未経験区域



「飲んでみるか?」

 そういって差し出された赤色の液体に、私は迷うことなく拒否をした。
 なのにそれは先生にとって大変面白くない回答だったらしく、酒精が回って上がっていた気分がさも害された、とばかりに眉間に皺が寄った。猛禽類のような眼差しが細められると益々鋭さを増して、私は居心地の悪さを覚えながら溜息を零して先生の前に定番のチーズのおつまみを置く。黒胡椒もついでに横において、お好みでどうぞ、といったところだ。
 ・・・なんか先生と暮らすようになってから必然的にお酒に合うものの知識が増えていっているような。まあチーズは前々から知っていた定番メニューではあるが。次はドライフルーツでも用意しようかなぁ。

「俺の酒が飲めないっていうのか?
「酔っ払いみたいな発言はやめてください、先生。さして酔ってないでしょう、まだ」

 先生はこれぞまさしくアル中だ、とばかりにお酒を飲む。酒を飲まない側からすれば恐ろしいほどの酒量で、そして恐らく飲む側にしてみてもかなりの量を一日で消費しているはずである。
 そんな先生が、まだワインの瓶の半分程度の量でそうそう酔うはずがないことは明白だ。溜息を零しながらじとりと見ればフン、と鼻を鳴らして先生はぐいっとワインを煽った。

「お前に酒の良さを教えてやろうという俺の気遣いがわからんのか」
「遠慮します。恐らく、というか確信を持って私にお酒は口に合いませんから」

 そもそもマリアン先生の飲むお酒度数も高いでしょう。臭いだけでも中々きついのに、それを飲めとか笑うこともできやしない。憶測でもなくほぼ確信を得て拒絶すれば、先生は益々面白くなさそうにじとりと目を向けてきた。
 私はそれに困ったような視線を返しながらも、後悔することがわかっていて手を出したいとは思わない、とその場から離れようと立ち上がる。

「私、片付けがありますから失礼しますね」

「一人で楽しんでください」

 名前を呼ばれるが、ここで立ち止まれば確実に捕まる。それだけは勘弁願いたい、とそそくさと先生の射程距離外に出て、ピシャリッと言い切ってからお盆を持ってキッチンに戻った。
 あー、全く。明らかに飲めなさそうだと分かるくせに、自分がその気になれば実行しようとするあの癖なんとかならないものか。溜息を零しながら、使ったままの包丁やまな板を洗い、片付けてお盆もいつもの定位置へと戻す。夕飯の片付けはもう終わらせていて、ぶっちゃけやることないんだよね、これ以上は。でも先生にああ言ったのは逃げるための言い訳で、頬に手をあてて溜息を零しながら、お風呂に入ろう、とぽくん、と手を打った。
 すでに先生は一番風呂に入って一服している最中なのだ。私が入ったところでなんら問題はない。後は別にすることもないし、先に寝させてもらおうかなぁ。明日も早いんだし。そうしよう、と一人で納得し、台所から出ると言ったとおり一人でワインを飲んでいる先生の座っているソファの後ろを通ると(いや、そこ通らないと部屋行けないから・・・)、不意に伸びた腕ががしぃ!とホラー並に唐突に腕を掴んだ。ひぎゃぁっ?!

「え、え、なんですか先生?!」
「俺を素通りしようとはいい度胸だ、。罰として酒に付き合え」
「ちょ、先生まだその話題引きずってたんですか?ああもう、お酒は飲めませんって、何回言えばわかってくれるんです?そもそもこんな子供にそんな度数のきついもの勧めようとしないでください」

 中身はともかく外見は全くの子供だ。男の子ならなんとなく経験としてあってもよさそうだが、一応これでも女なんですけど、先生?子供か、この人は。いや、自己中心的なだけなんだろうけど。腕を掴まれたまま、溜息を零して明らかに呆れた、という態度を示してみるが、大してこたえた様子もなく先生は更に強引に腕を引っ張った。普通に考えて先生の力に敵うはずもなく、また抵抗すればするだけ意固地にもなりそうだと思い、溜息を零して引っ張られるままに先生の座る一人掛けソファの横に回る。

