突き抜けた。




 普段は気にもしない鼓動がやけに気になる。どくどくどく、と常よりも早い脈拍にそっと胸元に手を押し当てようとして、ピクリと指先が動いただけで終わった。凍ったように動かない。
 その事実に今自分がどれほど緊張を強いられているのかがありありとわかり、唇を戦慄かせた。

「どうしたんですカ❤」

 聞こえた声に、振り向くだけの余裕がない。背後にいる。誰かがいる。その誰かは、とにかく何か危ないもののような気がして、警鐘がひたすら脳内に響いている。ふと、どこかで聞いたことがあるような声にも思ったが、それよりも何よりも背筋を伝う悪寒にそれどころではなかった。
 なんだ。これはなんだ。なんでこんなにも怖いんだ。確かに怪しい。今までいなかったはずの背後に人がいることも、やけに明るく楽しげにかけられる声も。全部が怪しいのはわかっている。
 不審だ、不自然だ。警戒するのは当然だ。だけど、どうしてこんなにも振り向くことを拒絶しているのか。それはわけがわからない、理由の見つからない恐怖だった。どうしてそう思ったのか。わからないからこそ動けなかった。しいて、そう、しいていうのならば。

「どこか具合でも悪いのですカ?」

 それは全くの不意打ちだった。背後の存在はひょいっと、軽く前から顔を覗き込んできたのだ。
 高いシルクハットの帽子、丸い眼鏡に、四角い顔。耳まで裂けているように大きな口は始終笑顔を浮かべ続け、そして人には有り得ないほど長い耳がピン、と帽子の下から伸びている。
 あぁあの影の不自然な突起物はこの耳だったのか、と瞬きをした。まさかそう来るとは一切考えていなかった。振り向きさえしなければいいと思っていたからだ。向こうから何かアクションを起こす可能性を一切考えていなかったが故に、引きつった声がやっとの思いで喉から零れ落ちた。びくりと肩が跳ねて後ろに下がる。けれどもその肩がとん、と何かに触れてしまい、さらにびくびくっと体を揺らして勢いでその場から離れた。そうして、やっとまともに視界にそれを納める。
 洋ナシ型といえそうな体型、裾の長いコートを着込んで、片手には日傘(雨傘?)を持っている。その日傘の持ち手の先はかぼちゃのワンポイント。どことなく季節外れのハロウィンを思い出した。
 見た目だけを見てみればコミカルでちょっとダークなキャラクター風である。だからつまり、ハロウィンだとかそういうところで見かけるような。まるで絵本の中から抜け出たような人物は、やはり口裂け女のように耳まで裂けた大きな口で笑顔を浮かべていた。目の奥は微妙に眼鏡でみえず、いいも知れない不気味さが際立つ。唇を僅かに開いて戦慄かせ、私はぎゅっと胸元で拳を握った。

「・・・・っ、ぁ、あ、・・・だ、だい、じょうぶ、です・・・っ」
「そうですカ❤それはよかっタ❤」

 なに返事してるんだ私いいぃぃぃぃ!!!反射的に答えた自分に軽く自己嫌悪しながらも、シルクハットのつばを押し上げて、閉じてるときってあるのかな、と思う口が動くのを垣間見た。
 なんだろう。とても目の前の相手が現実のものとは思えない。キャラクター染みた姿だからだろうか。確かに質感も立体感も備えてそこにあるのに、人であるとは思えなかった。こんな存在がいるのかと、目を丸くする。人じゃない、絶対人じゃない。あんな耳であんなに口が裂けてこんなにも、不気味な人間がいるはずがない。ではなんだ。なんなのだ。
 これは、何者だ。鳴り続ける警鐘に、眉間に皺が寄る。・・・しいていうのならば、この男性、この人物は、怨霊に何か近しいものを覚える。
 けれど、あぁしかしあの恐ろしくも哀れな魂の嘆きなど微塵も聞こえないし感じないのだ!それはとても似ているのに、不思議なほどに凪いだ気配。
 ならばこれはあれではないのだろう。しかしあれと同じぐらい、それ以上に、不安感を煽るのはどうして?いや、それ以前に。・・・どこかで見たことがあるような気がして、ならない。そう、私はこれを知っている。どこでだ。どこで見た。何で見た。どうして私はこれに「見覚えがある」などと思ったのだ!!
 喉まで出掛かる答えは、けれど言葉にはならない。もどかしく眉根を寄せて、じりじりと相手から距離をとる。怖いのだ。不安なのだ。
 どうするにせよ、怪しい人物である以外に答えはなく、ならば逃げるのは当然のはずだ。ただそんな、警戒心も露にしている私を見ても、それは至って平然としていて、笑いながら(そう、それはまるで牙も爪もない小動物を哂うように!)首を傾げた。わざとらしいぐらい可愛い仕草だった。

