雨後の筍



 あぁ―――うるさい。





 ――さすがに、黙って出ていくと色んな弊害が起きるだろう、ぐらいのことは理解している。
 あかねちゃん達が黙って行動して起こる数々の騒動。思い返せば大切な神子様の身に危険がないように、配慮するのはあちら側としては至極正しいのである。ああいうの見るたびに思うが、何故に勝手に行動するのかね?主人公というものは。まぁそうでないと諸々が成り立たないからなんだが、周囲の気苦労をもうちょっと察するべきでは?言えない場合もあるとはわかるけどね。
 まあ私は神子ではないのだが、それでも一応、成り行き上、ここでは賓客使いだ。ならば出かける時、いらぬ騒動を避けるために誰かに話しを通すのは極々普通のことである。天真を探すために(短気な奴だなぁ)土御門の廊下をのそのそと歩きながら、通りかかった女房さん(詩紋くんを見て大変脅えていた。気味の悪い、恐ろしいものを見る目で)に、出かける旨を伝える。

「まあ、どちらに?」
「特に行き先は決めていないんです。ちょっと友人を探しに行くだけですから・・藤姫にはそのようにお伝えください」
「神子様、ですが外は危のうございますわ。牛車か・・・護衛の者を誰か一人でも。藤姫様がなんというか」

 危ない、と言った時に彼女の視線が詩紋君に寄越される。その目が鬼などと、雄弁に語っているように思えて、詩紋くんの顔が曇った。青い目を伏せて俯く詩紋くんに視線を向けて、困ったように眉を下げる。・・・こんなあからさまな差別や嫌悪を、私はあまり知らない。
 あちらは一応平等を掲げているし、今更先天的な色味でどうこうというのは珍しいぐらいだ。単純に私の周りがそうなだけであって、別のところに行けばそれはそれなりにあったのかもしれないけれど。でも、人にとって自分の周りが世界の全てのように思えるのは仕方ないのである。だから、私にはあまり覚えのないその感覚に、居心地の悪さを覚えながら一歩女房さんから遠ざかり、詩紋くんの横に並んだ。

「牛車だと動き回り辛くて友達を探せませんから。護衛の方も・・・その、目立ってしまいますし。・・・半時、ぐらい経っても帰らなかったら、・・・神泉苑にいますので、迎えにきてください。あ、あと何か被るものを一つ。お願いできますか?」

 いなかったら何かあったと思ってくださいな。妥協案としてそう告げると、女房さんはそれでも良い顔をしなかったが、渋々と頷いた。頭を下げて歩き去っていく背中を見つめて、髪長いなぁ、と一人呟く。そしてなんて見事な十二単だろう。お雛様以外で十二単なんて初めてみた。長い裾をずるずると引きずって、遅々とした動作で進む姿に邸の廊下が広いのは服の幅分の考えがあるからなんだろうか、と思った。それに、髪が地面に届いて尚且つ広がっていく長さもびっくりだ。黒々とした髪は真っ直ぐで、この時代に天然パーマはいないのだろうかと思ってしまうぐらい。いや、いっそ髪の重み故にいなかったのかもしれない。
 日常的にあんな物を着ていて、そしてあんな髪型の人がここにはゴロゴロいる。その不可解さになんとも言えない気持ちになりながら、歴史的背景に感動を覚えた。どうであれ、十二単姿はとても綺麗だった。ただ。

「重たそうだよね、あれ」
「え?」
「十二単の話し。あの重みで女房さんとか動くのがゆっくりなんだよ。結構鍛えられてそうだよね」
「あぁ、そうだね。すごいよね。僕も十二単姿の人をこの目で見るなんて思わなかったよ」
「時代劇とかのテレビ越しじゃないもんねぇ。生だし、ここではあれが日常的だし」
「僕達、本当に異世界にきちゃったんだね・・・」
「今更だけど、そうなんだよねぇ」

 しみじみとお互いに呟き合い、信じられないね、と言い交わす。曇っていた詩紋くんの顔が、ほっと和んだように明るさを取り戻したのに安堵しながら瞬きを数回、意識的にこなした。ゆるゆると口角を持ち上げて微笑み、柔らかな金色の髪に手を伸ばす。くしゃ、とやはり見た目通り柔らかな髪をなでると驚きに見張った目が見えた。かわいい、とそう思う。
 あちら側では、同年代に近い子で、こんな子はいなかったから。だから尚の事可愛い、とそう思う。・・・・・・これがああなるなんて、時代は厳しいなぁ、とも思ったけれど。

