月影シルクハット
伸ばした腕が虚空を掴む。じっとその手を見つけて、口元へと下ろした。握った拳を唇に押し付けてきつく目を閉じる。窓の外の仄かな月明かりさえなくなり、真の闇が迫るように思えてすぐに開けてしまったけれど。瞬きを何度か繰り返して重い溜息を零した。これで一体何度目だろう。
しばらく見ることも少なかったはずの悪夢が、ここ最近富みによく見るようになった。原因はわかっているけれど。のろのろと体を動かしてソファのスプリングが軋んだ音に耳を傾ける。揺れを感じながらいささか乱暴に掛け布団を跳ね除けた。むしろ蹴った。くそ暑い。暑いのは単に悪夢ゆえの寝苦しさのせいだろうけれど。
いやな汗掻いた。本当にいやな汗だ。背中が冷たい。汗が冷えたせいだ。お腹壊したらどうしよう、と割合とどうでも言い且中々大きな不安を覚えながら枕元でぐーすか寝こけてるティムキャンピーを一瞥した。・・・・寝てるよね?果たして本当に寝てるのかわからないけれど微動だにしない辺り多分寝ているのだと解釈して、しばらくその丸いフォルムを見つめた。鳥の羽を模したような頭の上の翼は折り畳まれて、短い手足を更に縮こまらせて眠る姿は何かの愛玩動物かと思う。ペット?ペットなのか?まあ和むけど。
でもびっしりと生えた鋭い牙はちょっと怖い。くだらないことをつらつらと考えて、考えて考えて―――溜息を一つ。のっそりとベット代わりのソファから下りてフローリングの床に足をついた。
裸足の足が冷たく冷え切った床板に触れるとぞくりと寒気が走る。奪われていく体温を惜しむ事もなく、無言でソファから立ちあがるとティムキャンピーもそのままに、ふと奥へと続くドアを見た。
たった一室だけの寝室はマリアン先生の寝床で、やっぱり一つしかないベットは当然のごとくあの人が陣取って寝ている。今頃伸び伸びと寝ているんだろうなぁと思うと少し恨めしい気もしたが、一緒の部屋でなくてよかったとも思う。もしも同じ部屋に寝ていたとしたら、今回のようなことはそうそうに気付かれて起こしてしまっていたかもしれない。そうなった場合何をされるか。
恐ろしい。多分あの人ならば人が悪夢に魘されていようが泣いていようが素知らぬ顔というか至極どうでもよさそうな態度を取っていそうだが、起こしたくはない。ついでに知られたくもない。たった一枚の壁だが非常にありがたいと思え、無意味に胸を撫で下ろした。
それから裸足であることを思い出して靴を履こうかとソファの横に並んで置いてあるそれを見下ろしたが、なんだか急に面倒くさくなってそのまま放置することにした。大体日本人は部屋の中で靴なんか履かないんだ。スリッパだって洋式が入ってきたから多用するようになっただけで、実際はずっと裸足だったわけで。
そう思うとそのままぺたぺたとカーテンのかかっている窓まで近寄った。別に誰に迷惑かけるでもなし。汚れようが多少のことなど気にしない。
一応部屋が違うからそんなに注意しなくてもいいと思うが、それでもなんだか気配には敏感そうなマリアン先生に配慮して、息を潜めるように注意深く窓まで行くと、そっとカーテンを持ち上げてその裏側に入り込む。
真っ暗に近かった室内とは裏腹に、今日は満月だったのか異様に外が明るい。濃紺の夜空が少しだけ白く濁って見え、月明かりに、やはり白く輝いて見える家々の屋根に目を細める。透明度の低い、古びた硝子窓に遮られた向こう側は、室内と似たような沈黙を保っていた。静かだった。恐ろしいぐらい。誰か一人でも出歩いてはいないものかと思ったが、そんな人影もなくチカチカと点滅する街灯の、細長い影がいくつも等間隔で伸びている。窓枠に肘をついて薄汚れた窓を指先できゅきゅっと拭った。少しクリアになったそこから、外の風景を眺める。
見上げた月は本当にどこの世界でも変わらないもので、それが等しく奇妙に感じながらもどこかで安堵を覚えた。しかしこの嵌め殺しの窓はなんとかならないものか。開かない窓に外の空気も吸えやしない、と愚痴を零してしばらく黙考し、やがてゆっくりとカーテンから外に出た。
その際シャッとカーテンレールを滑る音が聞こえたが、大して大きな音でもないから別にいいだろう。ソファまで戻り、靴を履いてトントンと爪先で床を叩く。すっぽりと収まると無言で足音もたてずに玄関まで向かった。鍵を開けてなるべく静かに扉を開ける。それでもどうしてもたってしまった蝶番に咄嗟に後ろを向いたが、マリアン先生の私室へと続く部屋の扉が動くこともなければ、ソファの上のティムキャンピーが起き出す様子もない。ほっと詰めていた息を吐き出してそろそろと外に出た。途端室内の空気とは違う動く冷えた空気を感じて、今までずっと潜めていた息を大きく吐き出した。