「こーんな夜更けに1人で外に出るなんて、とっても危ないですヨ❤最近は物騒な世の中になりましたかラ❤」

 真っ当な台詞のはずなのだがどうにも胡散臭い。これを怪しまずに何を怪しめばいいのか、というぐらい胡散臭い。何も言い返すこともできずに、唇をぎゅっと引き結んで後ろに下がった。
 わかっている。家の中には帰れない。なぜなら玄関へと続く道にこれが立ってしまったからだ。遮られている。計算なのか偶然なのか、それはわからない。だけど家の中には入れない。その横を抜ければいい話だが、どうしてか近づきたくなかった。
 そもそも通してくれるのかすらわからない。けれど、この暗闇の中、ここから離れることも恐ろしかった。なんだ。何かが違う。
 先ほどまで静かだった街中が、同じ静寂であるはずなのに今は何かが違っているような気がしてならない。おどおどと視線を泳がせる。深い深い闇がある。
 そこら中に影はあり、ちょっと遠くの家々の間など、もうわからない。月が照らす道や屋根は明るいのに、けれど闇はすぐそこに凝っているのだ。―――なんだ、このいいも知れぬ不安感は。
 ざわざわと背筋を這い回る感覚が気持ち悪い。胸のもやもやが大きく肥大化していく。――逃げられない?ひゅっと息を飲んだ瞬間、それはニンマリと笑った。


「だから――迂闊に1人になると、頭からパクリと食べられてしまいますヨ❤」


 何に、とはいわなかった。ただ楽しげに愉快そうにそれは口元に人差し指を持ってきて、ニンマリと笑ったのだ。その刹那、ぞわりと先ほどまで正体の掴めなかった不安感が、恐れが、明確な形となって背筋を駆け上がった。悪寒が痺れるように全身を走ると、勢いよく(目の前の存在すらも忘れて!)後ろを振り向いた。あれほど振り向くことを畏れていたというのにっ。

「・・・・ぁっ」

 喉が引き攣る。目を限界にまで見開き、顔から血の気が引くのがありありとわかった。
 暗闇に、1人。チカチカと点滅を繰り返す今にも灯が消えそうな街灯の下に。ぽつんと、人が佇んでいた。着ているものはそこらの人と変わらない。見た目はどこをどうしても人であったけれども、その目に光はなかった。亡羊としてどこを見ているのかもわからない。
 顔の血の気はなく土気色に変わっていて、一切の生気が感じられないのだ。まるで人形のようなその姿。人の姿をした呪い人形だとでも言われればまだ納得もできるだろう。
 けれどそう、多分あれは、人、だったのだろう。息を呑んで後退った。わかっている。知っている。あれは、最早ありふれた人ではない。人であることをやめてしまったもの、止めざるを得なかったものだ。溢れるような陰気の気配を感じる。あの「人だったもの」から、押し留めることのできない、それをする気もないのだろう。悪意、憎悪、悲哀、絶望、渇望、色んなものを混ぜ込んだ怨念が見える。感じる。――その身から、吐き気を催すほどの穢れの存在を、ありありと視覚できた。思わず口元を手で覆い、ぐっとこみ上げてきた吐き気を耐える。あの日あのとき見かけたそれと変わりない。むしろあの時よりもはっきりと認識してしまった分、空気を染め替えるほど陰湿な穢れに、著しく気分が急降下しているのがわかった。
 気持ち悪い。気持ち悪い、苦しい、嫌だ、見たくない、近づきたくない、怖い、怖い、怖い、―――どうして、再び、こんなものを。近くにいるでも直接穢れを受けたわけでもないのに、ただそこにいるというだけで驚くほどの怨念が感じられる。吏部の比ではない。彩雲国でこれほどの陰気など、感じたことはない。これは、そう。京や、あの世界の戦で感じた怨霊と相違ないだろう。まずい。どこをどうしたって、これは危険に他ならない。逃げなくてはいけない。逃げないとダメだ。逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、―――逃げ、