ちゃん?」
「ん。いきなりごめんね。私人の髪とか触るの好きでさ」
「ううん。全然いいんだけど・・・」
「詩紋くんの髪は柔らかくていいねぇ。色も好きだし。黒髪もいいけど、金髪も綺麗だよね!」

 無論黒髪キューティクルのストレートも大好きだ。やっぱり黒髪でしょう!と思うことなんてよくある。だけど、こうして見てみると金髪もなんて綺麗なんだろうか、と実感するのだ。
 自分にはない色で、人工的では追いつかない自然の産物。その色味の綺麗さは、やはり特有のものなんだろう。光に梳けるとキラキラ輝くときとか、一本一本がどこか透き通って見えるところとか。若干フォローの気持ちがなかったとは言わない。女房さんの視線に、傷ついた彼を慰めるという打算がなかったとは言わないけれど。でも、これは限りない本心だ。本当に、そう思っている。慰めの意味を込めていても、思う心は本当なのだから。
 廊下の向こう側に、帽子に長い布が垂れ下がっている被り物を持ってきた女房さんが見えて、絶句している詩紋くんから顔を逸らす。あからさまだったかなぁ、と思いながら帽子を受け取り、お礼を言ってから詩紋くんに差し出した。彼は戸惑いながらそれを受け取り、女房さんにありがとう、と微笑んで言っていた。その時、彼女の顔が驚いたような、気味が悪いような、そんななんとも言えない顔になっていたが、無難にも口を閉ざして頭を下げるだけにしている。プロだな、と感心して、帽子を被った詩紋くんの手を引く。さて、漫画では何時の間にか仲良くなってたものだが、ここではどうしたものか。周りが友人を、腫れ物を触るような扱いをしているのはさすがに気分がよくない。どうしたものか。再度思いながら、ゆっくりと邸の外に出た。





 外に出て一刻程度だろうか。天真を探すにしてもあてなどどこにもなく、闇雲に探しまわれば最初と同じ徹を踏む羽目になる。無駄に体力も消耗するし、目処として有名所、つまり観光名所になるようなところから探してみよう、という結論に落ちついた。とはいっても半時、要するに一時間程度で神泉苑に向かわなくてはならないのだから、大した捜索はできそうもないけれど。ゲームではどこで天真と遭遇できたんだったかな。記憶が曖昧だ。
 時計という便利なものはないから、大体太陽の位置などを見ながら時間の推測をしつつ(伊達に3の時代で過ごしていたわけではない)溜息を零す。いっこうにそれらしき人影は見当たらず、結局一旦神泉苑の方まで行く事になった。まあ、遙かの中では神泉苑というのはかなりの名所だ。実際でも名所なんだし、そこにいる可能性は高い。―――それに。

「鈴、」
「鈴?」
「あ、ううん。なんでもないよ、詩紋くん」

 怪訝な顔で小首を傾げて反復した詩紋くんに、咄嗟に笑顔を浮かべて首を振る。丁寧に手までつけて否定しながら、前を向いて眉間に皺を寄せた。
 時折聞こえる、空耳のように響く鈴の音。最高に鬱陶しい、とそう思う。シャラシャラと鳴る音は確かにきれいだけれど、隙あらばとでもいいたげに何度も聞こえればうんざりもしてくる。なんだ、これは。私の耳は可笑しくなったのか。疲れか、精神的にまいっているのか。・・・どっちも有り得そうでやるせない。怒涛のごとく押し寄せてくる問題に、疲労だって溜まるというものだ。だからといって幻聴まで聞こえるようでは、マジで精神的にキているのかもしれない。
 しかも鈴の音だなんて、不吉、とまで言っては失礼だが、それでもあまりいい気はしなかった。原因はきっと夢にあるのだろうと、そう思うのだけれど。その鈴の音は、神泉苑に近づけば近づくほどひどくなる。一瞬行くのを躊躇うように、誘いかけるように。何かがあるのだと、そう告げるように。怖いと、意味もなくそう思った。理由は見つからないけれど、行けば何かが取り返しのつかないことになるような。
 不安に重くなる足を、誤魔化しながら歩くと不意に詩紋くんが立ち止まった。

