鬼の霍乱



 今目の前で起こっていることが俄かには信じがたく、パチクリと瞬きをしながら首を傾げた。
 こういうのってなんていうんだったか・・・あぁ。





 顔を真っ赤にしてぐったりとしているマリアン先生の横で冷静にそんなことを考えていると、じろりと横目で睨まれた。

「どういう意味だ、
「え、・・・あれ、声に出てました?」

 ベッドに沈み込んだまま、いつもよりも低い掠れた声で覇気の無いマリアン先生に、ギクリ、と肩を揺らしながら別に悪い意味じゃありませんよ?と慌てて手を左右に振りたてた。
 マリアン先生は胡乱気な目で、目元にかかる前髪を乱暴にかきあげて眉間に皺を寄せる。

「えっと、故郷の諺なんですけど・・・確か意味はいつも元気な人が珍しく病気になるとかそんな意味だったはず、です」

 嫌味でも決してないですよ!!純粋にこういうとき使うんだろうなって気持ちだっただけで!!だってさ、この人が風邪になるとか普通思わないじゃないか。むしろ病気の方が裸足で逃げ出すというか、こんな弱った姿を見る日がくるだなんて想像の範疇外だ。まあ、いくらマリアン先生とはいえ人間なんだから風邪の一つや二つかかる日もあるだろうけど・・・実際目にしてみるとなんともまあ、物珍しい。枕に頭を埋めるマリアン先生は、いつもならば拳骨の一つでも飛んできそうなものを、それすら気力がないのか目を閉じて深く息を吐き出した。体内の熱を逃がそうとでもいうようなその仕草に、はっと慌てて額に手を伸ばした。自分の掌で涼を取ろうとしていたのだろうか、乗せられていた大きな手をどけて代わりに自分の手を乗せる。しっとりと汗の滲む額に重ねた掌から伝わる熱は、まだそんなに高くはないらしい。もしかしたらこれから上がるのかもしれない。体温計あったかな?

「まだ熱はそんなに高くないみたいですけど、この様子だと後から上がってくると思います。今日は大人しく寝ていてくださいね、マリアン先生」
「・・ちっ。、」
「お酒は持ってきませんよ。そんなの今飲んだら吐いちゃいますって」
「飲んだ方が直る。体内消毒だ」
「アルコール消毒は確かにありますけどね・・・ウイルスにアルコールも何もないでしょうが。そんなだから風邪引くんですよ」
「うるさい」

 不摂生な生活を繰り返している罰があたったんじゃないか、この人。いつもお酒ばっかり飲んで、夜は遅いし。ご飯は一応まともなもの食べさせているつもりではあるが。まあ、食事系は別に私が用意しなくても女の人のところでもお店でもどこでも食べられるんだろうけどさ。お店の場合は高級料理店で、ツケ払いなので勘弁して欲しいが。全く、抗生物質ならまだしも、お酒で風邪が治ったら薬は必要ないっていうのに。不満そうなマリアン先生にこのアル中め、と内心で毒づきながら代えのパジャマあったかな、とマリアン先生の首元まで掛け布団を引き上げて、立ち上がりクローゼットを物色した。・・・さすがに代えらしい代えはないが、なるべく寝やすそうな服を出しておこう。寝汗を掻いたら、着替えさせないと。えーと、あとは・・そうだ、体温計。・・・あったかな?そんなものがこの家に。見かけた覚えがないのでないかもしれない。そうなると、ちょっとどこかから借りてこないとな。あーでもマリアン先生こんな弱ってる姿なんて誰かに知られたくないだろうし(プライド高いから)、迂闊に触れ回るわけにもいかない。でもないとちょっと困るし、な。・・・バイト先の人誰か持ってないかなぁ、と頭を回しながら、パタパタと動き回って桶に水を張り、濡らしたタオルと共に持って部屋に入る。言いつけ通り大人しくベッドの上に横になっているマリアン先生の横にあるサイドテーブルに桶を置いて、額の髪をどけてタオルを乗せた。冷たさが心地良いのか、目を細めてマリアン先生がふぅ、と吐息を零した。・・・いや本当、先生のこんな姿一生にどれだけ見られることか。思わずまじまじと見そうになったが、後が怖いので慌てて視線を外した。

「先生、食欲あります?」
「今はない、な」
「そうですか・・・でも後でお腹が空いたらあれなんで、リンゴ切って用意しておきますね。今は食べなくてもいいですけど、食べられそうだったら少しでいいんで口にしておいてください」

