ライフサイクル
絶望と諦観を映しながら、縋りついた手を振り払うことが出来なかった。
薄暗い路地裏で、タバコに火をつけたその一瞬の内に、それは場違いな格好で姿を表した。イギリスの郊外の路地裏に、どこぞの(おそらくはアジアの)民族衣装に身を包んだ十歳にも満たないような餓鬼が、死にかけた様子で地面に横たわっているのだ。
不自然というより不審。幸い周りに自分以外の人間はいなかったものの、あまりにも浮いたその存在は、格好云々の前に存在が世界から切り離されていた。
近づけば益々違和感が強くなる。刺されたのか、じわじわと広がる赤い血に、蒼褪めた顔。虚ろな目は乾き切って、死を待つだけの弱い命だった――通り魔にでも襲われたのか、それとも。
すぐに手を施さなければこれは早々に死ぬだろう。流れる血の量は少なくはなく、何より刺された部位が部位だ。けれど身元もわからない子供を助けるほど偽善的でもなく、見捨てることは容易かった。――この子供が、突然に姿など現さなければ。
伯爵の策略か、それともイノセンスによる奇跡か。イノセンスならば有り得るかもしれない。全く別の場所からの転移。そうであるのならば、それこそ今まさに死にかけている餓鬼がここに気配もなく現れたのは納得できることだろう。もし本当にイノセンスであるのならば、それはこの子供にとって幸か不幸なのか・・・。
だから死にそうな餓鬼の、絶望に暮れた諦めに手を差し伸べたのは、あまりにもその餓鬼が哀れだったからかもしれない。世界から浮いたそれが、あまりにも可哀想だったからかも、しれない。オレが同情をしてやるなんてよっぽどだ。まあ、イノセンスの可能性があるから拾ってやった、というのが大本の要因ではあるのだが。傍目にイノセンスの適合者かそうであるのかなどそうそうわかりはしない。寄生型であるのならばどこかしらに何かの刻印があるかもしれないが、そうでなければ持ち物の中にそれらしきものがあるはずだ。怪我の治療を済ませた後、持ち物の確認をしてみたが―――はっきりいって、怪しいものなど何一つとしてない。身につけている衣服、特に装飾品をつけているわけでもなく、まさしく身一つの有様にどこにイノセンスがあるのかと溜息も零れた。もしも寄生型ならば、教団に戻って確認する方が確実だ。
適合者であるにしろないにしろ、その判別はイノセンスの発動がない限りはヘブラスカでなければそうそうつきゃしない。だから手っ取り早い方法を取るべき、なのだがはっきりいって教団に戻る気がこれっぽっちもなかった。面倒な上にあそこは好きじゃない。
戻れば拘束されることは目に見えていて尚のことうざいと正直な本音が洩れた。―――おのずとそのまま放置の方向に思考が巡ったのは、思いのほか餓鬼の家事が巧かったことも起因しているかもしれない。掃除もできるし料理もできる。英語ができなかったのは、はっきりいって面倒だったが・・・ティムキャンピーの懐きようも気にはなったしとりあえず手元に置くことは決定だった。しかし英語の物覚えが悪い。頑張ってはいるのだろうが、根本的に合わないのだろう。教えるのが面倒だからバイト先に放り投げて実施でやらせた。奴は働けて金は手に入るし英語の勉強にもなるしオレの手間が省ける。いい事尽くめだ。まあそのおかげか、多少ましな程度にはなったな。泣き言というか悲壮な顔はしていたが、しったこっちゃねぇ。
まあその内慣れてきたのか割といい拾い物だったかもしれない、と思うぐらいは中々に使える奴に成長していった。いや、元々慣れていたのかもしれない、そういう仕事に。さすがオレの審美眼。餓鬼らしくはなかったが、まあ別に困るものではなし、むしろ餓鬼らしい餓鬼であれば手元に置いておこう、などと考えはしなかっただろう。餓鬼は面倒だし鬱陶しい。適合者でない限りわざわざ餓鬼の世話をしてやろうと思うほど酔狂じゃない。だからこそ、その餓鬼らしくない餓鬼はオレについてこれたのだろう。ギャンブルはどうかとも思ったが――明らかに不向きな奴を向かわせて大損することもあるまいとそこはやはりなかったことにした。あいつにギャンブルは無理だ。確実に。適材適所という言葉もある――餓鬼とはいえ女でもあることだし。
その内あいつがいる生活にも慣れて、馴染むようになるのにそう時間はかからなかった。あいつも慣れてきた頃には口うるさくもなっていたが、特別深く突っ込んでくることのない、やはり距離の取り方のうまい餓鬼だった。いや、あれはどちらかというとそうすることによって自己保身に走っているのかもしれなかった。己を守るためにあいつは何も言わないし聞かなかったのだろう。何に脅えているのか、何を不安に思っているのか、何に傷ついていたのか。そんなこと知らないし知ろうとも思わなかったが、時折見せる暗く淀んだ諦めは不愉快だった。弱い人間だ。それでも尚放り投げなかったのは、年の割りに手馴れた餓鬼の料理が、自分好みの味になっていったせいだろうか。最初のうちはまずくはないが特別好みでもなかった。だがしばらく暮らしているうちにこちらの好みを自分なりに把握していったのか、どんどんオレ好みに合わせてくるから家に帰る頻度が増えた。はっきりいって他で食うより家で食った方が満足感がある。口に出して言ってやるつもりはないが。自分好みの味というのは貴重だという、当たり前のことを改めて知ったような妙な気分だった。誰かが待っていること、帰れば用意してある食事、風呂、綺麗な部屋、とうの昔に捨て去った真綿のような日常が転がっている。特別意識もしていない必要とも思っていなかったそれは、けれど確かに悪いものではなかったのだ。おかえりなさいと返る声は女の甘さもなくそそられる要素は何一つないが、しかしそれでも嫌じゃない。