「詩紋くん?どうしたの」
「・・ちゃん。僕、ちょっと疲れちゃった」
「え?」

 髪や目の色を誤魔化すために被っている帽子の、垂れ下がっている布から覗くようにして詩紋くんが微笑む。柔らかな微笑にきょとりと瞬くと、きょろきょろと辺りを見まわして詩紋くんは私の手を取った。

「壁際の方でいいよね。少し休んでもいいかな?」
「え?・・あぁ、うん。別にいいけど・・・神泉苑もうすぐだよ」

 ならさっさと行った方がいいんじゃないか、と長い壁に沿って続く道の先を指し示すと、詩紋くんはいいからいいから、とらしくなくぐいぐいと手を引っ張り、壁際に寄っていった。
 らしくない強引な様子に、いきなりどうしたんだろう、と首を傾げれば、詩紋くんはそのまま壁によりかかるように背中を預けた。動く様子がないそれに、私も不思議に思いつつ同じように背中を壁にもたれかける。チリン、と先ほどよりも大きく響く音に、溜息を零した。

「ごめんね、ちゃん」
「え、なに。いきなり」

 響く音にうんざりしていると、唐突に詩紋くんがそう声をかけてくる。さっきから行動がよくわからないな、と思いながら首を傾げれば、薄い布の下から彼は頼りなく眉を下げていた。

「天真先輩のこと、心配させちゃって。先輩も、焦ってるんだと思うんだけど・・」
「あぁ、そんなこと。別にどうってことないよ。当然だと思うし」

 彼の行動はある程度予想していたものだし、何より焦りや不安は当然のことだ。もしかしたらまだ夢かもしれない、と思っているのかもしれない。それもまた、極自然なことだろう。こんな非現実的なこと、真向から否定してなんぼである。むしろ即座に信じるとか脳内お花畑も良いところだ。
 瞳を細めて、詩紋くんに微笑みかける。当たり前のことだから、と再度言葉を重ねた。

「誰だって、信じられないよ。こんなこと。夢みたいなこと。現実じゃないみたいで、夢じゃないかって思ってて。・・・夢だって、思いたくて。そういう不安を、どうにかしたいのって本当、普通のことだよ」

 でなければ、耐えられない。こんな非現実的なこと、押し潰されてしまいそうで。最初から、納得して受け入れられる人なんてそうそういないだろう。ふい、と詩紋くんから視線を外して白い壁を見つめる。ずっと真っ直ぐに続く壁の一つ一つの黒い染みや薄汚れた部分を眺めて、私みたいに、と内心で呟いた。あの時の私のように、きっと信じられない。
 最初に遙かに来てしまったときのように、わけがわからなくて、こんなことあるはずがないって頭から否定して、認められなくて、受け入れたくなくて、否定して否定して夢だと何度も思って、いつか覚めたらいいと思って。皆がいることが、夢なのだと思ってた。現実なはずないと、ずっと、ずっと。―――それでも覚めない夢に、覚えた絶望はいつだって内に巣食ってる。

ちゃんも、信じられない?」
「うん。信じられない。だってこんな夢みたいなこと、現実で起きるなんて思わない。詩紋くんも、そうでしょ」
「・・・うん。僕も、まだ、ちょっと信じられない」
「でしょ。だから、天真くんのこと責めようとは思わないし、迷惑だとも思ってないよ。あぁでも、探しまわる羽目になったのは面倒だなぁって思うけど」

 これで厄介事に巻き込まれたら本当、目も当てられないね!くすくすと笑いながら、よいしょ、と壁から離れる。一、二歩前に歩いてくるりと振り向き、じっとこっちを見る詩紋くんに声をかけた。

「そろそろ行こうか。現代っ子は今のところ私達だけなんだから、離れ離れは寂しいもんね」

 本当は少し違うけど、でも似たような物だから。一緒にいれば、きっと不安も少なくなるだろう。ついでに迎えの人よりも先にいなければ何か大事になりそうでそちらの方が不安だ。
 天真は、・・・まあそのうち見つかるだろう、というえらい楽観的なことしか思ってないのだが。だって彼八葉だし。なんとかなるよきっと。それよかあかねちゃんはまだ来ないのかなぁ。詩紋くんに背中を向けたまま歩き出すと、ぱたぱたと追いかけてくる足音が聞こえてくる。それを背中で聞きながら、横に並んで彼を確認して、前を見る。そういえば詩紋くん疲れたとか言ってたけど、さっさと動き出して大丈夫だったのかな。うーぬ。

「詩紋くん」
「なに?」
「動いて平気?まだ休んでた方がよかったかな」

 こてん、と首を傾げて問いかける。色々と急いではみたものの(時間が明確にわからないから、どれぐらい目処にすればいいのか難しいんだよねえ)、やっぱり、もう少し気遣えばよかったか?!心配に眉を潜めると、彼はきょとんと瞬いて、それからにこぉ、と天使のような笑顔を浮かべた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・かっわいいな!!