 なにも食べないのはちょっとね。言いながらマリアン先生の豊かな髪を軽く手櫛で梳って、軽く顔に浮かぶ汗をハンカチで拭ってからさっさと台所に戻る。マリアン先生は了承の言葉もなく無言で、濡れタオルを目元まで引き下げた。・・・こりゃ本当に熱が上がるな。
 籠の中にあるリンゴの一つを手にとって、壁にかけてある時計を見る。長針と短針の位置に、そろそろバイトの時間だな、とぼやきながらどうしよう、と眉間に皺を寄せた。
 病人ほっといて仕事にいくのもなぁ・・・かといってバイトを休むとそれだけ賃金が。
 ただでさえマリアン先生の借金やら生活費やら稼がないといけないのに、一日休むのでもかなり厳しいのが現実だ。まあ病人の仕事は寝ることだし、相手もいい年した大人なんだからそこまで甲斐甲斐しく世話を焼く必要もないと思うが・・・あの先生が風邪である。
 実は物凄く性質の悪い風邪かもしれない。どうしよう、大きな病気だったら。ふと不安がよぎって、視線が揺らいだ。・・・医者を呼んだほうがいいかな・・・。この辺にお医者様いたっけ・・・あぁやっぱりマリアン先生の愛人さんのところに行って色々準備してもらった方がいいかもしれない。無駄に金持ちの人にモテるし、あの人。マリアン先生の愛人達なら苦にも思わずむしろ嬉々として面倒をみてくれるはずだ。先生の体裁やらプライドやら、そんなもの一時置いといて、やっぱり体を治すことを優先した方がいいよね。よし、そうしよう。となると話をしに行くためバイトには遅れるって電話しとかないと・・・。ぐるぐると思考を回しながら、包丁を動かしてリンゴを櫛形に切っていく。そのとき、なんとなく遊び心でリンゴをうさぎの形にしてみた。赤い皮で作った耳のお馴染みの姿に、ふとこれを食べているマリアン先生を想像してみる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・やべぇ、吹く!!

「に、似あわな・・・っ!!」

 いや、逆に似合うのか?あぁどっちにしろなんか絵面笑えるぞ!その姿見てみたいなぁ・・・っ。けどきっと私がいない時に食べてしまうだろうと思うので、見られないのが非常に残念だ。・・・ティムって確か撮影機能あったよね?撮っておいてくれないかなぁ、その姿。非常に興味深い、と思いながら切ったリンゴは軽く塩水に浸して、変色を防ぐ処理を施してからお皿に乗せて、その上から更に蓋を被せておく。お盆に載せて、コップと水も常備してマリアン先生の寝室に戻ると、先生が僅かに身じろぎをした。あぁ、まだ眠ってはいなかったんだ。

「先生、リンゴと水、ここに置いておきますね」
「あぁ・・・」
「私は仕事に行きますけど・・・念のためにロゼッタさんに先生の看病をしてくれるように頼んでみますから、もしかしたらお医者様とロゼッタさんがくるかもしれません。その時にはちゃんと診てもらってくださいね」

 ちなみにロゼッタさんとはこの町で一番の宝石商の人で、今だ独身のやり手美女である。・・・なんていうかできる女で、フェロモンバリバリの妖艶迫力美女って感じの人で、マリアン先生の横に並ぶとド迫力の絵になる二人なのだ。・・・まあ、究極ともいえる美貌を知っている身としては美女だがただそれだけって感じもするけど。性別を超越した美貌を知ってるからなぁ。まあ、確かに鳳珠さまはすごく美人なんだが、私としては現実味がなさすぎてこれといった反応は覚えなかったな。でも、確かにあの人を見てからそこらの美形じゃ動揺しなくなったのは本当である。というか私の周り、世界が世界なだけに美形が多すぎるんだって。やだなぁ、知らない内に面食いになってそうだよ、私。そんな微妙な心配をしながら、寝ているマリアン先生に顔を近づけながら告げると、先生は目元を覆っていたタオルをちらりと動かして嫌そうな顔をした。

「大袈裟だ。寝ていれば治る」
「ダメですよ。風邪だからって侮ると大変なことになるんですから。医者に診てもらうのが一番いいんです。市販の薬買うより診てもらってから貰える薬の方がいいでしょうし、早く治るにこしたことないじゃないですか」
「いらん」
「先生」
「いいから、お前はさっさと出て行け。眠れんだろうが」

 鬱陶しげにしっし、と犬を追い払うように手を振られて、眉間に皺を寄せながら溜息を零す。駄々っ子ですか、あなたは、という言葉飲み込んで(言ったらどうなることやら)渋々と部屋を後にする。・・まあ、別に先生が寝てからならいくらでも行動できるし。ああ言われても、呼ぶべきだよね、とドアをあけて閉めようとした瞬間、低い声であぁ、そうだ。という先生の声が聞こえた。ん?と振り向けば、こちらを見る先生がいてなんですか?という問いかけを口にする前に、マリアン先生が口を開く。

「人を呼んだら、どうなるかわかってるだろうな?」

 病人の癖に極悪な顔で、低い脅しをかけてきた先生にひぃ、と顔を引き攣らせた。
 ど、どんだけプライド高いのさこの人は・・・・!





