逃げる術が見つからない。



 ねぇ、どうして私ここにいるんだろう。
 ねぇ、どうして私なの?そこに意味はあるの、意味なんてないの。
 あぁ・・・でも、そんなこと、そんなこと本当はどうでもいいのだと、自分はわかっている。
 意味なんていらない、いる必要性なんていらない。そんなもの、どうでもいい。
 ただ悲しいのは目の前の人が「本物」でありながら「作られたものである」事実。
 ただ苦しいのは「知らないでいいこと」を「知っている」現実。
 ただ恐ろしいのは「自分の命」がまた「脅かされるかもしれない」未来。

 だってここは、人かどうかさえも見分けられないとても恐ろしい世界でしょう?





 言葉にもできず口ごもった私は、俯いてぐっと奥歯を噛み締める。ともすれば目の奥が熱く、何かが零れ落ちてしまいそうで嫌だった。突きつけられた事実と思い当たった現実があまりに無情で残酷で、恐ろしいものであることが嫌だった。ただでさえわけのわからない事態に巻き込まれているのに、ただでさえ頭の中がパンクしてしまいそうなのに。なのにまた知らしめるようにある「漫画の世界」に飛ばされた今が、堪らなく憎たらしく、恐ろしかった。せめてもう少し平和な世界だったらよかった。彩雲国のように、戦いから、血から、死から。遠ければ、よかった。
 だけどこの世界はあの世界以上に血生臭く残酷だ。繰り返される物語があまりにも恐ろしい。
 どちらがマシ、というわけではないけれど、それでも私はただ遠くありたかった。血と死体と殺意。そんなものから、遠くありたかった。―――それを望むことは、してはいけないことですか?
 ただ極々真っ当で、当然の権利を主張しているだけなのに、どうしてこんなことになってしまったの、と嘆く声は止まない。・・・せめてこの人に拾われなければ、と思った。そう思ってしまう自分が嫌だった。決して楽な生活ではないし優しくしてもらえているわけでも、親身になって貰えているわけでもない。色々とこき使われるし、借金は背負わされるし理不尽だし傲慢だし、良い所なんて中々に口に出せるような部分が少ない人だ。女遊びもお金の使い方も派手で、正直いって人としてどうなの、と思う部分の方が多いような、そんな人だ。だけど。出てきそうな涙を食い止めるために眼球に握った拳を押し付けて息を押し殺す。ふ、と少し乱れた息にも反応しない目の前の人が、あの人であることがどうしても認めたくなかった。知っている。クロス・マリアン。知っている。物語の重要人物。主人公になる人の師匠で、この物語の敵である千年伯爵が警戒している人。AKUMAに狙われる人、AKUMAを破壊する人、強く、けれど危うい人。―――この人のそばにいれば尚のこと危ないのだと、容易に想像などつくだろう。
 もっと普通の人に拾われたかった。もっと普通の日常を過ごしたかった。できるならばあのまま彩雲国にいたかった。もっと、もっと願えるのならば――帰りたかった。「私」の世界に。
 死からもっとも遠い世界に。いつか来る死など深く考えもしないような世界に。帰りたかった。帰りたかった。ないものねだりでしかない今が、とても腹立たしい。AKUMAが怖い。あの化け物が怖い。千年伯爵が怖い。人を人とも思っていないあの人が怖い。人を殺すことを望んでいる彼らの存在など、知らないままでいればよかった。知らないままが、よかった。だけど。知ってしまった。何がいけなかったのだろう。あれに気づいてしまったから。AKUMAの魂に気づいてしまったから。嘆く不気味なそれがわかるから。見えるから。恐ろしい陰気、穢れ。―――今だに縛られるこの力さえなければ、もっと平穏でいられるのではないか。どうやったら捨てられる。どうやったら消えてなくなる。どうしたら、どうしたら。あぁ、もう、嫌だ。


 もう、嫌だ。


 眼孔に押し付けた手からふと力が抜けた刹那、頭に手が置かれた。びくり、と肩を跳ねさせて咄嗟に顔をあげれば、僅かに滲んだ世界に鮮やかな赤が映る。高い位置にある小さな顔、整った顔は少し悪そうで、半面を覆う仮面はただの不審人物でしかなくて。大きな掌が、数度頭の上を往復する。髪を掻き混ぜるように、見かけに反して丁寧な扱いにきょとりと瞬けば、いきなりごちん、と拳で脳天を殴られた。突き抜けるような痛みに頭を抱えるようにして俯いて悲鳴をあげる。