「平気だよ。ちゃんこそ、大丈夫だった?」
「私?私は全然平気だけど」
「そっか。ならいいんだ。あ、あれって入り口かな?」

 柔らかく瞳を細める彼は、そういって前を向くと前方を指差す。つられて前を向いて、あぁあれかな、と呟いて少し足を速める。まあ基本的に京って道が完成されてるから変わらないし、一度覚えてしまえばわかりやすいんだけど。そう思いながら、それでも多少変わってることは変わってるので(主に風景が)不安は尽きない。多少自信なさげに頷きながらひょっこりと神泉苑を覗き見る。つーかこれって勝手に入ってよかったんだか?まあいいか、別に。気楽に考えながら侵入した神泉苑だが、その刹那、一際強く大きく、鈴の音が響いた。
 一瞬、世界からあらゆる音が根こそぎ喪失して、ただ、その鈴の音以外に聞こえなくなったように。


―――――シャーン


「・・・っ」

 びくり、と肩が震える。思わず見開いた視界に、吸い込まれるように入る光景。何故か、導かれるようにその姿だけが入り込み、息を飲んであ、と呟いた。

「・・・天真くん?」
「えっ?」

 ぽつりと呟けば、詩紋くんが反応する。私は水辺に佇む人影に眉を潜めて、天真だよなぁ、とぼやき、さっと駆け出した。驚いた。こんなところにいたんだ。ゲームってここで会うっけ?
 覚えてないなぁ、と思いながら、何かを握り締めて佇んでいる天真の横顔に声をかける。

「天真くん!」
「・・・?」

 ゆっくりと振り向いた天真の微妙な表情に、首を傾げながら目の前まで行くと立ち止まる。
 ぐき、と首逸らして見上げた天真は焦燥感も露わに何かに動揺している様子で、ぎゅっと拳を握り締めた。ぱたぱたと詩紋くんの駆け寄る足音を聞きながら、ニコリと笑いかける。

「こんなところにいたんだね。探したよ」
「あぁ・・探してくれてたのか」
「まあね。詩紋くんも心配してたし」

 駆け寄ってきた詩紋くんに微笑みかければ、天真も詩紋くんを見て目許を和ませる。
 どうやら外に出て大分頭は冷えているらしい。そりゃそうだ。これでまだ頑固にもうだうだ言っていたらどうしたらいいのかわからない。連れかえるのも難しそうだものねぇ。どことなく罰が悪そうにオレンジの頭をかき乱す天真は、ふぅ、溜息を零して視線を泳がせた。

「・・・悪ぃな。心配かけて」
「いいですよ、天真先輩。そう思うのも当たり前のことだと思いますから」
「そうそう。むしろのんびりしてた私達の方が可笑しいぐらい?」

 私の場合慣れと知っていることの違いだとは思うけれど。ねー、と2人で顔を見合わせて、それよりも、と私は視線を天真の手元に向けた。さっきから何か握っているようだが、何を持ってるんだろう。そういえば、この後何かイベントが起きたような気もするんだけど・・・なんだったかな。天真は私達の様子に微苦笑を零しながら、そっと手を広げる。その広げた手の中を見つめて、きょとりと首を傾げた。

「ネックレス?・・いや、指輪?」
「先輩、これは・・・?」
「蘭の・・・妹のだ」

 ぽつりと、重々しく真剣に口を開いた天真に、詩紋くんの目が驚愕に見開かれる。そして私は思わずぽくん、と手を打ちそうになり、慌てて顔を引き締めた。あぁ、そうだそうだ。なんかゲームだとそんな会話があったような気がしなくもない。
 しかし、かといってここで驚きに目を見張るわけにもいかず(なにせそんな事情は知らない設定だ)無難に口を閉ざして首飾りを観察した。シンプルな指輪に紐を通しただけの実に簡単な作りだ。手作りなのかもしれない。しばらく雨風に晒されていたのか、薄汚れているそれをじっくりと見つめて、天真の首からぶら下がっているものに目を留めた。・・・お揃いのだっけ、確か。天真は見上げた私を見て、影を落とした顔で説明を始めた。

