晴天の霹靂



 その夢を見始めたのはいつからだったのだろうか。
 始めからなのかもしれない。最近かもしれない。ずっと昔かもしれない。つい昨日のことなのかもしれない。時間の感覚が曖昧なほど、何時の間にか当たり前に私はそれを延々と見続けていた。
 気がつけばいつも同じ夢をみていて、今日も同じ寒い寒い真っ暗闇の中、ぽつんと一人で佇んでいる。本当に芯から冷え込む突き刺すような寒さの中、明かり一つ差し込まない暗闇で怖いぐらいの静寂が私の周りを取り囲んでいる。虚無というのは、あるいはこういう場所のことを指すのかもしれない。
 けれど不思議とさほど恐怖を感じなかったのは、いつもその暗闇に響き渡る音があったからだ。

リン、リン、シャン、シャン

 綺麗で涼やかで、甲高い鈴の音。耳の奥から、遠くから、内側から、外側から。染み渡るようにいつも包み込んで聞こえてくる。

シャーン、シャーン、シャラーン、リィン

 鈴の音色。暗闇に響く音色。その音色を聞きながら私は暗闇の中、自分の姿も見えないままで、ただじっと佇んでいるような錯覚を味わっている。意識だけがそこを漂っているかのように。そして鈴の音を聞きながら、やがて意識は夢のような現実へと戻るのだ。
 やがて意識しなくなる夢は記憶から薄れ、再び夜に出会うということを繰り返し。何度目だろう。いくつの夢を越えたのだろう。
 思いを馳せると、不意に、暗闇だった視界が明るさを取り戻した。いや、表現するのならば閉じていた瞼をあけて、やっと周りの光景を視界にいれたのかもしれない。周りを包む暗闇はそのままに、神々しいまでに光り輝く、白と金色の、大きな蛇にも似た生き物が、私の目の前に存在していた。驚いたように目を見張り息を詰める。
 蛇のように長い胴体を覆う白銀の鱗。背中に靡く金色の鬣。胴体についた手は短く、爪は太く鋭くて、片方の手には向こう側も歪みなく見通せるような透き通った玉を大切そうに握っていた。長い顔にびっしりと生えている鋭い牙。それで噛まれれば人の体など瞬時にひき肉になってしまいそうだ。その牙の奥、口から覗く赤い舌は艶めかしく、鼻の下から伸びる長い髭は風もないのにたなびいて、蜜を溶かしたような深く濃い、黄金色のハ虫類の瞳が真っ直ぐに私を映す。
 何度も瞬きを繰り返して、繰り返して、驚きを隠せないまま、目の前の生き物を―――それは龍と呼ばれるのだろう幻想的な生き物を食い入るように見つめて、私は首を傾げた。

「白龍・・・?」

 白い鱗に覆われた体。映像や、イラストで見たことがある。これは、彼の龍神の本来の姿ではないだろうか。金色の鬣に髭と、眩い瞳。自分の体の何倍も何万倍もある龍の、眩しいまでの神々しさ、雄雄しさ、そして畏怖に慄きながらも、何故か妙に懐かしいような、嬉しいような、近しいような、奇妙な親近感を覚えてそっと手を伸ばした。どきどきと心臓が高鳴っている。今までの夢にはない新たな動きに動揺しているのかもしれない。ただ目の前の空想の産物でしかなかったものを、夢とはいえこの目で魅入る事実に興奮しているのかもしれない。それとも、この―――理由のない愛しさに、心が奮えているのかもしれない。
 伸ばした手はいとも容易く目の前の龍に到達した。固い鱗を撫で、思ったよりもさらさらと柔らかい鬣に触れ、金色の瞳を覗きこむ。そっと細められた目は優しかった。ハ虫類の瞳なのに、空恐ろしい思いよりも、瞳に篭められた感情の優しさにほっとする。
 白龍だと思った。あの子もこんな風に、優しい、暖かな、慕う者の目で私を見てくれる。
 くすりと笑い、白龍の鼻の頭を撫でて、問いかけた。

「ねぇ白龍。なんで大きくなってるの?まだ望美ちゃんはクリアしてないでしょう?」

 ゲームストーリーも、運命も。白龍を元に戻すだけの力を、彼女はまだ溜めていないはずだ。私の夢だからと言われてしまえばそれまでだが、けれどなんで私の夢で獣型の白龍が現れるのか。疑問である。
 普通は人型、つまり日ごろ見ている姿が夢に現れるはずである。夢というのは当人の記憶の繰り返しであるらしいから、より鮮明で印象的なものが色んな形になって、夢の中に現れるはずだというのに。
 夢でこんな問いかけも可笑しい、とそう知りながらもやはり夢のせいか。大して疑問にも思わずに白龍の鼻の頭を撫でたままでいれば、彼は緩やかに声を響かせた。
 口が大して動いているようには見えないのに、頭に響くように低く。遠くから聞こえるように緩やかに。近くから聞こえるように鋭く。けれどどうにも優しい声は、聞いていてなんだか心地よかった。