「いったぁ・・・!!」
「いきなり黙りこくって何勝手に泣きそうになってんだお前は」
「いや、いた、先生ひど、いたい、すごく、いたいです・・・っ」
「あぁそうだな、金槌でないだけマシだろう」
「死ぬ、先生それ死にます。私普通の人間ですから・・・!」

 金槌で殴られたら私死ぬ自信があります。なんで私この人に殺されかけなければいけないんだろう。何かしたっけ?あぁそうか、この人無視して自分の中に入り込んでいたからか。シリアスぶち壊し・・・!!あまりの痛さとさらっと恐ろしいことを口にした先生の恐怖に戦きながら、じんわりと浮かんだ涙にパチパチと瞬きした。ほろりと一粒落ちてしまったそれにふん、と機嫌が悪そうに鼻を鳴らして、タバコの煙が周囲に漂う。そしてマリアン先生は短くなってしまったタバコを地面に落として火を靴底でぐりぐりと踏みにじり消しながら、がし、と私の襟元を掴んだ。
 へ、と頭を抱えたまま目を瞬けば、ぐいっとそのまま先生が動き出すものだから必然的に私も後ろ向きに歩かなくてはならなくなる。不安定な体勢の上に人のペースや心情も一切考慮しない問答無用さに、ぎょっと目を剥いて後ろに踏鞴を踏んだ。いやいやこける、まじこける!!

「マリアン先生、ちょ、ストップストーップ!」
「うるさい。オレは眠いんだよ。くだらねぇことに巻き込みやがって。しかもあんなデブに鉢合わせするとは、サイッアクだ」
「だからそれは不可抗力ですよ!私だって、私だって・・・あんなのに、会いたくなんてなかった・・・!」

 一瞬喉が引き攣り、吐き捨てるように呟く。なのに先生ってば人のこと考えずにそのまま玄関前の階段のぼりやがるし!!ちょっと待って私後ろ向き後ろ向き!おまけにマリアン先生今私のこと襟首引っつかんで引っ張ってるでしょ?!倒れるよ、倒れるから・・・っ。せめてもっとペース落としてください・・・!慌てて後ろ向きで段差を登りながら(さすがにここを引きずられるわけにはいかないからね・・・)感傷的になっているはずの場面なのにそれすら無視してお構いなく歩くこの人本当、どうにかしてくれないかな・・・!!と歯噛みした。なんって唯我独尊なんだ。黎深さま以上だよ本当に!そんなこと考えている間に先生はさくさくと家の中に戻り、ずかずかと乱暴に私の襟首を掴んだまま寝室へと入っていく。私は戸惑いながらいい加減放してくださいよ!と声を荒げたところで、ぐいっと今までより一層強く引っ張られた。というか、放り投げられたというか。

「わぁっ?!」

 受身すら取る体勢でもなく、目を見開いて上から見下すように見つめるマリアン先生の顔が視界を流れていくのを見て、ぼすん、とベッドに背中から倒れた。ぎしぎし、と私が倒れこんだ反動でベッドのスプリングが軋み、体がゆらゆらと揺れる。どきどきと心臓が跳ねる音を聞きながら、私は呆然と背中からベッドにダイブした仰向けの状態で、しきりに瞬きを繰り返した。

「へ、あ、え?」
「いつまでぼけっと馬鹿面晒してるつもりだ。さっさと寄れ」
「いや、先生?あの、なんですかこの状況は・・・」
「なんだ、言葉にしないとわからねぇのか?」
「いや、あの、自分の体勢はわかるんですけどその経緯がいまいち」

 わからないんですが、という呟きは、問答無用に体を端に押しやられて頭から毛布を被せられたことでぶふ、という変な息で途絶えてしまった。突然視界を覆った真っ暗でけばけばしい毛布に慌てて顔を出して、静電気で頬や口元に張り付く髪を退ける。まともな視界に映った先生はのそのそとベッドに入り込んで、私に被せた毛布を無言で自分の方に引っ張って上にかけてしまう。横向きに体を倒して、腕をたてて自分の頭を支えながら見下ろしてくる先生の間近の顔に一瞬目を丸くして、ぎゃぁ!?と跳ね起きた。が、すぐに頭を押さえつけられてベッドへと顔面キスを余儀なくされる。

「ぶっ・・・せ、せんせぇ・・・!」
「お前は一々五月蝿いな。オレがわざわざ半分譲ってやってるんだ。大人しくしろ」
「先生、あの、私ソファでいいんですけど・・・」
「あぁ?」
「ごめんなさい!!」

