手当て



 私は知った。
 缶詰の蓋ってまさに凶器。
 うわなんていうか、痛いというより驚いた。スパッと、それは綺麗に切れた親指からダラダラと止め処なく血が流れていく。何が起こったのかいまいちわからなかったが、冷静に状況を分析すると、私は缶詰の蓋で指を切ってしまったらしい。ある意味器用だ。切り口からじわじわと溢れ、筋を描くように落ちていく血が、掌を伝い滴り落ちそうになったところで、あ、と慌てて流しの方へと手を向けた。間一髪。缶詰の中に血は落とさず、多少転々とした血痕が調理台の上にできてしまったが、まあすぐに洗い流せるし。ぽたぽた、と流しの中に血が落ちていくのを見て、きゅっと水道の蛇口を捻った。ザァ、と出てきた水流に手を突っ込み、血を洗い流す。けれど中々血が止まる様子がなく、うぅむ、と眉間に皺を寄せて首を捻って後ろを見た。

「マリアンせんせーハンカチかタオルください」
「あぁ?どうした」
「缶詰の蓋で指切りました」

 新聞を読んでいた先生が顔をあげて怪訝な表情を作ると、私はあっさりと答えて早く早く、と急かす。とりあえず血が止まるまで手当ても何もないもんねぇ。舐めようにもさすがに少量、とは言いにくい微妙なラインの量の血を舐めとる趣味はない。多分気持ち悪くなる。
 ・・そもそも、今でさえあんまり見ていて楽しい気分にはなっていないのだから、舐め取るなんて言語道断だ。先生は至極面倒そうに新聞紙を畳み、呆れた様子で目を半眼に落とした。

「間抜け」

 ・・・反論できん。う、と言葉に詰まって視線を泳がせた私を小馬鹿にするように鼻を鳴らし、先生は渋々といった様子で立ち上がる。ティムが周りを大丈夫?とばかりに飛び回るのに笑って平気、と言ってやりながら、おらよ、とばかりに投げ渡されたハンカチを顔で受け止めた。

「わっ」
「鈍い奴だな」
「片手塞がってるんですから大目にみてください」

 もう、と悪態を零しながらずり落ちて首元にまとわりつくハンカチを手に取り、蛇口を捻って水を止め、じわじわと滲み出してきた血を押さえ込むようにハンカチでぐるぐる巻きにする。そして心臓より高く手をあげながら、救急箱を探そうと踵を返すと、、とマリアン先生に呼び止められた。振り向けば、先生の前のテーブルの上には救急箱が置いてあり、先生はタバコを歯で挟みながらパカリと蓋をあけた。

「こっちにこい。手当てしてやる」
「・・・先生が?」
「なんだその意外そうな顔は。失礼な餓鬼だな」
「あーいや・・日頃を思うとちょっと」
「ほーう?」

 ハンカチに包んだ親指を押さえ込みつつ、視線を泳がせればニィ、とばかりに吊り上った口角が悪人面を描き出す。ちょ、先生その笑顔怖い怖い!すみません謝りますからその「どう苛めてやろうか」みたいな笑顔はやめてくださいっ。

「だったら最初から言うんじゃねぇよ。おら、さっさとそこに座れ」
「・・はーい」

 乱暴に言われて、まあ確かにこういうことになる可能性を知っているのだから、最初から言うものではないな、と溜息を零して先生の横に腰かける。血は止まったかなぁ、と巻きつけたハンカチを解くと、べったりと血が付着して真っ赤になっている。えぐい。そして、まだ止まっていなかったらしくふつふつと切り口から滲み出す血にあー、と顔を顰めた。

「まだ止まらないみたいです・・・」
「綺麗に切ったもんだな」
「ですねぇ。缶詰の蓋って凶器になりますね、これだけスパッといくと」
「感心してんな、馬鹿娘」

 べしっと頭を叩かれていたっと声をあげながら、溢れてくる血をハンカチで再度拭い取る。
 白い布地に染みこむ赤に、このハンカチもう使い物にならないかも、と危ぶみながら地味な痛みと溢れる赤に眉を潜めた。・・・気持ち悪い。眉を潜めて視線を外した先で、先生はタバコから煙を出しながら救急箱を漁り、中から消毒液とガーゼを取り出していた。取り出したものを手に持ちながら、くるりとこちらを振り返る。

「見せろ」

 主語はないが流れから傷であるのは明白で、頷きながら差し出せば真横に引かれた線から赤いものが滲み出る。血が床に落ちないようにハンカチで周囲を覆いつつ、先生が傷口に消毒液をつけるのをぼんやりと眺めた。ちょっと染みる。そしてあっという間にガーゼをあてて手当てをしてしまうと、一仕事終わった、とばかりにソファに背中を預けてタバコの煙を目一杯吸い込み、吐き出す。鮮やかな手並みに一瞬ポカンとしながら、しげしげと手当てのされた親指を見て、はぁ、と吐息を零した。

「手馴れてますね」
「仕事柄、日常茶飯事だからな。怪我なんてもんは」
「あぁ、・・・そうですね」

 今を思えばこの人が怪我をするところなんて想像もつかないけれど、人間だもの。昔はそういうこともあったのだろうと考えながら、やはり想像できないな、とぼやいた。最早この最低最悪な、それでいて完全無欠ともいえる人の失敗談などあまり想像ができない。あるのだろう、とは思っても、それを想像できないのだ。毒されている。そう思いながら手当てをされてガーゼなどで大きくなった指を見つめ、動かしにくいなぁ、と呟いた。

「・・・家事がしにくいですね」
「自業自得だろう。缶詰の蓋で切るなんざ、器用なことだ」
「自分でもそう思います。これからはちょっと気をつけないといけませんね」

 溜息を零して、何をどうやって切ったのか、と自分でも呆れるぐらいだ。とりあえず、缶詰を開けっ放しなのでそれを出して夜食を作らなければ。あぁそういえば血も垂れてたっけ?掃除しないとなぁ、と思いながらぎしり、とスプリングを軋ませて立ち上がる。先生は使ったものを片付けて、再び新聞紙に手を伸ばしていたので私は先生を見下ろし、手当てを受けた手に触れながら微笑んだ。

「ありがとうございます、先生」

 感謝に、先生はちらり、と視線を向けて口角を持ち上げるだけで、それ以上の反応はなかった。あぁだけど、それでいいのだと、私は笑って背中を向ける。あ。ハンカチも早く洗わないと、染みが取れなくなってしまう。・・もう手遅れのような気もするけれど。さて、どちらを優先するべきか。