「俺の妹・・・蘭っていうんだが、そいつが持ってた首飾りなんだ。これ」
「妹、さん?」
「あぁ。ほら、これと同じだろ?」

 言いながら胸元からぶら下がっているそれを抓んで見せる天真に、同じだね、と頷く。知ってるけど、色々とそりゃもう事情なんざ知ってるんだけど、と思いながら神妙に口を閉ざし、それで?と促した。ある程度こういう演技は諸事情で上達しているはずだが、違和感はないよね?客観的に見れないのが厳しい、とそう思いながら相手の出方を見ていると、天真は更に続きを口にした。

「蘭は、三年前に行方不明になってるんだ。唐突に、本当に前触れもなくいなくなって・・どこを探しても、見つからない。警察もほとんど諦めてる状態で、・・・俺は、蘭を探してた」
「・・・」
「天真先輩、そのせいで学校のほとんどを休んでて、留年もしちゃって・・・」
「そう、なんだ」

 そうとしか答えられず、それ以後口をつぐんで上目に天真を見上げる。内容が暗い・・・っ。事情は大体把握してるが、改めて聞いてみると大問題な家庭事情だな!
 いや、明るく語る内容じゃないのは重々承知してるけど。いざ面と向かって告白されるとかなりコメントに困る話しだ。なにせ今は口を挟める状態でもないし、嫌な沈黙が辺りに満ちる。・・・・・・・・ど、どうしろというのさ・・・・っ。

「えっ・・・と。その、行方不明になってた妹さんのネックレスが、なんでここに・・・」

 沈黙に耐えかねて、白々しくもそう言葉を形にする。とりあえずどうにかこうにか進ませないとどうにもならないわけで。戸惑いに視線を揺らした刹那、ぞわりと背筋に悪寒が走った。


「―――神子」


 ゆっくりと、低い聞きなれた声が神泉苑に響き渡る。先ほどまでどこか穏やかだったはずの空気が、その声が響いた途端にピン、糸が張り詰めたように緊張感を帯びた。前触れもなく聞こえてきた声に、天真と詩紋くんが驚きに目を見張りばっと勢いよく振り向く。その2人の反応とは逆に、私は吸い寄せられるようにゆっくりと視線をそこに向けて、ひゅっと軽く息を飲んだ。
 ざわざわと、先ほどまで気にもならなかった風に騒ぐ木々の音が耳につく。湖面を揺らす風紋さえも、何かの緊張を帯びているように見えて。その、張り詰めた神泉苑の中、吹き渡る風に緋色の衣を靡かせる男の姿に、ごくりと喉が鳴った。
 不審者も甚だしい顔の半面を覆う仮面に、煌びやかな金の髪。瞳は鮮やかな青だっただろうか。今は見えずとも知っている、丹精な顔を思い描きながら、忽然と気配もなく姿を現した不可解な男に、天真は咄嗟に私の前に出て相手を睨みつけた。ただそこにいるだけだというのに、どこか不穏な雰囲気に気付いたのだろうか。単純に、仮面の男だから怪しいと思っただけかもしれない。けれども異様な空気なのには違いなく、詩紋くんは戸惑いも露わに男を見つめていた。声もなく、私はひそやかに呟く。――アクラム、と。

「龍神の神子よ、よくぞ来た」
「なんだ、テメェ・・・っ」

 天真が眉間に皺を寄せ、眼光を鋭くさせながら歯を剥き出しにして唸る。詩紋くんはぴったりと私に寄り添いながら、明らかに様子の可笑しいというべきか、不審過ぎる人物に不安を隠そうともしない。アクラムは天真の敵意や、詩紋くんの脅えた視線を、むしろ心地よいものとしているかのように薄っすらと口元に笑みを浮かべる。やたら赤く目に付く唇の色に目が眩む。私はぎゅっと自分の袖を握り締めた。す、と彼は緋色のたわわな袖を揺らして、こちらに向けて手を差し伸べる。私に向けて、その整った指先を、大きな掌を見せつけて。