 ぐっと寄せられた眉間と一音低くなった声にひぃ、という悲鳴を押し殺して慌てて起こした頭をベッドに押し付けてもぞもぞと毛布の中に潜り込む。そしていそいそと履きっぱなしの靴を脱いでそろそろとベッドの脇に落とした。先生はわかりゃあいい、とくつくつと喉奥を震わせると、ベッドを軋ませて枕に頭を乗せる。鮮やかで量の多いマリアン先生の赤毛が白いシーツの上に散らばるのをぼんやりと見ながら、思えばこんなに密着して誰かと寝るなんて・・・親以外にいなかったな、と思い出す。・・・・・・・・・・あれ、ちょ、この状況やばくないか?いや別に何があるということはないだろうけど(先生だってはっきりと守備範囲外と言ったことだし)だけどこう、一応さ、私は中身はあれなわけでして。全くの赤の他人の、それもいい年した人とこんなに密着して寝ることなんてなくってですね。これが本当に「お父さんみたーい」ってな人ならそんなに意識はしないでしょうけど、いやでもさすがにマリアン先生を「お父さんみたーい」なんて思えるはずがないわけで、・・・・・・精神的にちょっとなんかこう、居た堪れないんですけど・・・!というかどういう風の吹き回しだこの人。なんでわざわざ一緒に寝ようとしてるの。いくら私が小さくても狭いでしょ、ねぇ、マリアン先生・・・・。

「先生、・・・」
「寝ろ。くだらない話に付き合ってやるつもりはない」
「先生、でも」


 瞳を閉じた先生が、横目でじろりと私を睨む。その視線の鋭さに、見透かしそうな静かさに、ぐっと言葉を飲み込んで、泣きそうに眉を下げた。黙れ、と低く言われて、尚反論できるほどに私は肝が太くもなく、また、・・・強くも、なかった。申し訳ないと、思う。もしかしたら、と思う。そう思うことは傲慢なのかもしれない。自惚れなのかもしれない。だけどこの人がこうしてくれることこそが、そうなのかもしれないと思ってしまうのには十分過ぎて。どうして、と震える唇で声もなく呟いた。

「やさしぃ・・・せんせ、」
「ふん」

 ばさっと折角出した頭にまた毛布を上からかけられて、頭の上に大きな掌の感触を感じた。
 私はその手に、声を押し殺してぐっと息を詰めた。つん、と鼻が痛い。じわじわと目頭が熱くなって、ぎゅっときつく薄暗い毛布の下で目を閉じた。口元に手をあてて、丸くなりながらぐす、と鼻を啜る。何も聞かない先生。何も話さない先生。突き放して、だけど投げ出さない先生。

 優しい、マリアン先生。

 いつもはこんなところ見せてくれるわけでもないくせに。いつもはこんなこと、絶対しないくせに。こんな素振り、欠片とも見せてはくれないくせに。こんな時ばかり、見せ付けてくれるのはズルイと思いませんか。

「飴と鞭みたい・・・」
「うるさいぞ」
「はい。今、寝ます」

 顔は出さずに、毛布の下からくぐもった反応を返して、ぼんやりと涙で潤む視界でマリアン先生の胴体を見つめる。物凄く間近だ。手を伸ばさなくても届く。狭くないかな。狭いと思うのに。
 なのにどこかに行けとも言わずに、一人にもせずに、ただ黙って傍に寄せてくれた先生が、優しくて強くて、どうしようもなく胸が震えた。――漫画のキャラなのに。どこか作られた人のはずであるのに。触れる暖かさだけは本当で、向けられる優しさも本当で。時折ひどいこともされるけど、はっきりいって人間失格だろっていうところも一杯あるのに。この世界は恐ろしくて、この人の置かれている状況もとても怖くて、はっきりいって一緒にいればどんな目にあうか、分かったものじゃない。今でさえ借金取りやらなんやらで怖いことが多いのに、離れた方がきっと安全だ。離れた方がきっと安心だ。この人から離れてもなにがあるかわからないといっても、これほど近くにある危険要素はないはずで。でも――――今、わかった。ぎゅっと、間近の先生の衣服を握り締める。それでも何も言わない先生の体から、仄かにタバコの香りがして、息を吸って目を閉じた。嗅ぎ慣れた匂い。はっきりいって好きじゃない。タバコなんて私は好きじゃなくて、嫌いだけどでもこれは先生の香りで。暖かさは本物。冷たさも本物。だけど。

「弱いなぁ・・・」

 目の前の優しさから、逃れる術が見つからない。それを振り切ることのできない自分の弱さが憎らしく、情けなく、悲しくなる。ほろりと、目尻を涙が伝い落ちて、音もなくシーツに染み込んだ。



 平穏からは程遠く思えるのに、今の優しさを手放せない私を、誰かは馬鹿だと笑いますか。