スモーキング・パフューム
鼻につく、甘い香り。嫌いな匂いではなく、良い匂いだと思う。不快感はないけれども、少しだけ濃いような気もした。移り香のはずなのに、まるでこの人は私のよ、とでも自己主張しているかのように漂っている。少なくともその匂いをつけて他の女の人のところには回れないだろうな、ぐらいの思考は働いて、ソファに長い足をはみ出させながら横たわるマリアン先生を椅子の上から見下ろした。つけていた家計簿の上に、ころりと鉛筆を転がす。どうも彼は寝不足らしい。きっとこの香りの元の人と、遅くまで・・あるいは朝まで、まあなんだ。やってたのかもしれない。上から数個外されたボタンから覗く襟ぐりの首筋に、赤い跡が数個。少し視線を下げればちらりと覗く胸元にも、似たような跡がある。いわゆるあれがキスマークというもので、・・・あれってつけるの結構大変だとか聞いたことがある。けれど惜しみなくつけられているところに、独占欲の強い女の人なのかなぁ、とぼんやりと考えた。強い香りと、主張する跡。それだけのものをつけても、この人はその人のものにはならないんだろうか。不意に過ぎった思考を断ち切るように、ふと低い声が鼓膜を揺らす。
「なにを見てる」
「・・・え。あ、・・・すみません」
前髪をかきあげながら、鷹のように鋭い目がじろりと見てくる。別に、先生が怒っているわけでも不快に思ってそういう目を向けているわけでもないのはわかっている。けれど、なんとなくじろじろと見ていたのは悪いことのような気がして、咄嗟に謝って家計簿をパタリと閉じた。ぎしり、とソファのスプリングが軋む音が聞こえて、ぎくりと肩を揺らして肩越しに後ろを見れば、先生は上半身を起き上がらせてこちらを見ていた。・・・き、気まずい。別に何がどう、というわけではないのだが、なんとなく先ほどまでの自分の思考を思うとなんともいえない気持ちになったのだ。
「で、何か言いたげだな、」
「あー・・・いや、別にそんなことは」
「そんなにキスマークが物珍しいか?」
「・・・わかってて言うのは意地が悪いと思いますよ、先生」
にやり、とからかうように上がった口角に眉を動かして、溜息を零してのっそりと体を椅子の上で動かす。そうして無理なくマリアン先生に向き直ると、ちらり、と首筋と胸元に視線をやってなんともいえない、とばかりに表情を歪めた。
「物珍しいといえば、そうなんですけど・・・随分と我の強い女性といたんだな、と思っただけです」
「ほぅ?」
「香水の匂いも強いですし・・・嫌いな匂いじゃないですから別にいいんですけど」
これで苦手な匂いだったら間違いなく換気してたろうなぁ、と思いながら鉛筆を手の中で弄り、それ以上に何があるわけでもないしなぁ、と苦笑を浮かべた。先生は面白げに笑って、顎に手をかけてうっそりと指先で撫でる。それから軽く手招きをされたので、きょとりと首を傾げながら素直に椅子から降りて先生に近づいた。
「なんですか、先せ、いっ?!」
近寄れば、ぐいっと腕を掴まれて引っ張りあげられる。ぎょっと突然の行動に目を見開いてひゅぅ、と喉を窄めて息をつめると、軽々と膝の上に乗せられた。向かい合わせになるように、先生の膝の上にまたがって目を何度も瞬かせると、マリアン先生の顔がずい、と目前まで近寄ってくる。ちょ、近い近い先生!咄嗟に仰け反りかけた顎を、くっと指で固定されて動きが止まる。益々目を見開くと、先生は愉快気に片目を細めて薄い唇を動かした。
「嫉妬か?」
間近で問いかけられた言葉に、目をぱちりと大きく瞬き、思わず彼の目前で舌足らずにしっと?と問い返してしまった。そんな私に先生は楽しげに笑っているだけで、ソファの背もたれに背中を沈めると顎をくっとあげて私を見つめている。顎も開放されて、距離も遠のいたことにほっとしながら、先生の上に跨って、米神に指をあてて嫉妬の意味を脳内で検索した。えーっと。
