところか。
 さっさとマリアン先生から視線を外すとにこやかに野菜を差し出してきた。笑顔で頷き、代金を払う。今日は、出きる限りの和食に挑戦である。調味料が心許ないのだけれども、やればできるさ。てーかお米と魚があればできる!今度移り住むならアジア圏内がいいなぁ、と思いながらニコニコと野菜の物色をすると、おじさんは微笑んでマリアン先生に向かって言った。

「いやぁ、随分としっかりした娘さんで、お父さんも鼻が高いでしょう。うちの娘もこれぐらいしっかりした子になって欲しいもんです」
「・・・あぁ?」

 ニコニコニコニコニコ。至極楽しそうに、マリアン先生に向けて世間話をする八百屋のおじさんは最後に私の頭にぽん、と手を置いてくしゃくしゃと髪をかき乱した。そしてお父さんと仲良くな、的なことを(多分)言って更におまけまでしてくれた。私はポカンと目を丸くして、おまけに、と手渡された林檎を一個持ちながら、マジマジとマリアン先生を見る。彼は別にどうってことないようにタバコをふかして、済んだなら行くぞ、と人のことなど省みもせずに歩き出した。その傲慢な後ろ姿を見つめて、遠のいたところではっと気がついて慌てて駆け寄る、が。

「どこに親子要素が・・・!」

 微塵にも似てないじゃないか?!相手西洋人な上に赤毛、私東洋人で黒髪!!明らかに顔立ちにも似通った部分ないでしょ?!仮に母親似にしても、あまりにもマリアン先生要素がなさすぎだと思うんだけど、ねぇ?!ていうか、私中身はこれでもそれなりに年食ってるんだけどなぁ。
 けどいつまで経っても子供っぽいのは何故なのだろう。やっぱり大人特有の世間の荒波というものを味わっていないからか?いや、でも不本意極まりないが経験だけは色々としてると思うんだけど、・・・そうか、特殊な経験過ぎるのがいけないのか。一般的な経験を積めということなのね・・・!

「でもマリアン先生が父親は勘弁して欲しいなぁ・・・」
「どういう意味だ」

 上から降ってきた低い声に、ギクリと肩を揺らして顔をあげる。じろっと見てくる目の凶悪さに、本人に睨んでるつもりはないのだろうけれど睨まれているような心地を覚えて、あぅ、と小さく唸った。

「あ、あれ?・・口に、出してました?」
「はっきりとな。俺が父親じゃ不満か?ん?こんなイイ男が父親で自慢だろうが」
「保護者ではありますけど、父親ではないじゃないですか・・・」

 言いながらくぃ、と口角を吊り上げるマリアン先生に、曖昧な返事を返す。いや、まあ容姿だけでいうなら確かに自慢できないこともないと思うけど、性格その他諸々がなぁ。それなら家事能力がないと言われる邵可さんの方が父親に欲しいぐらいだ。
 しかし言うと何をされるかわからないので、笑って誤魔化しておいた。けど明らかに明言を避けたのがバレバレだったので、軽く頭を叩かれた。痛い。ティムキャンピーが気遣うように周りを飛ぶのに、大丈夫、と答えながら理不尽だ、とぼやく。やっぱりこの人が父親なのは勘弁して欲しい。どえらい苦労をしそうだ、本当。
 女好きで金遣いの荒い、ダメ親父そのままじゃないか。はあ、と溜息を零してさて次は何を買おうか、と考えながらひらひらと揺れるマリアン先生のコートに手を伸ばし、

「―――ッ、」

 布地に指先が触れた瞬間びくりと強張った。掴み損ねたコートが遠のく。けれどそれを追いかける間もなく、背筋を駆け巡った悪寒ともいえないおぞましさに、喉が不自然に引き攣った。
 振り返る。道行く人は伸びやかに、夕陽に照らされた街を歩いている。長く伸びた影が様々に入り乱れる様は、まるで故郷のように懐かしく視界を侵し。その影に紛れ込むようにこちらを見ている人影に、ヒュゥ、と息を吸い込んだ。―――黒い、影。


「・・・・・!」

 酷いデジャ・ビュにかられて心臓が縮みあがる。産毛が逆立ち、思い出す畏れ。吐き気を覚えそうなそれは、けれど寸前でかけられた低い声に飲み込んでぎこちなく振り向いた。
 少し離れたところで、マリアン先生が佇んでいる。ついてきていないことに気付いたのだろう。体を少し捻って後ろを見ていた先生は、怪訝そうに眉を潜めてタバコの煙を吐き出した。

「――どうした」
「・・・・ぁ」

 低く、落ちついた声が問いかけてくる。上から物申す風情にパチリと瞬きをして、小さく唇を戦慄かせた。擦れ違う人が、立ち止まっている私達を怪訝そうに見やる。ぞわぞわと背筋を這う不快感。覚えがある、おぞましいもの。
 ――そこに、いる。思い至った瞬間、弾かれたようにマリアン先生の元まで駆け寄った。先ほど掴み損ねたコートではなく、体の横で無造作に揺れている大きな手を取ってそのままぐいぐいと引っ張る。多少驚いたようにマリアン先生が片目を見張ったが、私は気にしていられるはずもなく早足に駆け出した。

「おい」
「は、早く買い物すませちゃいましょう先生!お酒も買いにいくんですよね?安いところ知ってるんです。あぁ今日のご飯は魚ですから、白いお米もあるんですよ!」
「おい、
「お摘みも作りますね。マグロと塩って結構合うんですよ。ゴマ油もかけて・・・」
「―――

 低い声が、はっきりと。静かに、引きとめるように。呼ばれた名前に、くしゃりと顔が歪む。
 唇が震える。目の奥が僅かに熱い。けれど泣けるはずもなく、一つ息を吸い込んで困り顔で微笑んだ。静かに、じっと見下ろしてくる視線が痛い。あぁ、まだ、ざわざわする。怖い。そこにいる。あれがいる。きっとそこに、こんなところにまで。あぁ、どうして。ぎゅっと、強く、マリアン先生の手を握り締めた。ぐいっと、引っ張る。億劫そうに、あまり自分で動く意思がないかのごとく冷静な様子に少しの苛立たしさを覚えながら。懇願するように、俯いた。

「早く、帰りましょう、先生・・・っ」

 ここにいるんです。あれがいるんです。どうしているのか知らないけど、わからないけど。
 あぁ、どうして見つけてしまったのだろう。どうして気付いてしまったのだろう。知らないまま、気付かないまま。いつか帰る日を夢見て、この慣れた日常を過ごしていければよかったのに。
 たったそれだけが、望みだというのに。視線を逸らして前を向いた。真っ赤に燃える太陽の眩しさに目を細め、何も言わない先生の手に縋る。煽られる不安。脅かされる内。思い出す、恐怖。あぁ、――――何故。
 一つ後ろで零れた溜息に、きつく唇を噛み締めた。何度も見た。かつてはこの手で葬りもした。いくつもの傷を与えられ、いくつもの傷を与えたもの。恐ろしく、おぞましく、哀れで、悲しい、存在。記憶に繋がる、一筋の涙。


あれは紛うことなき、暗く淀んだ魂の慣れの果てだった。