とてとてと歩いて玄関前の数段しかない階段の上に腰を下ろした。よいせ、と声なんかあげちゃって年かなぁ、と思う。中身はあれだからねぇ。仕方ないか。
そう思いながら冷たい空気を肺に取り込み、はぁ、と声に出して溜息を零した。嫌になる、と呟いて膝に顔を埋める。
「いつになったら忘れられるんだろう」
一生そんな日はこないのかな、やっぱり。ぎゅっと拳を握り締めて掌に爪をたてる。
私が私である限りずっと一生付き纏うのだろうか、この悪夢は。忘れられない記憶は血の色が濃く鮮やかで、薄目をあけて見つめた手に血など一つも付着していないはずなのにまざまざと、それがべったりとついていた時のことを思い出した。
気持ち悪くなって目を逸らす。気持ち悪い。鮮やかなとはいえない、少し黒くなった赤い色。大量の血は鮮やかなというよりは、どこか赤黒かったように思うのだ。多分それは量がありすぎたから深く濃い色に見えたのと、空気に触れて酸化か何かしてしまったのだろうと思う。
自分の中にもあれと同じものが流れているのだと思うとどうしようもない気持ちにさせられたが、諦めも覚えてカチカチとなる歯を食い締めた。
人を殺したことを忘れない。忘れられない。忘れたいけれど、あの真っ赤な血と見えた肉の動きと濁った目、血の色をした泡をふく人のわけのわからない悲鳴、自分が行った殺人という罪悪は、じくじくと傷を抉っては治させてはくれない。治ったかと思えば今日みたいに夢に見るのだ。
忘れるのなんか許さない、といわれているようだ。ごめんなさい、と何度謝っても謝っても許されない。贖罪など無意味なのだといわれている気がした。罪は罪だ。ずっと一生消えないのだ。
ずっと自分の背中に張りついて、なくならない。重たい。重た過ぎる。汚らわしいものに触れているようで思わず自分の腕を擦ったが、一度思い出すと止まらなかった。ガクガクと体が震えて記憶が遡る。胸に押し寄せる不安と恐怖。言いも知れない底無し沼のように、形のないそれが胸を覆い尽くして堪らない。うぅ、とうめいて浮かびかけた涙をひたすら手の甲で拭った。
死者の顔は死んだおじいちゃんやおばあちゃん達のように安らかではなかった。眠っているよう、なんてお世辞にも言えなかった。開ききったままの瞳孔は動かないし傷口はありありと見えて血溜まりが広がっていく。そしてその自分が殺した人間をずっと見ることもできずに次に襲いかかる自分を殺そうとする人に刃を向ける。もう嫌だ、と叫んだところで助けなどくるはずもなく、もう殺さないでいいよ、なんて優しい言葉がかけられるはずもなく。胃の中のものを吐き出して酸っぱい胃液が出てくるまで吐いて吐いて吐いてそしてまた人殺しをする。
最悪なのは人殺しだけでなく、怨霊などというおぞましい、人じゃないものとまで戦わなくてはならないことだ。それこそそれは自分にしかできないことだったから、益々逃げ道なんてものはなくて逃げたらきっと軽蔑されて逃げるなと怒られるのだ。お前しかできないんだから、と。お前が決めたことだろう、と。それがまた怖くて結局私は、またやりたくもないことをやる羽目になる。
今まで平和だったから、そんな血生臭いこととは少し、縁遠かったから。忘れはしなくても忘れたフリぐらいはしていられた。悪夢を見る回数もあの頃に比べれば減った。ただ時折あの悪夢に混ざって見るのは両親を殺された一夜だけれど、どうして私の過去に血生臭いことはついて回るのだろうと絶望を覚えたのは極々最近のことだ。震える手を組み合わせてぎゅっと握り締め、口元に押し当てる。
―――ここ最近、よく見るようになったのは間違いなくあの日の影のせいだろう。どうしてこんなところにまであんなものがいるのか知らないけれども、出てくるなと罵ってやりたい。私の前に現れるな。存在するぐらいならいいけどお願いだから私の傍にこないで欲しい。
近寄らないで、思い出させないで、お願いだから、後生だから。あれさえなければきっとこんな悪夢、いつも見ることなどなかっただろうに。そういえばあの後家に帰ったら、食事の準備をしている間にマリアン先生は何処かに消えてしまっていた。帰ってきたのは深夜過ぎ。何をしに外に出たのかと思ったけれど、問いかけるには・・・どことなく、彼の纏う空気が恐ろしかった。
いや、彼自身は至っていつも通りだったのだ。ただ連れてきた何かが、不穏さを帯びていたように思う。見えたのは穢れた何か。そうと知られないようにコートを受け取り、埃を叩き落として浄化に努めてみたけれど。どうしてこんなものがこの人に纏わりついているのかと、思いながらも聞けやしない。それはもしかしてあの人の太腿にあるホルスターの、銃に関係するのかもしれないが。