「逃げちゃダーメ❤」

 ひゅぅ、と気道が狭まった。至極愉しげに聞こえた声と共ににゅっと伸びた腕が踵を返した先を遮る。両腕を広げるようにして、進路に立ちふさがるそれ。ニィ、と吊り上った口角。怪しく光る丸眼鏡、そうして不気味に輝く、狂ったような目の奥がくるくると動いて、こてん、と左に首を倒した。

「驚きましタ❤あなた、あれが何がわかってるんですネ❤」
「ひっ・・」
「見たところイノセンスも何も持っているようには見えませんけド。変化前のAKUMAを見破るなんて、どんな「目」を持ってるんでしょうネェ❤」

 頬に指をあてて、今度は右に。首を傾ける仕草はやたらと愛嬌はあるけれども、はっきりいってそれを素直に可愛いなどといえる神経は私にはない。所々なにかこう、聞き覚えがあるようなけれどさっぱり意味不明な単語があったけれども、そこはさておき。今明確にわかった。遅すぎる、というよりもあれに気を取られていてそこまで頭が回転していなかったのだが、あれは、これの仲間だ。これがあれの仲間なのではない。あれが、これの、所有物なのだ。

「伯爵タマ~どうするんレロ?」
「そうですネェ❤色々と気にはなりますけド、東洋の諺にこんなモノがありまス❤」

 唐突に、それの持っている傘のかぼちゃの部分が喋りだした。びくっと肩を震わせて視線を向ける。なんだあれ。喋るのか。目を丸くして、傘と会話をするそれを見つめる。けれども、次の瞬間には色んな意味でそれどころではなくなった。傘をくるりと回して、ばんっとバネを利用して開く。そうして雨も降っていないのに、月光を遮るように傘をさして。びしっと指をたてて、足を揃えて、笑顔でこちらを見た。(最初から最後まで笑顔ではあったけれど)

「出る杭は、手当たり次第に打ちつけろ、ってネ❤」

 故郷の諺を余計なものつけて改ざんしないで欲しいんですけどっ。そんな突っ込みをする前に、心臓の鼓動がさらに早く動き始めた。産毛がチリチリとする緊張感。いつかに培われたものは、その刹那に警鐘を最大限に鳴らした。―――やばい。そう思い、はっと気がついて後ろを振り向いたときには、もうすでに遅かった。街灯の灯がジジ、と音をたてて消える。その一瞬、その場が異常な静寂と闇に満たされた刹那、それは低く、人のものとは思えない唸り声と、言葉にならない断片的なものを呟きながら・・・・・変化、した。いや、現れた、といった方がいいのかもしれない。

「ぃ、あ・・・な、なに・・・っ」

 バキバキと、音をたてて。人の骨格が不自然に歪む。いや、歪むだとかそういう問題でもない。破壊されているようだ。不自然に骨が曲がり、目の光は死んだ魚よりも尚狂気染みた輝きに無感動さを混ぜ込み、背中からいくつもの筒が突き出てくる。みしぃ、と耳障りな音は一体なんだろう。筋の浮き上がった腕の筋肉、あっという間にそれらが弾け飛ぶ。えぐい。人の姿だったもの、人の形が、瞬く間に崩れ去って。現れたのは、明らかに人の形に収まりきらないだろうと思う、丸い・・・・何か。その丸い体に生えているいくつもの筒。あれはなんだろう。銃火器の類だろうか。大きい、空中に浮くそれ。ぽつんと胴体の真ん中に、白い顔が一つ。味気ない顔。

