貰った許可証を、握り締めて
美しい賛美歌が聞こえてくる。高く、どこまでも伸びるような透き通った歌声。空気を震わせて遠く遠く響く歌声に鼓膜を震わせ、ぼんやりと周囲を覆っていく薄い光の膜に目を細めた。
生で聞いたことも無ければ、そもそも賛美歌そのものをほとんど聞いたことの無かった私に、それは全く未知の音楽にも等しく聞こえたのは懐かしい記憶だ。
もう何度この歌声を聞いたことだろう。数えるのも馬鹿らしく、そもそも覚えちゃいないのに数えるも何もないよね、と一つ溜息を零すとぺたりとその場に座り込んだまま、きつく目を閉じた。周囲を見ないように、何も見ないように、恐ろしいものを見ないように。そして同じように両耳も塞ぎ、できるだけ音が聞こえないようにぎゅっと体を小さく丸めた。
それでも大きな音は塞いだ耳を介して届く。連続して聞こえるのは銃声音。後に続くのは激しい爆発音。なんて穏やかではない音の響き。耳を塞いでもその音はあまりにも大きくて、嫌でも聞こえてくるのだから本当に泣きたくなる。ビリビリと、腹の底から震えが走るそれに嫌だな、と瞼に込める力を更に強くした。耳を塞ぐ両掌が、カタカタと震えている。それは周囲から轟くそれ故なのか、それとも私の恐怖心が拒絶反応を起こしているのか。どちらかというと後者の意味合いが強いのかもしれない。嫌だ、嫌だ。こんな音も、瞼を開けば広がる光景も、何も見たくない。聞きたくない。ただただ、生温い平穏の中に身を浸しておきたいという、たったそれだけでさえ、中々叶わない現状がひたすらに悲しい。それでも、いずれ終わりはくる。終わりを告げるのは、いつだって低くて通りのいい聞きなれた声だ。
「。いつまで縮こまってるつもりだ」
私の耳に、周囲のあの恐ろしい戦いの音ではなく、別の低くて通りの良い声がするりと滑り込んでくる。耳を塞ぐ両手のせいで、幾分か小さく聞き取りづらいけれど、明らかに今までとは違うそれにパッと俯いたまま、目をあけた。そしてそろそろと耳から手を離し、顔をあげる。先ほどまで、あの異形ともいえる悪質なそれと戦っていたとは露ほどにも思いつかないほど平然と、いつも通りに佇むマリアン先生が、タバコの煙を立ち昇らせ、見下ろしてくる。その背後には血の気というものが全く感じられない、漆黒のドレスに身を包んだ不可思議な女性がいる。思わず目を細めたが、次いで全てを忘れるように瞬きを一度し、口元に笑みを浮かべた。
「もう終わったんですか?マリアン先生」
「この俺があんな雑魚に手間取るわけがないだろう。秒殺だ、秒殺」
「それもそうですねぇ」
確かに、と納得しながらよいしょ、と立ち上がり、服についた土や小石を払い落とす。ぱたぱたと服を叩いて、それからようやくまともに周囲を見渡せば、残骸こそ多々見えるけれど、残っているような気配はない。見回してみても、あの醜く吐き気を催すような、酷い有様の怨霊は見つけられなかった。
私が周囲を・・・いや、AKUMAが現れたときに、目を閉じるのは一重にその魂たちのせいだ。AKUMAの鎖に雁字搦めにされた魂はあまりにも・・・そう、昔、遙かの世界で見たよりも尚酷い有様だったから。遙かのときはあれだ。魂そのものがあの化け物染みた形を取っていたから、どことなく割り切れもする。まあそれでもさすがに骸骨が動いていたりするのは目を逸らしたくて仕方なかったのだけれど。あの当時、それができるような立場ではなかったのだから仕方ない。こちらでは完全なる戦力外のおかげでいくらでも逃避できるのが幸いだよな、と一人ごちた。
