ブルーデー
カーテンを開けて見上げた空の青さに、ふと目を細めた。
※
朝の清涼な空気が頬を撫でる。白い雲がぽつぽつ浮かぶ空は明るくて、窓枠に頬杖をついてじっと外を眺める。屋根の上にいる小鳥の鳴き声が町の風景に和やかさを加える中、衣擦れと足音が聞こえて、後ろを振り向いた。相変わらず黒に映える赤い髪を肩から前に垂らしながら、タバコの煙を揺らしてどこかに出て行こうとするマリアン先生にあ、と声をあげる。
「マリアン先生。今日帰ってくるんですか?」
「日付変更前にはな」
ノブにかけていた手を止めて答えた先生に、まあ一応帰ってはくるんだな、と理解してだったら、と口を開いた。視線をマリアン先生から動かして窓の外に向けて、じっと白い雲を見つめる。
「傘、持っていった方がいいと思いますよ」
「あぁ?」
ぽつりと呟いた私に、先生の怪訝な声が返される。私が外から先生に視線を戻すと、彼は眉間に皺を寄せて私と同じように窓の外に目をやった。窓の外は綺麗に晴れ渡り、さんさんと明るい太陽の日差しが降り注いでいる。空の青さはどこかぼんやりとはしていたが、それにしたって今日は快晴、といっても可笑しくはない天気である。マリアン先生は眉宇を潜めるとタバコを手に持ち替えてふぅ、と煙を吐き出した。
「この天気でか」
「そうです、けど」
「いらん」
「あ、先生・・・」
言葉短く切り捨てられて、ぱたん、とドアが閉まる。伸ばしかけた手の指をわきわきと動かし、はぁ、と溜息を零した。そうしてまた窓枠に肘をついて顎を支えながらじっと空を見上げた。確かに、この天気だ。傘なんか持ってたら可笑しな目で見られかねない。折り畳み傘、なんてものもないわけだし、大きな傘はただひたすらに邪魔な代物だろう。きっと私の発言は何ボケたことを言ってんだ、と思われたんだろうなぁ、と思いながらしょうがないじゃん、とぼそりと呟いて目を細めた。
「雨、降る気がするんだけどなぁ・・・」
そう、理由などない。ただ、なんだか降りそう、だとか、あぁもうすぐ晴れるな、とか、なんとなくそう思うのだ。空気、だろうか。それとも匂い?それはとても曖昧な感覚で、説明などできないし、科学的根拠も、ないけれど。ただそれでも、きっと雨が降る、という妙な確信が、私の中にはあった。
「・・・ま、いっか。バイト行こー」
降らなければそれでよし、降ったら降ったで雨宿りぐらいどこかでするだろう。そう自己完結をすると、マリアン先生に置いていかれたティムに留守番よろしく!と声をかけて鞄を持った。ティムがぱたぱたと羽をはばたかせるのが、いってらっしゃい、と言っているようで微笑ましい。思わず口元を緩めながら、ばさっとこの世界にきてよく着るようになったワンピースのスカートを翻して(時代が時代だからな・・)家の外に出る。勿論、自前の傘を持って、だ。ガチャリ、とドアの鍵を閉めて、振り返る。傘を片手に持っている私を、偶々通りかかった人がどこか不思議そうに視線をよこしてくる。雨傘と日傘兼用だったら便利なのにな、と思いながら、ぎゅっと柄を握って見上げた空は、まだまだ雨が降る様子はない。
※
ザァ、と地面を叩く雨音がする。糸を引くように滴る水から逃げるように、自分の服の上着を頭に被ったり、腕で顔を庇いながら走り去る人を窓から眺めて、予想外に本降りだな、と包丁を動かす手を止めた。とん、とまな板を叩いていた音が止まると、ティムが丸い体を動かして体を傾ける。
「思ったよりも大雨だったね、ティム」
声のないティムでは返事は返ってこないが、そうだね、と言うように動く羽に止めていた包丁の動きを再開した。とんとんとん、と軽くリズミカルな音が雨と時計の音しかしないような静かな部屋に響いていく。思えば私も巧く包丁が使えるようになったものだ、とこの音を聞きながらしみじみと感じた。リズミカルな音は、つまりそれだけ仕事に無駄がないということである。・・まあ、ずっとやってたらそりゃよくもなるよね、とぼやきつつ切った野菜をコンソメスープの中に投入する。そのまま煮込むために放置をして、軽く水道で包丁とまな板を洗ってから、まな板を裏返して今度は魚を捌く準備をする。ちなみに今回はムニエルの予定だ。