 薄く開いた目が、ぼんやりと焦点が合わない様子で左右に揺れる。ぱちり、とゆっくりと瞬きをしてから、眉を動かしてこちらに焦点を合わせた先生が怪訝な顔をした。

・・・?」
「よく寝てましたね、先生。何か食べれそうですか?」
「・・・あぁ、朝よりはマシだな」

 額に手をあてて、前髪をかきあげた先生が細い目で緩慢に頷く。額や首筋に光る汗の玉に、結構寝汗掻いているよね、と軽く額の汗をタオルで拭き取ってから用意をしておいたパジャマ代わりの衣服を持ってくる。

「先生、汗でびしょびしょでしょう?タオルで体拭いてからこれに着替えてください」
「おい」
「はい?」
「今、何時だ」
「2時ぐらいですよ」
「なに?・・お前、なんでこんなに早いんだ」

 まずタオルを差し出しながら指示を出せば、マリアン先生は怪訝そうにしながら、もそもそと起き上がりシャツを脱いでそれで体を拭き始める。傷だらけだが、見事な筋肉が無駄なく引き締まった裸体が惜しげもなく目の前に晒される。相変わらず見事な腹筋と胸筋だ。
 そう感想を内心で零しながら背中の寝汗を背後にまわって拭きつつ、横目でなんでいる、と問いかけられて思わず微苦笑を零した。いや、先生・・・普通病人放って仕事したりしませんから。いくらお金が必要とはいえ、それぐらいの良識は持ってますよ?肩を竦めて体に張り付く長い髪を持ち上げながら、やんわりと答える。

「早引けさせてもらいましたよ、勿論。先生がロゼッタさん呼ぶの拒否したから、お昼に先生の世話してくれる人がいなくなりましたからねぇ。薬も買ってきましたから、ご飯食べたら飲んでくださいね」

 ・・・ふっ。先生にああまで言われちゃ呼べるはずがないでしょう。チキンというなかれ。後の報復が物凄く怖いんだ、この人は。そのリスクを考えると、どうしても誰かを呼ぶというのはむしろ死地に向かうようなもの。必然的に従うしかなかったんだ!悪いか!!まあ、見たところちょっと寝て回復もしてるようだし、本当にただの風邪っぽいし。マジでやばかったら先生だって意地を張ることも無いだろうし。とりあえず市販の薬で様子見というところである。
 一通り体を拭いて新しく乾いた服を着せながら、もう一度横にさせて体を拭いたタオルを持って立ち上がる。とりあえずご飯食べさせないと薬も飲ませられない。びし、とテーブルに置いてある袋を指差してから先生が寝ている間に用意をしておいたおじや(ついでに自分の昼ご飯にしようと思って)を取りにキッチンに入り、ティムが回りを旋回するのを鼻歌で気にしないようにしながら、器におじやを盛り付ける。タオルはひとまずその辺りに放置してあとで片付けよう。それからぱたぱたと靴音を鳴らして部屋に戻り、ドアをあければ、寝転びながらタバコを吸っているマリアン先生の姿が、でーんと視界に入ってきた。・・・このニコチン中毒者!アル中でニコ中とか最悪だな本当に!!

「先生、風邪の時ぐらい控えてくださいよ!」
「オレの栄養源だ」
「真っ当な栄養とってください。ほら、ご飯持ってきましたから」

 かといって実力行使に出れないのが私の押しの弱いところである。灰皿を差し出しつつ、テーブルの上にお盆をおいてじとりと睨めば、彼は肩を竦めて灰皿にタバコを押し付けた。

「病人にはもっと優しく接するものだろう?」
「気遣ってるからこその発言だと思ってくださいよ・・・おじや、熱いですから気をつけてくださいね」
「あぁ」

 言うに事欠いてその台詞。なんだか色んな脱力感を覚えながら、起き上がったマリアン先生にスプーンを差し出した。おじやをお盆ごと持ち上げてもそもそと食すマリアン先生は、それでもやはりどこかいつもの力強さが足りないように思う。食べた後薬を飲ませて、借りてきた体温計でひとまず熱を測らねば。

