勝者と敗者
わなわなと手を震わせ、そこに並ぶ数字の羅列に愕然としながら、ぐるぅり、と後ろを振り向いた。人の内心など気にもかけていないように、マリアン先生は真新しいワインのボトルのコルクを抜こうとしていて、その様子にひくり、と頬が引き攣る。こ・・の、人は・・・!!
「マリアン先生!!なんなんですかこの領収書はっ!!ていうかそのお酒!あれほど今月ピンチなんですから控えてくださいっていったのにーーー!!!」
「ケチケチするな、金は使うものだぞ」
「明日のご飯を心配するような事態だけはご免被りたいんですけどねぇ!?」
ゼロの桁が通常よりも一個は確実に多い金額にくらりと眩暈を覚えながら、いけしゃあしゃあと言うマリアン先生に、ああもう!と頭を抱えた。思わず手に力をこめてしまい、ぐしゃっと領収書に皺が寄ってしまったが、いっそこのままなくなってしまえ、と忌々しげな視線をそれに注いだ。けれどもどんなに睨みつけてもぐしゃぐしゃに丸めても、そこにある紙はなくならないし、その上の数字が小さくなるわけでもない。燃やしたところで事実は残り、どう足掻いてもなかったことにはならないと思うと、私の今までの苦労って、と世を儚みたくなった。
「あれっほど!生活費には手を出さないでくださいって言ったのに!言ったのに・・・!ていうか隠してたのになんで見つけるんですかあなたは!」
「お前の隠し場所はわかりやすいんだよ」
「そこは察しましょうよ!そこ気遣いみせましょうよ!どうするんですかこんな十何万もするお酒なんて買ってっ」
「俺が楽しむために決まってるだろう。いい酒は高いのが普通だ」
俺に安物を飲ませる気か?と踏ん反り返って長い足を見せ付けるように組み、ワイングラスを傾けるマリアン先生に、安物を飲んでくれ、頼むから、と土下座をしたくなった。あぁああぁぁ・・・・なんでこの人こんなに反省の色がないんだろう・・・!いや、わかってる。悪いなんてこれっぽっちも思ってないんだから、反省なんてするはずがないなんてことは・・・っ。だけどだけど、生活費が、それで先生だって生活してるのに、あぁもう明日からどうしろと!?いっそ泣き伏してしまいたい、と頭を抱えて苦悩していると、慰めるようにティムが周りを飛んでのしっと頭に乗ってくる。・・・ごめんティム。今その行動、そこはかとなくむかつく。
なんとなく苛ッとしながらも、ここで八つ当たりするのは大人気ない、と深呼吸をして、頭痛のする米神を押さえると、やれやれ、と言わんばかりに先生が肩を竦めた。待てこら。なんだそのさも私が駄々をこねてるみたいな反応は。違うだろ、そこは違うだろ!
「お前は一々細かいんだ。少しぐらい構わないだろうが、別に」
「全っ然少しじゃないですから。開き直ってますけどこれかなり高額ですから」
びし、と領収書を指さしながら真顔で言うと、懐の小さい奴め、などと言われた。こんの野郎、と殺意が湧いたのは何も間違いではない気がする。ちくしょう、最近は無断乱用がなかったから油断していたけど、この人もしかしてそれ狙ってたんじゃないか?
「先生、言っておきますけど人のお金を無断で使うのは泥棒も同然ですからねっ」
「あぁ?言ってくれるじゃねぇか、。誰の金で生活してると思ってるんだ?」
「私のお金ですよ」
間違いなく私のお金だよ、先生。さも自分の物のように言ってるけど、生活費やらなんやら諸々、私が走り回ってバイトに明け暮れて稼いだお金で賄ってるんですよ!むすり、としながら当然のごとく胸を張ってさらっと言い返すと、先生は傾けたワイングラスを戻して、ふ、と口角を吊り上げた。・・・・・・・・・あ゛っ。
「糞生意気な口きくようになったじゃねぇか、なあ?」
「ちょ、先生、その手はなんですかやめてくださいよ私は間違ったことは言ってませんよ、って、いたいいたいいたいいたいせんせーやめてーー!!」
「はっはっはぁ、小動物の泣き声なんざかけっらも聞こえねぇなぁ」
にっこりと、それはそれは周りに花でも飛びそうな見事な笑顔に嫌な予感しかしなかったのだが、伸ばされた腕に咄嗟に間に合わなかったのは不覚としかいいようがない。いや、そこはさすがマリアン先生とでも言うべきなのか。逃げる間もなく素早い動きで伸びた腕が、むにっと頬を抓んでぐいっと横に引っ張り、込められた指の力の強さに、冗談じゃなくマジで痛かった。
ちょ、手加減一切なしですか先生!ていうか理不尽!ちょー理不尽!!私は正論を言っただけなのに・・・っ。正論が一番腹立つってやつですか先生。大人気ないと思いませんか?!