不快で、穢れも強いそれを、なるべくなら目にいれたくないというのは真っ当な神経ではなかろうか。AKUMAの鎖に縛られた魂は、あまりにも――醜く、悲しすぎた。確かに、いつも先生がホルスターの銃を引き抜くときは、驚くほど早く物事は終わる。それだけこの人が強いということなのだろうが、それでも・・・戦いの気配というのは、どうにも不安や恐怖を煽って仕方ない。あぁ、トラウマになってんなぁ、と思いながらいそいそと先生まで近寄り、控えめに服を握り締めた。そうすることによってやっと安堵を得られるような、全ては終わったのだと思えるような、安心感がある。そして先生も別段振り解こうとはしないから、それに甘えて私は深く息を吐いた。そうしている間に先生は女性・・・聖母を棺の中へと戻し、その扉を堅く封じるように鎖を巻いていく。とはいっても手でチマチマとしているわけではなく、まるでそれそのものに意思があるように、ジャラララ、と音をたててそれは棺に巻きついていくのだ。その光景は慣れたものではあるが、この世界ってなんなのだろう、と思うこともしばしばだ。先生曰く、「魔術」らしいが、ということは先生って魔法使い?そして厳重に、幾重にも鎖で巻かれた棺が完成すると、それは唐突に小さくなった。いや、正確に言うと沈み始めたのだ。・・先生の影の中へと。
「毎回思いますけど、不思議な光景ですよね」
「まあ、素養のない奴からみればそうだろうな」
素養があるないに関わらず不思議だと思いますけど。特別なことだとも思ってなさそうに、とぷん、と影の中に完全に沈んだ棺を見届け、先生がコートを揺らして歩き始める。私はおっと、と呟きながら慌ててその後に続き、やはり置いていかれないように服を掴みながら、そっと後ろを振り返った。壊れた機械の欠片、時折辺りに染み込んでいる赤黒いもの。それはとても殺伐としていて、無機質な・・・とても冷たい光景。赤黒いそれは出来るならば見たくなくて、すぐさま視線を外すと後ろを振り返ることなく、それが日常だと、それが当然だと、呼吸するのと同じような自然さで通り過ぎていく先生の背中に再び目をやった。
広く大きな背中を見ると、自分の顔から表情が乏しくなるような感覚を覚えた。何を思ったのか、正直自分でもよくわからない。ただ漠然とした、もやもやとしたものが胸の奥に淀むような違和感を覚えて、あぁ、この感覚嫌だな、と視線を落とす。わからない。その感覚の理由が見つからなくて、ただ漠然と不安になっている。戦うこと自体についてなのかもしれない。戦うことを当然としている先生に対してかもしれない。そこは、きっと一生かかっても、私は理解できないし、したくもないと思っている。先生の服を握る手を一瞬緩め、それから再び強くすると捏ね繰り回すように引き寄せた。つん、と突っ張る感覚に気づいたのか、ずんずんと進んでいた先生の足が少しだけ遅くなる。そうして振り返った動きを感じて、私はあえて顔を見せなかった。見せられるはずが無かった。多分、こう、なんともいえない顔をしていると思うから。
自分の顔が見れるわけじゃないのでどんな表情をしているかはわからないが、ろくでもない顔だろうなあとはなんとなく悟れたので。そうすると、ほんの僅かに溜息が聞こえて、再び先生が前を向いた気配がした。
「面倒くさい奴だな、お前は」
「・・・」
「嫌なことなら、考えなければいいだろう。鬱陶しい」
「はっきりいいますね」
「ハッ。事実だからな」
片手間に鼻で笑われて、地味にぐさっとくるよなぁ、となんともいえない気持ちになった。いやわかるけど、確かに鬱陶しいのも面倒なのもわかるけど。先生の言ってることにさしたる間違いはないから、余計にぐさっとくるっていうか。でもしょうがないじゃないか、こう、沈んでしまうことだって人間あるんだから!
「逃げたいなら、逃げりゃいい」
「逃げても、逃げられないことってあるじゃないですか」
「逃げてる間は楽だろう?お前はそうやって逃げまくって、いつものように俺の言うことを聞いてりゃいい」
「私は先生専属の召使か何かですか・・・」
ぽつりと言い返して、やっと顔をあげる。勿論先生はすでに前を向いてこっちなんて見てはいなかったけれど、大きな背中を眺めてほっと吐息を零した。私、逃げるばかりでいいのかな。逃げていても、いいのかな。言葉にはせずに、そう自問して――先生が逃げてもいいっていうんだから、別にいいか、と思うことにした。
「今日は、何作りましょうか」
「ビーフシチュー」
「あーじゃあ牛肉買わないといけないですねぇ。丁度いいですから買い物しましょうよ、先生」
ぐい、と服を引っ張り、先生の進路を商店街へと修正して、やっと私は、笑みを浮かべられた。