簡単手軽な、魚料理の基本である。・・・昔は魚を捌けるようになるとは思ってなかったもんなぁ・・・。だって普通に切り身とか売ってたし、わざわざ捌く必要なんてなかったのだ。
まあ京に飛ばされてからは多々そういうことに触れる機会はあったが、譲がいたしな・・・。
あの子はなんでああも料理の鉄人になれたんだろう。望美ちゃんのせい、というかおかげ?なのは理解しているが。ザリザリとまず鱗を削ぎ落としながら、頭を切り落とす。
赤黒い血が溢れて、水道水で流しながら腹を捌いて内臓を取り出した。えぐい。えぐいが慣れた。本当は、あんまり魚を捌くのは好きじゃないのだ。いやそりゃ生臭いだとか気持ち悪いだとか面倒だ、とかそういう感覚もあるんだが、一番に言うのなら・・・やっぱり、思い出してしまうから、だろうか。だけど捌かないとやってられないのが現実なので、溜息と共に捌いた魚を綺麗に水で洗い、軽く水気を切ってから塩コショウを振ってしばらく放置。その間に使ったものをさっと水洗いをして、水切り場に置きながらボールに小麦粉を入れる。その間も雨粒が屋根を叩く音も、道路に叩きつけられる音もずっと響いていて、どことなくいつもよりも世界が静まり返っているように思えた。キッチンの窓から見える様子に変わりは無くて、思わず手に取った魚から視線をあげて呟いた。
「マリアン先生、大丈夫かなぁ」
どこぞの女性の家か酒場か、そんなところにいるだろうとは思うけれども。濡れてないといいけど、と少し心配をしながら、魚つけた小麦粉の余分な粉を払い落とす。バイト先の料理人さんに聞いたのだが、ムニエルを美味しく仕上げるコツは余分な粉を払い落とすことなんだそうな。細かい些細なことだが、それでも結構重要なこと。そういうところほど気をつけるべし、といわれたときにはなるほど、と感心したものだ。そうして魚に小麦粉をまぶした後で、ゆっくりと顔をあげる。ザァザァと降り続ける雨。視界が灰色に包まれる瞬間。鼓膜に届く雨音と、雨に項垂れる街路樹の葉っぱに、かくん、と肩から力を抜いた。
「ティム」
呼べば、ティムがなにー?とばかりに近くに寄ってくる。私は振り向いて、苦笑を浮かべながら水道の蛇口を捻った。
「マリアン先生の居場所、わかる?」
無駄足かもしれないけど。そう口にして、私も大概心配性だよなぁ、とくすくすと笑い声を零した。小麦粉にまみれた手を洗い、下準備はすませた魚の上にお皿を被せてちょっと放置。
さすがに鍋まで火をつけたまま放置はできないので火は消して、焼きあがって冷ましていたデザート用のパウンドケーキ(ブランデー入り)も放置しておく。とりあえず一通り目に付くところは片付けてから、エプロンを椅子にかけて鍵を持って玄関に走った。まだ水滴のついている靴を履いて、ティムを呼ぶ。ティムはマリアン先生の居場所がわかるから便利だよねぇ。道に迷ってもとりあえずティムさえいればマリアン先生のところに戻れるし。まあ、ティムが傍にいなかったら戻れないんだけどね・・・!伸ばした手で、傘立てに挿してある濡れたままの自分の傘を手に取り、その横の自分のものよりもう一回りほど大きい傘に手を伸ばしかけて、ふと止めた。
「・・・なんか、本当、家族、みたい」
面映いような、冗談じゃない、と言ってしまいたいような。複雑な心境で、そっと大きな傘を手に取った。家のドアをまた開けて、今度はティムと一緒に外に出て。見上げた空は、朝と違ってザアザアと降る、雨だった。
※
まあぶっちゃけてティムがいると物凄く目立つんだけど(なんたって金ピカで大人の頭ほど大きいのだ)、今日は雨が降っているから町に人は少なく、そんなに気にしなくても歩いていける。
傘を叩く雨音を聞きながら、頭の上にどっかりと乗っかっているティムに重たい・・・とぼやきティムの向く方向に向かって歩いていく。いやでも本当、頭重たいよだってティム石でしょう、体。