―――神子。

「ん?神子は望美ちゃんでしょ」

―――神子。

「違うよ、白龍。望美ちゃんを探してるの?一緒に探そうか?いるかわかんないけど。私の夢だし」

 思えば出てくるかな、と眉間に皺を寄せて念じてみるが、光景に変化はなし。
 相変わらず白龍は龍のままで、暗闇は暗闇で―――しいていうなら、なりを潜めていたはずの鈴の音色が、シャラシャラと鳴り響き始めた。音に白龍から視線を外し辺りを見渡せば、また低い声で、空間を震わせる。

―――神子、神子。我が神子よ。

「・・・龍になると一人称も変わるのか」

 あのあどけない物言いはなりを潜め、声に見合った古風な口調にへぇ、と感嘆の声を洩らせば、白龍は体をうねらせて私の周りを囲んだ。白い鱗に覆われた巨体がぐるぐると自分の周りを回るのに、ぎょっとしながらもしたいようにさせる。顔は固定されたまま、互いに見合った状態で、白龍はそっと目を細めた。

―――神子。我が神子よ。誰とも重ならぬ異なる時空の稀なる神子よ。

「・・・え?」

―――我に近しき我の声を聞き、我を見定める我が神子よ。

「白龍?え、なに?どうしたの、ねえ」

―――愛しいひとよ。恋しいひとよ。我の声を聞き届けよ。

「白龍?白龍!なに、なんなの。ねぇ、なにっ?」

 話しかけているのに、遠い。誰に、というわけではない。まるで私に語りかけるように、愛しげに何度も繰り返す白龍に疑問を覚え、妙な焦りと感覚に、必死に彼に呼びかける。
 けれどそれすらも心地よいものとしているかのように、人の困惑などお構いなしに彼はただ一言、述べた。


―――我が傍に、神子。


 目を見開く刹那、ぶっつりとそこで何もかもが途切れた。





 神子様一行が旅(ていうか戦、か?)に出てしまって数日経った朝にそんな変としか言い様のない夢を見てしまい、なにか奇妙な心地を覚えて日中を過ごすことしばし。
 けれど夢は所詮夢で、何か特別なことがあるわけでもなく、いつもと変わりない一日を過ごしている真っ最中だ。望美ちゃん達が戦に出て、無関係なる私にできることといえばのんびりまったりお屋敷でお留守番、というわけで。誰が戦なんて死地に行くかっての!
 まあちょこまか御手伝いなるものをしたり(邪魔にならない程度に)縁側に座ってぼけっとしたり、刺繍をしたり(おかげで最近針仕事が得意になってきた)そんな風に時間を潰して過ごしている毎日。うーん。なんだかんだでいつもの面子がいないと、ヤッパリ暇は暇なんだな。なにせ彼等の行動は眺めてるだけで面白いし、何故かは知らないがよく構ってくれるし。今頃大変なんだろうなぁ、神子様一行。と他人事のように思いながら、偶々見つけた古井戸に私はなんとなく足を向けた。屋敷の近くにこんな井戸あったんだね。
 中にあるのは知ってるけど、外にもあったんだ。しかも割りと近く。でも、なんだか人が寄りついてないってことは、枯れてしまっているのだろう。暇潰しの散策で、珍しい、というかそこはかとなく興味が引かれないこともない古井戸、という存在に、ふらふらと近づいていく。
 林になっていて、木々が無作法に群生しているその中を歩きながら、風化して腐りかけている井戸の枠組に手を添えた。あ、蓋されてる。・・・やっぱり危ないのかな、小さい子が覗き込んで落ちたら事だもんねぇ。あるいは、この中に都合の悪いものとか捨てていってるのかも。でも、きっと底なんてそうそう見えやしないと思うんだが。つらつらと考えながら、石まで置かれている蓋に、ふぅ、と溜息を零した。さすがに、石をどけて蓋を取ってまで中を見ようとは思わない。しかし、この蓋も随分と年季が入っているものだ。

「ボロボロね」

 隙間から中が覗けそうだ。少し触ればそれこそ崩れていくんじゃないか、という蓋に、なんとはなしに指先を這わせてみる。ざらざらとした感触。棘が刺さったら嫌だな、と思いながら、ふと一番大きく開いている隙間から、中を見た。真っ暗闇の、井戸の中。・・・不気味だな、と思った刹那。

