いつかの夢想に瞼を伏せた
桜色の刺繍糸を白い布地に通していると、不意に髪に触れるものを感じて顔をあげて横を向いた。私の後ろ、ソファに寝そべって新聞を読んでいたはずマリアン先生が何故か腕を伸ばして私の髪に触れている。さらさらと弄ぶように、大きな手と長い指が髪に触れるのに僅かに目を見張り、針を動かす手を止めて怪訝に眉宇を潜めた。
「なんですか、マリアン先生」
「なんでもない」
「いや・・・なんで髪弄ってるんですか」
「気にするな」
さら、さら、と時折掌から零すように落とされ、かと思えば指先でくるくると巻くように遊んでいる。視界の端に時折入る先生の手と、頭皮に伝わる感覚にうーん、となんとも言えない感覚を味わいながら軽い溜息を零して針を動かすのを再開した。問いかけても返ってくるのは気のない返事ばかりで、意味があるようには到底思えなかった。
まあ、髪を弄る程度のことに意味を求められても相手も困るだろう。何か用でもあったのかと思ったけれど、そうならばまず声をかけてくるはずだ。わざわざ髪を弄る必要もあるまい。そう思うと行動には本当に意味はないんだろうなぁ、想像がついて、好きなようにさせておく。その内飽きるだろう。別に、気になるといえば気になるけれども、やめてくれ、というようなことでもないし。本格的に邪魔されたらあれだけれども、今のところ先生にその気はないようだし。
思えば先生と二人でこんなのんびりした時間は、実際のところあんまり多くないよなぁ、と突っ張った布地を引っ張りながら思い返した。
大抵先生はどこかに行ってるし、私は私で賃仕事に明け暮れる毎日。見事なすれ違い生活、かと思えば旅路は常に一緒だし、ご飯だって一緒に食べることもある。・・・存外一緒にいる時間って多いのかもしれない、と思いながらもこういうゆったりとした時間は少ないよね、と針を刺してふと指を止めた。
相変わらず先生は何が面白いのか髪を弄っていて、その動きを感じて僅かに瞼を伏せる。微かに聞こえる髪の擦れる音が、時計の秒針と混ざり合った。
「」
「はい」
「その花はなんの花だ?」
髪を弄りながら、マリアン先生が問いかけてくる。言われて作りかけの刺繍を見下ろして、あぁ、と吐息のように声を零した。
「桜ですよ」
「桜?」
「日本の花です。日本には四季ってのがありまして、その内の一つである春に、日本全国で咲き誇る国花ですよ」
そっと、ぷっくりと糸で膨らんだ作りかけの花びらを指先で辿り、口角を持ち上げる。
薄紅色の桜。真っ白な色も、八重桜のようなピンク味が強い色も、全て鮮やかに枝に花をつける。春のどこかぼんやりとした青空に、眠たくなるような柔らかな陽気を携えて、見上げた先一面に咲き誇る、あの光景。わざわざ名所に足を運んで、人ごみにもみくちゃにされるほどの強い執着心はなかったが、それでも春になると見かける薄ピンクの光景は、春がきたのだなぁと十分に思い起こさせたし、間近で見てみたいと想像させるに十分な魅力あるものだった。枝にたわわに咲き誇る様もいいが、風に吹かれてはらりひらりと舞い落ちる姿も綺麗だった。とても呆気なく、風に舞いながらくるくると踊る姿は、晴れた日には美しい光景。地面に落ちたそれも赴きがある。勿論、土に薄汚れて見る影もないものだってあるけれど。それでも、桜は日本人にとって最早切り離せない花なのは明白だった。懐かしい。ただ懐かしいと思う。彩雲国にもあった桜の花。けれど思い出すのは故郷の桜。京の世界に咲き誇っていた雅やかさよりも、車のエンジン音や、騒がしい人の声、ちょっと遠くを見ればある家の屋根や、道路の通った道。河の両脇に植えられた桜並木、学校の校庭に植えられた一本一本。その気になればどこかには必ずあった。
山中の静かな場所でも、どこだって。思い出すのは、かつての世界の桜。見てみたいと、思った。もう見れないけれど、見たいなと思った。思いは無意識に指先に宿っていたのだろうか。