「何か欲しいもの他にありますか?」
「酒」
「・・・玉子酒作りましたから、それで今は我慢してください。アイスとか食べます?」
「玉子酒?」

 なんだそれは、と語尾をあげたマリアン先生に、こっちにはそんなものないのかな、と首を傾げた。あるいは名前が違うのかもしれない。まあどうでもいいんだが、そんなこと。

「お酒に卵と砂糖をいれて煮詰めたものですよ。アルコールは低いですけど、風邪を引いたときにはよく飲む家庭療法です」
「ほぅ。まあないよりましか。よこせ」

 ごくり、とおじやを飲み込んで手を出すマリアン先生に、病人なのになんでこんなに偉そうなんだろう、と思わず遠い目をしてしまった。いや、まあ殊勝な先生の姿なんて想像もできないが・・・もう少しこう、変化はないものか。まあ、いつも変わらないのが一番なのだとは理解しているけれども。苦笑を零してからちょっと待っててください、と一声かけてキッチンに戻る。お鍋にかけてあった玉子酒をコップに注いで、仄かに甘く香るアルコールに先生じゃ物足りないんだろうなぁ、と思いつつ部屋へと持ってはいる。はい、と差し出せば一瞬興味深そうにコップの中身を覗きこみ、ごくりと試すように一口、先生は口に含んだ。ど、どうだろうか・・・やっぱり好き嫌いとかあるもんねぇ。口に合わなかったら・・・まあ、飲まなきゃいいんだが。

「度数がねぇ」
「飛ばしてますからね、そりゃ」
「・・・まあ、悪くはないがな」

 言いながら再びぐいっと煽る姿に、ほっと胸を撫で下ろす。よかった・・・折角作ったのに消費されなかったらそれはそれで虚しいからな・・・。そうやっておじやと玉子酒を交互に口に運びながら、玉子酒のおかわりを要求されたときは黙って追加していく。本当にお酒好きというかなんというか・・・まあ、風邪の間はこれで凌いでもらうとして。そうして食欲はあんまりないかもな、と思っていたが、予想外にぺろりとおじやを平らげた先生に薬を手渡す。無言で受け取り水と一緒に粉薬を飲んだ先生に、用意しておいた体温計を差し出した。

「熱、測ってください」

 一瞬面倒そうな顔をされたが、特別文句も言わずに受け取った先生がわきの下に体温計を差し入れたのを確認してから、薬と一緒に空になった器を持って動き回る。流しに洗い物を突っ込んで、タオルと汗のしみこんだシャツは洗濯物置き場に持っていっておく。あとで洗わなければならないなぁ。えーと、あと何がいるかな。・・・とりあえず水は常備しておかないと。水差しとコップを再びもって部屋に戻れば、目を閉じて軽く俯いたままぼんやりとしている先生がいる。思考回路が鈍いのかもしれないなぁ、と思いながらテーブルにお盆を置いた瞬間、ずい、と体温計が差し出された。

「ほらよ」
「あぁ・・・やっぱりまだ高いですね・・・。じゃあ早く寝てください、先生。眠くなくても寝るんですよ!」
「餓鬼じゃないぞ、オレは」

 嫌そうな顔をして悪態を零した先生に、肩を竦めてベッドに押し戻す。簡単にぽすんと倒れこんだ先生の髪を撫でて、邪魔にならないように退けながら額に水に濡らしたタオルを置いた。先生はじろりと私を睨んだが、私は小さく笑ってぽん、と軽く先生の胸を叩く。

「病人は大人しくしておくべきですよ。いいんじゃないですか?偶にはこんな風になってみるのも」
「・・・ほぅ?ならお前は病人の言うことならなんでも聞くのか?」
「できる範囲でなら。病人の体によくないことは勿論しませんけどね。ティムも心配してますし、早くよくなってくださいね、先生」

 今ティムは大人しく部屋の外で待機中なのだ。別に動物じゃないんだから部屋にいてもいいとは思うが、まあティムの気遣いだというのならば何も言うまい。シーツの上に広がる髪を軽く手櫛で梳ると、先生は溜息を零して目を閉じた。ようやく大人しく眠る気になったらしい。ほっとしながら、しばらくそうやって先生の枕元で髪を弄り、立ち上がる。・・・いや、人の気配があったらあんまり眠れないかな、と思うので。そろそろとなるべく静かに外に出て、ぐるり、と肩を回す。ぱたぱたーと寄ってきたティムにすぐよくなるよ、と微笑みかけながら流し台の前に立った。

「さーてと。後片付け後片付け」

 水につけていた食器とスポンジを手にとって、洗剤に手を伸ばした。片付けが終わったら特にすることもないし、本でも持って先生の傍でのんびりしとこうかな。そんな算段をたてながら、今日は珍しい日になったものだ、とふぅ、と手についた泡に息を吹きかけた。