「・・・ん?」

 ちらり、と。何か、顔のようなものが見えた気がした。
 あれぇ?と首を傾げて、もう一度よく見ようと顔を近づけて。


―――見つけたぞ、神子。


 聞き覚えのありまくる声がした気が、した。空耳か?と瞬きをした刹那、それはもう唐突に、井戸の中から凄まじい突風が吹き上げる。下から駆けぬけるような、それは、抑えていた石も蓋も、屋根すらも破壊して、空中に持っていく。ただの板きれの残骸となったそれが、竜巻に巻き込まれて空高く飛んでいくように。突然の突風に、悲鳴をあげてたたらを踏み後ろに下がる。顔を庇いながらぎょっと目を見開いて、私はその光景を見つめた。
 なにこれ。呆然としていると、ものすごい風の中、井戸の中から薄ぼんやりと誰かの影が浮きあがってくる。その光景にものすごく見覚えがあって、言葉もなく私はそれを見つめた。
 緋色の衣。輝く金髪。肩の黒い動物に、――顔の半分を覆う、仮面。

「ア、ク、ラム・・・?」

 なんで。そんな思考が過ぎる間に、陽炎のようなそれは、口元に冷笑めいた微笑みを浮かべた。そして、こちらに向かって手を伸ばす。


―――来い、我が神子よ。


 低い声は、やっぱり聞き覚えがありまくるものだった。呆然としていた私は、本当に、何かに誘われるように吹きつけてくるものすごい風の中、差し伸べられた手に向かって、手を伸ばしていて。頭の片隅で、(ちょっと待て、なんで私が手を伸ばしてる?)と疑問をあげながらも、体は頭の命令を無視するようにアクラムに向かっていた。まるで、誰かに操られる、よう、で。
 私の手と、アクラムの手が、触れ合うかというその間際。再び井戸から凄まじい風を巻き上げて、今度は真っ白な光のような何か大きなものが、天に向かって飛び出してきた。思わず、その風に押されるように伸ばしていた手を引っ込めて自分の顔を庇うと、とぐろを巻く何かが、私とアクラムの間を隔てるように、私を取り巻いた。
 そうして、風に押されるようにふわりと足が浮く。げ、と顔を顰める暇などない。呆気に取られる間に、アクラムは舌打ちをして伸ばした腕を引っ込めて、忌々しげに私を・・・ていうか、私の周りをとぐろ巻いている何かを睨みつけた。


――己・・・。


 一言、恨み言のように何か呟いて、その姿は掻き消えた、と思う。曖昧なのは、私もその瞬間、とぐろを巻いたそれに、風と共に井戸の中に落とされたからだ。
 あまりのことに、甲高い悲鳴が尾を引いて流れた。ビュンビュンと唸り声をあげて風が鼓膜を揺らし、私の体は真っ暗な底知れない井戸の底へとただただ落ちていく。遠ざかる光が、みるみる内に小さくなると、不意にシャーン、と軽やかな鈴の音が聞こえた。落ちる感覚に恐怖のせいで固く閉じていた目を、その鈴の音に驚いてあける。そして、八つに光るまぁるい石が、私の周りを飛び交っている光景が、見えた。
 様々な色、輝き。気が付けば、落下していたはずの体はいつの間にか平坦な場所に落ち着いていて、地面と思しき場所に二本の足で立っていた。突然の場面転換に、働かない頭で周りを見やればどこか見たことのあるような暗闇が広がっていた。驚いて一歩後ろに下がると、足元から波紋が広がった。水があるのだろうかと思ったが、なんの感触もしない。ただ私を中心に広がり、八つの玉が、くるくると私の周りを踊るように飛び交い―――鈴の音色が、際立つ。
 ぎょっと、息を飲んだ。おいおいおいおい、なんだこれは?!と目を剥く暇もあればこそ。それは音もなく私のそばから離れて、いずこかに飛び立ち。ぼんやりと浮かぶ人影に、それは飲み込まれていったように思う。いつのまに人影が、とか。そのシルエットはあいつらだろ、と思って目を白黒させていた私は、唐突に八つの人影から飛び出してきた八つの玉が、こちらに飛んでくるのにひっと後ろに後退った。しかし、玉はあっという間に引け腰になった私の前に来ると、体にぶつかってきて・・・いや。ぶつかってきたように思えた。
 けれどなんの感触もなく、また突き抜けていった様子もなく・・・まるで、私の中に入り込んでしまったかのようにふぅ、と消えてしまった。自分で自分の体を抱きしめながら、あまりにもあまりな光景に言葉もままならず、ただ絶句して辺りを見まわせば―――鈴の音色が耳朶を打ち。

「あ・・・」

 視界に、うねるように大きく空間を泳ぐ、白い龍の姿を捉えた。咄嗟に手を伸ばしてその体に触れようとする刹那、龍の瞳と視線が合う。ギクリと体を強張らせると、それは緩やかに瞳を細め――いきなり現実に放り出されたのだった。いや、これを現実と呼んでいいのかはわからないけど。とりあえず。

「なんなの、一体・・・」

 呆然と、私は明らかに梶原邸ではない屋敷の片隅で、腰が抜けたようにへたりこんでいた。