先生、という柔らかな呼び方が、妙に馴染む。媚も甘さも恋も愛もない、ただ感情豊かに呼びかける「先生」という声が、しっくりときたのだこの餓鬼には。アジア系の平凡な顔立ちに、小さな背丈でやけに大人びた、けれどどうしようもなくただの人間であるそいつ。子供だ、とはっきりといえなかったのはやはりその内面のせいだったのだろう。特に何事もない平凡な毎日が過ぎ去っていく。オレの日常サイクルに餓鬼が加わったこと以外に特別な変更はなく、いつだって好きなようにやってきた。女と遊び酒を飲みギャンブルで遊び、そして時折仕事をする。仕事について話すことはなかった。一応神父業だとは言っておいたが胡散臭い目をしていたあいつは半分以上も信じてやしなかっただろう。失礼な奴だ。別にそんなことはどうでもいいのだが。
エクソシストでもない奴に語る話ではないのだから、知らないならば知らないままでいいのだ。いつしか適合者であるかないかはどうでもいいことになっていて、仕事の放棄も甚だしいことになっていたが。教団に行く気は日増しに失せるばかりで、特に問題のない日々が過ぎ去っていく。いや、唯一あるとすれば時折、夜中に起きだす餓鬼の行動だろうか。何に脅えているのか、追い詰められているのか、時折夜中に起きだしてはひっそりと過ごしている。泣き言も言わず、ただぼんやりと何かに耐える様子は少なくともこの世界に生きている人間のそれではなかった。薄い。存在がぼんやりと陰り儚くなってしまったような。元々地に足のついていない、あやふやさがどこか餓鬼にはあったが、その時ばかりはより一層そのあやふやさが増していたように思う。声をかけてやることも何もしてやりはしなかったが、ただ餓鬼は何かを抱え隠しているのだろう、ということは容易に知れた。元々日本人、などと言ってきた餓鬼だ。何か隠しているのは明白である。なにせ今の日本は伯爵の支配化に置かれており、まともな人間の人口など一割程度のはずだ。あるいは日本からどこぞへ移住したのか、はたまた移住していた両親から生まれたのか。だがそれならば日本語以外話せないというのはないだろう。元より日本は鎖国をしていたのだから移住という線は限りなく低い。考えれば考えるほど不自然な点、奇妙な点、不可解な点、それらが浮き彫りになる。いや、むしろ。この世界の人間ですらないような、そんなおぼつかなさがある。―――もっとも、それが関係あるのかと問われればオレには関係ないことだとキッパリと言ってやるが。だから、正直どうだっていいのだ。適合者であれば修行をつけるし、そうでないのならば現状維持でも構わない、そう思う程度には馴染んでしまった。
まあしかし、どうでもよかったとはいえ夜の徘徊は一言言っておくべきだったか、と今では思う。
なんでわざわざあのパツパツのデブに真夜中に遭遇せねばならなかったのか。襲われかけているこいつが全く意味がわからない。なぜよりによってあれと遭遇しているのだ。どういう確立なのかと、いっそ感心すらした。だがしかし、戦う術のない餓鬼をむざむざと見捨てるわけにも行かず(いなくなれば今後の家事をやる人間がいなくなることだし)しょうがなく矢面に立ってやれば、デブが不愉快な笑い声と共に意味深長なことを残して去りやがる。
なんだあいつは。何を知っている。AKUMAを見る目?こいつに?自分の知らないことを、よりによってあれが知っていることがむしょうに腹が立つ。どういうことだと、問い詰めてやろうとしたらこれはまた何かやたらと意気消沈している。
当初はあんなものと遭遇してしまった恐怖故かとも思ったが、何かが違う。いや、無論それもあったようではあったが、見上げる視線に今までとは違う何かを感じたのは事実だ。より一層、一線を引いてくる目。どうしたらいいのだろうと戸惑い、困惑し、―――初めて出会ったあの時のように絶望と諦めに淀む、眼。
・・・あぁ、不愉快だ。苛立たしくも思う視線が鬱陶しく、結局問い詰めるのはやめて有無を言わせずに寝かせればぎゃあぎゃあと小うるさく喚き、終いにはぐすぐすと泣き始めるのだ。いや、この表現は正しくないか。ほっと安堵したような、申し訳なさに居た堪れないような、それでもどこか恐ろしさを覚えているような、そんな顔で、声も、無く。ほんの僅かな涙を零して、眠りにつく餓鬼は。
「面倒だな・・・」
濡れた睫に残った雫を、そっと拭い取りながら緩やかに引き寄せた。
※
「」
「なんですか」
「これからお前、抱き枕になれ」
「・・・・・・・・・・はい?」
翌朝、思ったよりも悪くなかった抱き心地とやたらとすっきりとしてる体に、こりゃいい枕を見つけたな、と満足気に口角を持ち上げた。