「・・先生。嫉妬する要素がどこにも見当たらないんですが」
検索し、一応どういうものかは思い至ったが、それを自分が覚えているかといえば・・・そんなことは別にないな、と非常に納得して、いささか呆れたように言葉を返す。膝から降りようと身じろぎをしたが、腰を押さえつけられると動けない。えぇ、なんなの一体、と思いながらじろりと見れば、先生はつまらなさそうに鼻を鳴らした。え、なんでそんな反応されなくちゃいけないんですか。
「餓鬼だな、お前」
「失礼な、と言いたいですけど・・・そうなんですかねぇ?」
至極あっさりと言い返した私に、興が削がれたように溜息を零してズボンのポケットをまさぐった先生は、タバコの箱を取り出すと一本取り出して口に加えた。そしてマッチを擦り、火をつけると煙を肺の奥まで届かせるように吸って、吐き出す。近くで吐き出されたそれに顔を顰めて、先生、と少し咎めるように呼びかける。
「煙たいです。窓開けますから、手を放してください」
「あぁ、ほら」
言えば、先生は引き止めたのが嘘のようにあっさりと腰を開放した。なんだったんだ、と思いながらよいしょ、と上から下りて窓際まで近づく。
「そもそもですねぇ、先生。嫉妬って、独占欲があってこそ成り立つ感情じゃないですか。私別に、先生を所有したいとか考えてないですよ」
「お前に俺が所有できるなら見物だがな、そういう考えが餓鬼なんだよ」
「そうですか・・・まあ色恋に今のところ興味がないですからねぇ。しょうがないかも」
むしろ私が恋愛できる日がくるのだろうか。なんだか最早、精神年齢やらこんな人生ありえないことの連続体験やらで、色々麻痺してしまっているような気がしないでもないんだなこれが。カタリ、と音をたてて窓をあけながら、外を見下ろして空を飛んだ鳥の姿に目を細めた。サァ、と入り込んだ風がカーテンを揺らして、部屋の中の香水とタバコの混ざり合った匂いを散らしていく。ふ、と吐息を零して後ろを振り返り、横目で見る先生に笑みを浮かべた。
「子供ですかね、私」
「まあ、色恋だけで大人になるわけでもねぇがな」
言いながら灰皿にぽとりと灰を落とした先生はどこ、ということもなく壁を見つめながらく、と口角を吊り上げる。先生がそういうとはちょっと考えてなくて僅かに目を見張ったが、そういう考えもあるな、と納得してなるほど、と頷く。確かに経験をするに越したことはないかもしれないが、しなかったからといって大人になれないわけではない。そして、したところで大人になるわけでもないのだ。そう思えば大人ってなんなんだろうなぁ、とちょっとした哲学にぶち当たってしまう。先生は大人の括りでいいような気はするが、果たして私は大人になれているのだろうか。中身だけみりゃ大人でも間違いはいはず、だが。・・・微妙な気がするのは何故なのか。成長してないってこと?うっわぁ。それはそれでどうなの、自分。
「おい、。腹が減った。何か作れ」
「んーサンドイッチでもいいですか?」
視線を向けずにほぼ命令の形でそういわれて、反抗することもなく素直に頷いて窓際からキッチンへと向かう。ちょっとばかり成長してないかも、という自分にショックを覚えたが、まあいいや、と投げやりに匙を投げてパンを取り出してハムとレタスを取り出す。あ、トマトも挟もう。タマゴサンドもつけようかなぁ、と考えながらゆで卵の準備も始める。そういや先生は半熟より固茹でがすきなんだよねぇ。半熟も美味しいのに。そう思いながら、鍋に火をかけて、蓋をした。
「・・・でもやっぱ、先生は香水よりタバコの臭いがしっくりくるよなぁ・・・」
タバコの煙が先生の周りを覆った瞬間、なんとなく香水よりもしっくりして、そう思ってしまったのはやっぱり彼が誰かに縛られる様子が思い浮かばないせいだろうか、と一人内心でぼやいた。