 これは、一体なんだろう。

 人の皮を破って現れたものは、到底人であったものとは思えない代物で。青白い月光に照らされて、不気味な姿が浮かび上がり。逸らせない、目。縫い付けられたように、動かせず。指先が冷たく冷え込んでいく。足がガクガクと震えて、座り込まないのが不思議なぐらいだ。じりじりと後退する。逸らせない目で食い入るようにそれを見ながら、恐怖に頬の筋肉が引き攣るのがわかった。じんわりと目の端に涙が滲む。怖い、怖い、怖い、怖い・・・っ。だめだ、あれはだめだ。怨霊と同じだ。人を脅かすものだ。私を殺そうとするものだ。害を与えてくるものだ。逃げなくてはいけない。私に戦う術などないのだから、戦う力などないのだから。逃げなければならない。死にたくない。殺されたくなんてない。ならば逃げなくてはいけない。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い死にたくない、死にたくなんてない、こないで、嫌だ。こないで、怖い、助けて。誰か。殺される。死んでしまう。向けられた銃口と思しきものに、頭の中が真っ白になった。ただ一言。死、という文字がいやにリアルに点滅している。ただでさえ一度死んだことがある身だ。嫌になるぐらい死体だって見てきた。身近なものも、他人のものも、全部。縁遠いはずの曖昧なものは、知っているからこそ結果を明確に突きつけた。心臓は激しく動いているけれど、指先は冷たい。目尻の涙はすっかり渇いてしまった。見開いた目に、それが近づく光景が見える。ゆっくりと突き出た筒のようなものの口が、向けられる。ガチャン、と構えられた音は空気を揺らして、――張り詰める、糸。何も、考えられない。ただ無情に突きつけられた現実を、呆然と見詰めていた。

「勝手に出歩くな、馬鹿娘」

 呆然としていた私の耳に、不機嫌な声が落ちてくる。ぱちっと瞬けば頭を何かに鷲掴みにされて、ぐいっと後ろに倒された。ぐきっと鳴ったのは確実に首の骨だ。変な方向に倒されて呼吸がおかしな方向に逆流する。

「ふぐっ?!」

 倒れる。というか倒れた。全くの不意打ちすぎだ。なんだ今日は。厄日か。不意打ちが多すぎるぞこんちくしょう。そんな思考は倒れた先で何かにぶちあたって、背中から地面に激突、ということは免れた後に思い当たった。ともかくも、何が起こったのかわからなかった。ただ頭を掴まれて後ろに倒されたから私は上を向いていて、その視界は先ほどまでの変な危険な物体ではなく、見慣れた人物の顎の下を映していた。赤い顎鬚が見える。もう一度瞬きを意識的にすると、闇夜を切り裂き物騒な大きな激しい音が聞こえた。あーなんだろう。景時さんの銃の音みたいというか明らかに銃声音なのはなんでだ。反射的に肩を跳ねさせて耳を塞ぐ。さらにその銃声音の後にやっぱり何かが爆発する音まで聞こえるんだからたまったものじゃない。間近の音は本当に大きいのだ。やばい、鼓膜が破れる。ばっさばさと爆風まで吹いて髪や衣服を揺らした。なんだこれ。近所迷惑とかいう以前の問題で、そうじゃなくてあぁもうなんだ全然意味がわからない。とにかくなんで銃の音がするのかとか爆発って何が爆発したのとか、ここ街中だよね?とかこの人なんでここにいるの、とかさっきのはなんなんだろう、とかもしかして私助かったのかな、とか色んなものがごちゃごちゃになって全然一つに纏まってくれなくて。ポカンと口をあけて、頭を鷲掴む人を見上げた。多分に、馬鹿面だったと思う。

「マリアン、せんせい・・・?」

 呆然とした口調で名前を呼べば、彼は大層不機嫌そうにあぁん?とばかりにこちらを見た。
 ごめん先生。その顔超怖い。ひくりと顔を引き攣らせながらも、心のどこかで、凄く安心している自分がいた。