最初にあの銃を見つけた時はこの人本当に一体何者?!と思ったが。(絶対なんかヤバイことしてると思った)聞いたら何かが粉々になってしまいそうで、怖くて聞けずじまい。
それでいいと、自分に言い聞かせた。それでいい。知らないなら知らないままの方がいい。
きっと、それが一番平和でいられる方法なのだ。いつか知る日がくるのだとしても、それは遠い遠い先の話であればいい。そんな願いと共に、知らないフリを続けて。続けて続けて逃げてひたすらに逃げて。それが良い事なのかは知らないけれど、少なくとも自分の中の一線を守れているから、私は逃げることを止められないだろう。
弱くて何が悪いというのだ。弱いもんだろう、大概は。強くなりたいなんて思わない。自分の嫌な事からは逃げ出してしまいたい。当然の心理じゃないか。当たり前を受け入れてはならないの。甘えて何がいけないの。―――だって私、頑張ってたじゃないか。昔、そう昔。弱音も吐かず(吐けず)逃げもせず(逃げられず)自分の命を賭して、頑張ったじゃないか。ならこの生涯は逃げても許されると思わないか。
「ま、言い訳だけど」
それでも、真っ向から向き合うには、私には無理だった。目を閉じて数秒。開けて瞬きを数回。明るい月を見上げて吐息を零して。
「・・・ん?」
屋根の上に何か奇妙なシルエットを見つけて眉宇を潜めた。なんだあれ。あんなものあそこにあっただろうか。一瞬風見鶏か何かかと思ったが、それにしてもやたらと大きい。
どちらかというと人が屋根の上に立っているような感じだ。・・・・なんか太いというか、丸いけれど。目を細めて真夜中に屋根の上にあるものに目を凝らす。幸い月明かりが明るいから、見ることにそう大した苦労はなかったけれども、不気味だと頭のどこかで警鐘が鳴った気がした。
横に丸々としたシルエット。手足はそう長くないような、なんというか・・・何かのキャラクターかと思うような、形だけ見れば愛らしくも見える。縦に長いのは頭の上に乗っているシルクハットで、あんなに長いものなのかーと思いながら呆然と見つめた。ついでに横に細長いものが、シルクハットの影の下に二つ、左右から生えていたがあれは果たしてなんなのだろうか。
位置的には耳のポジションだがさすがに人間であんなに長い耳はないだろう。きっと。・・・ていうかあれ人でいいのかな?なんでこんな真夜中に屋根の上?お月見でもしているんだろうか。・・・どこからどう見ても不審者だ、と思った。
今更だが怪しい。さっきから何かざわざわと肌もざわめいているし、そうそうに家の中に戻った方がよさそうだ。―――背後に何かが迫りくるような、不安感がある。よいしょ、と立ちあがり背中を向ける。
何か見てはいけないものを見てしまったような心地で、けれど最後、怖いもの見たさで・・・あるいはまだそこにいるだろう、という確認のようにちら、と後ろを振り返った。・・・よかった。相変わらず奇妙な人影のシルエットは屋根の上にあり、ほっと胸を撫で下ろした。
もしかしたらただの銅像か何かなのかもしれない。普段屋根の上なんか気にしないから、見ているようで見ていなかったのかも。明日は朝になったら確認してみよう。そう思いながら視線を外そうとしたが、不意に。
「・・・っ」
それが、振り返ったような、気がした。遠目だし、月があるとはいっても暗いし、よく見えないはずなのに。振り返ったそれは何故かとても、とても笑顔であったような気が、した。
慌てて前を向いて、どくどくと騒ぐ心臓を服の上から押えつける。なんだ、すごい嫌な汗が今どっと噴出しているようだ。まずい。何かわからないけど、だけど私は今、決して見てはならなかったのだ。どうしよう。危険だ。何かが危ないと私に付ける。急がなければ。そう思う。急いで中に入って、鍵を閉めて、ソファの上に戻らなければならない。ティムキャンピーを抱きかかえて、眠らなくては。ううん。眠らなくてもいい。とにかく、ここから、この場から、一刻も、早く。
そう思うと止まっていた足が、電流が走ったようにびくんと震え、動き出す。階段の上に足を置き、駆け上がって。飛び込むように、室内へ。
「こんな夜更けに一人で出歩くと、危険ですヨ❤」
入り込んだと思ったのは、気のせいで。危険なのはお前じゃないのか。
そんな軽口も浮かぶはずがなく、背後に突然聞こえたやけに軽軽しい声に、私はひゅう、と短く息を吸い込んだ。
―――振り返れない。振り返ると、何かが取り返しがつかなくなりそうで、私はその場から一歩も動くことができずに、米神を伝う汗の緩やかな軌道を、感じていた。