「男はいつまでも子供みたいなもんだそうだぞ、。つまり大人気なくとも全然構わないわけだ、よかったな」
「ぜんっぜんよくないですぅーー!どこからのじょうほうですかぁっ」
爽やかな笑顔でむにーっと頬を抓られながら、痛みに若干浮かんだ涙で懸命に睨みつけたが、それはそれは楽しそうに笑っている先生の顔に、引っ張られた頬の筋肉がひくりと動いた。
やべぇ・・・この人ドSだ。なんて楽しそうな顔してるんだろう・・・!思わず逃げ腰になったが、頬を抓まれているとなれば、逃げることなどできるはずもない。いや、むしろ動いたせいで自分から頬を引っ張らせるような羽目になり、痛みは増すばかりだ。
うぅ・・・っなんで私あの時馬鹿正直に言い返しちゃったんだろう・・・!
「面白い顔じゃねぇか、。笑えるぞ」
「やってるのせんせいでしょう?!」
「それにしても餓鬼の頬ってのはこんなにも伸びるもんなのか・・・どこまで伸びるかやってみるのも面白いかもな」
「やめてください!いやもうまじで!おもしろがらないで?!」
頬を伸ばされているせいで、滑舌が悪い。たどたどしく訴えるが、先生は面白がってむにむにと頬を捏ね繰り回しては引っ張る、という動作を繰り返すばかりだ。
しかしそんな動作の間でも抓む力はなまなかなものではないんだから、マジ泣きも時間の問題か。ひーん、と全然開放してくれる様子のない先生に、そろそろ本気で泣くかも、思いながらべしべしと腕を叩くと、先生はひとしきり人の頬を抓って引っ張ると、満足したように手放した。
その瞬間、思わず両手で包むように添えながら、さっと急いで先生から距離をとり、目の端に滲んだ涙を擦るように拭って、ひどい、とぽつりと呟いた。
「うぅ・・・手加減一切無しなんてあんまりだ・・・」
「愛の鞭だ、喜べ」
「いや、私Mじゃないんで無理です。あーもー・・・マジで痛かった・・」
頬を撫でながら、赤くなってるかもなぁ、と思って深い溜息を零した。先生はすごく満足したようにワインを再び飲み始めるから、私の立場って、と思わず遠い目にもなる。こんちくしょう。
「・・・給料の前借りしないと、なぁ・・・」
まだひりひりする、と思いながら、明日からの生活のために色々遣り繰りをしなければならない現実に、がっくりと項垂れた。
そして今度は先生に取られないように、自分の懐で管理しておこう、と堅く誓ってぐっと拳を握り締める。家に隠すから発見されるんだ。この人そういう嗅覚はやけに鋭いし(性質悪い)、絶対自分の手元に置いていたほうが安全だ。うかうかへそくりもしていられないなんて、と思いながらバカバカとボトルをあけて飲んでいる先生から、てやっとばかりにボトルを取り上げ、さっと彼の射程範囲外に逃げる。また頬を抓られるなんて、堪ったものじゃない。
「あ、おい」
「一気に飲もうとしないでくださいよ、もう!」
せめて二日は生き延びさせたい、とボトルを抱え込んでじりじりと後退りながら、きっと先生を睨みつける。その視線の先で、先生はグラスの中身を飲み干して、それはそれは面倒そうな顔をした。
なんでこの人はこんなに非協力的なのか・・・!秀麗姉さん、屋敷の維持費も然ることながら、この人と比べると、あちらの人たちの協力は物凄くありがたいことだったのだと、今物凄く痛感しています。
・・・誰か助けてくれないか、この財政難を。はあぁ、とそれはそれは重たい溜息を吐き出して、私はボトルの口にコルクをきゅっと押し込んだ。