重たいって普通に。まあ全体重をかけてくるわけでなく、多少浮いているようではあるが(え、だって拳大どころか頭大の石を頭に乗せて平気でいられる自信はないよ)、実は見た目に反して軽いとか・・・?そこんところどうなんだろう、と考えながら、軽い鼻歌交じりに傘をくるりと回す。
雨のせいでただでさえ薄暗い外は、日も落ちてきたことも手伝ってより暗くなってきた。
冷え込む空気と濡れる足元を、不快だと思わないでもない。だが、雨音は決して嫌いではなかった。わざわざ出歩こう、とは思わないけれども、それでも雨を、私は嫌いではなかった。
ぼんやりとそんな思考を巡らしながら、ティムの案内に任せてあまり歩いたことのない道を歩く。
しばらくそうしている間に、ふと、頭の上のティムが動いた。ばさ、と羽音をたてて、するりと傘の下から抜け出して飛び立っていく。気づいて俯いていた顔をあげれば、あ、と瞬いて、ティムが飛び立っていく先を見つめた。ぴしゃ、と水溜りを跳ねさせて、足をとめて立ち止まる。ティムに差し出す長い指先。顔の半面を覆う仮面に、胸元で揺れる銀色の十字架。こちらに向いた視線に、僅かに唇を戦慄かせた。
「なんだ。迎えにきたのか」
「・・・だから、傘持っていったほうがいいって言ったじゃないですか。マリアン先生」
お店の中や、女の人の家の中でもない、どこかの家の、軒下で。シニカルに口角を持ち上げて、ティムに手を差し伸べる姿に、ふぅ、と溜息を零して肩を落とした。しっとりと肩に落ちる髪が湿気で少しボリュームを増している気がする。ティムは定位置のように、マリアン先生の頭の上に乗ってこちらを見下ろしていて、マリアン先生は自分からは一歩も動く気がないように軒下で佇んでいた。ぼたぼたと、私と彼の間を遮るように、雨が、軒の先から、傘の先端から、空の上から、降り注ぐ。ザァザァ、ザァザァ。音はまるで、音楽みたいだ。
止めていた足を、一歩動かして彼に近寄る。見下ろす視線は不遜で、まるで、迎えにくることがわかっていたかのような態度だ。こっちは無駄足の可能性が高いと思ってたのに、なんでこの人はこんなに自信満々なんだろう。そしてその通りの行動をしている自分が、なんだか少しだけ癪だった。
「なんでこんなところにいるんですか」
「いちゃ悪いか?」
「そうじゃないですけど、意外だなって思っただけです」
ずい、といささか仏頂面で手に持った傘を差し出せば、それを受け取ってマリアン先生がタバコを足元に落とす。水に濡れてすぐに火が消えたタバコに、軽い溜息を零した。ポイ捨てはやめようよポイ捨ては。思わずしゃがみこんでタバコを拾い、くるりと視線を動かす。
さすがに近場にゴミ箱はなくて、しょうがないなぁ、とポケットから出したハンカチに包んで再びポケットの中に戻した。マリアン先生がくつくつと喉を震わせて笑う。
「几帳面だな」
「ポイ捨てがあんまり好きじゃないだけです」
汚いより、綺麗なほうが好きなのはマリアン先生だってそうなくせに。呆れたように半眼になれば、彼は気にした風もなく傘を開いて、軒下から出てくる。ザァ、と傘を叩く雨音が増えたところで、歩き出した彼に慌てて後を追いかけた。跳ねる水が、足元を濡らす。
迎えにきたのにお礼の一言もないのか・・・と思ったが、この人にそれを期待するのが問題だった。うん。馬鹿なこと考えたな私。横に並んで歩きながら、しばらく無言で雨音を聞く。
チカチカと光る街頭の下を通り過ぎたとき、ふと口を開いた。
「先生は、どうしてあそこにいたんですか」
もう一度、最初にした問いかけを口にする。別に、そんなに深く尋ねたいことではなかった。だけど、なんとなく、気になって。そんな気持ちで口にした二度目の問いかけに、先生はちらりと視線をよこして、前を向いた。
「雨が、嫌いじゃないからな」
低い声で、返された答えに。軒下なんかで雨宿りをするほどに?と思わず首を傾げそうになったが、見上げた先生の小さな笑みに。
「私も、雨、嫌いじゃないですよ」
そんな返答を、していた。
そうか、というか先生の声は、どことなく。満足気だったようにも、思えた。