刺繍は桜の花のそれ。本物には遠く及ばないし、本物などもう見れないだろうけれど(この世界にだって桜はあるだろうけど、それでもそれは、見たかった桜じゃない)、思い出は郷愁の念を呼び起こす。
あぁでも、きっと今頃は葉桜の季節だ。薄紅は全て散って、地面に広がり、土に還る。花の残骸が無数に広がり、青々とした葉が枝葉を彩り、虫が顔を覗かせて。夏がくるのだと教えてくれる。葉桜も好きだった。薄紅ほど惹きつけなくても、青々とした葉が風にさざめく音が好きだった。懐かしい、懐かしい、懐かしい。もう一度みてみたい。もう一度あの世界が見たい。そうでなくても――故郷を感じたかった。
「・・・桜は、春に枝に一杯、薄紅色の花をつけて、一面をピンク色にするんです。本当に一面ですよ。遠目に見ると本当に凄くて。近くでも勿論綺麗ですし、桜の下でお弁当食べたりすると、陽気も手伝って気持ちいいんですよ」
「ほぅ」
「きっとマリアン先生はお酒飲んでますね。桜を見ながらなら、やっぱり日本酒がいいと思います。透明なお酒に、花びらを浮かべて飲んでもいいんじゃないかなぁ」
「花見酒か。美味そうだ」
「夜桜も綺麗ですよ。ぼんやりと灯りに照らされて。桜は昼も夜も素敵です。あぁでも・・・桜は、散り際もまた格別ですよ」
にっこりと微笑んで、桜を見ながらお酒でも飲んでいる様子でも思い浮かべたのか、にやりと楽しそうなマリアン先生を振り返った。さらっと彼の手を髪が滑ったけれど、気にしないで桜について語りだす。
「桜は満開の姿もいいんですけど、散るときもいいんですよ。潔く、ぱっと一枚一枚花びらが落ちて、あっという間に散ってしまいます。桜吹雪っていう言葉もあるんですから。その光景はきっと先生だって見惚れますよ!」
「そうか」
「散り際が潔い花なんですよね。まあ散った後の地面は悲惨っていえば悲惨ですけど、でもあの光景は素直にきれいだなーって思えます」
思い浮かべて、ふと苦笑を零した。膝の上にやりかけの刺繍を置き、それを見下ろしながら思い出した光景に下手糞な笑みを浮かべる。懐かしい記憶。純粋に桜を楽しんでいた頃、ただ舞い散る花に向けて刃を突きつけて、追いかけていた日々。記憶は様々だ。平穏な日々、戦うための日々、再び平穏の日々に、懐かしさと息苦しさを覚えて、今は、ただ、思い出す。今でも、本当は辛い。人を斬るための剣を覚えるために追いかけた花びらの数を思い出すと苦しくて、だけど桜はあまりにも故郷を思い出させるから懐かしくて。元の世界でのことは幸せで、京の世界でのことは辛くて、だけど皆で見た桜は大好きで、彩雲国だと思い出が苦しくて、記憶が重たくて、きれいなのに悲しくて、だけど懐かしくて仕方が無くて。
「昔の人は、その散り際の潔さに、武士の最後もこう在りたいって、気に入ってたらしいですよ。・・・そう思うと、ちょっと寂しいですけど。でも、栄えれば必ず終わりがくるって、一番表してる花かもしれませんね。散る美学って奴ですか。日本人の感性ですよねぇ、この辺は」
西洋の人間である先生にはわからないかもしれない。というかこの人基本的に諦めが悪そうというか、まあプライドのために死ぬのも厭わない気はするけれども、なんか色々と足掻いていそうなイメージもあるし。うーん、とマリアン先生のイメージを考えながら首を傾げると、不意につんっと髪を引っ張られた。はっと気がついて横を向けば、上半身を起き上がらせていた先生がじっとこちらを見ていて、きょとんとしながら首を傾げる。
「マリアン先生?」
「桜、か。お前がそれだけ言うぐらいだ、よほどのものなんだろうな」
「まあ好みは人それぞれですけどねぇ。いつか、先生にも見て欲しいです」
「見れる機会があればいいがな」
言いながらくっと持ち上げた口角は文句なく決まっていて、なんとなくかっこいいなぁ、と思いながら中断していた針を再び動かし始める。糸が形を作るたびに、瞳を和ませながら、ふっと吐息を零した。さらりと、マリアン先生が髪を弄る柔らかな感触がする。