「子供だろうが、今から飲んでいれば慣れもするだろう?お前でもまあいないよりマシだからな」
「いつも一人で勝手に飲んでるくせに何を今更」

 それでもお店にでも行けばいい、と言わないのは金銭的面を考慮して、だ。これが普通のパトロンのところならばまあ、お金の心配はないかもしれないがまかり間違って店に行かれて豪遊されたら手痛いどころの出費ではない。家の中で収まるのならば、その方が安上がりなのは事実だ。女性にかけるお金もお酒にかかるお金もここにある分だけで納まる。それを考えると、この我侭に付き合うのも節約の一つか、と溜息を零して頷いた。

「はぁ・・・全く。一応付き合いますけど、飲めないってことは念頭に置いといてくださいよ」
「まあ、最初から期待はしてないがな」

 だったら無理矢理付き合わせるなよ、と言いたくなかったがぐっと堪え、この人は・・・と額に手を添えて項垂れる。と、ぐいっと腰に腕が回され、膝の上へと招かれた。まるで逃げられないように拘束された気分である。先生の膝の上に座らされる形になり、物凄く微妙な気分になりながら横を見れば、先生はシニカルに口角を吊り上げて、ワイングラスに多少残っているお酒を突きつけられる。

「期待はしてないが、付き合うといったからには付き合えよ?」
「・・・一口じゃダメですか」
「一口で全部飲めるなら構わんが?」

 要するに全部飲めってことですね、先生。意地悪く笑って鬼のようなことを言う先生に、全然考慮する気ねぇこの人、と泣く泣く私は先生の手からグラスを受け取った。うお、これだけで凄い臭気が。眉を寄せつつ、アルコールきつい・・・とぼやいてそっとグラスに口つける。吐きそうになったらどうしてくれる気だろう、この人。とりあえず息止めて一気に煽ろう。一応もう残り少ないし。ていうか先生の飲みかけか、それはそれで微妙だな。考えながらぐっとワインを煽ると、とりあえず、咽た。

「げほげほっげふっ・・・ちょ、マジこれきっつ・・・!!てかやっぱり美味しくないーっ!」
「餓鬼の舌だな、この味がわからんとは」
「わかりませんよこんなもの!そもそも難易度も高いし!げほっうぇっ・・・」

 こう、鼻から口から、アルコール分がこみ上げてきて咽ること咽ること。味も、まあなんというか葡萄?って感じの味がしないでもないが、やっぱり慣れない舌ではアルコール!って感じしかない。あと甘いわけでもないし、なんか凄く微妙な味。よく飲めるな、こんなもの。
 げほげほとしきりに咽る私に、いささか鬱陶しげな顔をしながら(あんたのせいなのに!)先生はべしべし、と掌で頭を叩いて空になったグラスに新たにワインを注ぐ。

「さすがにこれはきつかったか」
「最初から言ってたでしょう?!」
「あ゛ー、うるさいうるさい。耳元でキャンキャン喚くな」
「喚かせてるのは誰のせいですか・・・っ」

 あーくそ!腹の立つっ。ぐいっとまるで水のように私が咽たワインを飲む先生に眉間に皺を寄せながら、この自己中心男め!と内心で悪態を吐いた。  巻き込んでいてこの態度!わかってたけどすごい理不尽!!むっとしながら、ふいっと顔を逸らして先生に用意したチーズに手を伸ばした。  口直ししなければもうやってらんないよ、本当。ていうか、少量だったのにすでに頭がふわふわしてるような頼りなさなんですけどね、先生。明日には残らないだろうが、私本当に酒飲めそうに無いな、と溜息を零した。・・・今度からは酌だけで我慢してもらおう、うん。そうしよう。