「あの時は龍神に邪魔をされ、この手を取る事は叶わなかったが・・・今一度、我が元に来るのだ、神子よ」

 軽く天真は無視だなこいつ。無視されたことがよほど腹立たしかったのか、天真はこいつ・・っと低く唸った。しかし私はそれどころではない。・・・・アクラムどえらい勘違いなさってる・・・!!私に向けて放たれる数々の言葉に、うわぁお、と内心で呟きながら、顔を歪めてぎゅっと拳を握り締めた。

「な、何を勘違いしているか知りませんけど、わ、私は神子なんかじゃないです、よっ?」

 言葉が尻窄みになるのは、チキンな性根故勘弁して欲しい。だって、さすがアクラムとでもいうべきか。風体は不審者そのものの癖して、持っている雰囲気は気圧されるばかりに迫力がある。上に立つってこういうことを言うのかな、とそう思うしかない威風堂々とした姿は、彼の容姿や独特の雰囲気も相俟って飲み込まれそうになるほど圧倒的だ。ただ本当に、・・・・・怪しい以外の何者でもないんだけどね・・・っ。美形なんだから顔出せよお前!
 天真の背中に隠れながら反論した私に、アクラムは笑みを殊更深いものに変える。くつり、と喉奥が震える声が聞こえた。

「お前がなんと言おうと、神子であることに違いはない・・・私がお前を召喚したのだから」
「・・・えっ?」
「私が召喚したのだ、お前を。その稀なる力を、私のために振るうために。さぁ、神子よ。くるがいい、我が元へ」
「ひっ、ち、ちが・・っ。わ、私は神子じゃないっ。間違えてる、絶対違う!!絶対召喚する相手間違えてるからぁ!!」

 囁くように、低い声が麻薬のように甘く聞こえてくる。差し伸べられる手が誘いかけるように。私に向けて伸ばされるそれを、私に向けて紡がれる言葉を、けれど私は耳をふさいで聞かないふりをした。違う、そうじゃないのに。どうして皆、そこまで勘違いできるのだ。
 馬鹿みたいだ。馬鹿みたいだ。どうして、みんな、みんな。私に向かって神子だなんて言うの。これで本物が来たら赤っ恥だよ。一歩後退り、小さく頭を振る。

「違う・・・っ!」

 私じゃない。私であるはずがない。神子は彼女だ、あかねちゃんだ。
 なのに、響く鈴の音が、白龍のあの低い声が、あまりにも耳にこびりついて離れない。

「・・・認められぬか、神子」

 ぽつり、とアクラムが呟く。差し伸べた手を下ろして、じっとこちらを見つめてくる。私はその目を見返して、唇を引き結んだ。認めないとか、信じないとか、そういうことじゃない。
 だってこれは、歴然とした事実。私は、当たり前の否定をしているはずなのに・・・なのに、どうしてこんなにも不安に思わなくてはならないのだろう?

「ちっ。テメェも、こいつにその神子って奴を押し付けようってのかよ・・・っざけんなっ」

 ギリ、と天真の歯軋りが聞こえる。ざっと足音をたてて、私を庇うように腕を横に伸ばした天真は、アクラムを睨みつけて拳を握った。

「誰がテメェなんかにをやるかよ!!」
「五月蝿い羽虫だ・・・。貴様に用はない」

 ・・・あぁちょっとアクラムその言い方酷いというか、天真その台詞恥ずかしい!!堂々と言ってくれたけれども、内容を考えるとかなり恥ずかしいという事実にワンテンポ遅れて気付き、思わず掌で顔を覆う。詩紋くんも私の前にいてくれてよかった・・・!絶対今顔赤くなってる気がする・・っ。
 アクラムの至極鬱陶しそうな、微塵にも興味がないという冷徹な態度を観察する間もなくなにかこう、色んな意味でここにいたくない、という感情にあぅ、と内心で唸る。耳を塞ぎたい。もう本当、何も聞きたくない気持ちだ。視線を泳がせると、アクラムは再び吼える天真を無視して私に視線を向けて、微笑んだ。

「例えその者が神子と認めずとも力は本物。我が元にあるのが相応しい・・・その力、私ならば良きように導いてやろう」
「・・・いや、だから神子じゃないですし、そもそもそっちに行く気もないですし、ね?」

 疲れる、この会話。なにか色々と突き抜けた気持ちで、堂々巡りでしかない気のするそれに困ったように眉を下げた。気弱に言葉を返すと、アクラムはくっと口角を吊り上げる。
 すっと手を中空に滑らせると、圧倒的優位を疑っていない風情で彼は囁いた。

「――私が、お前を元の世界に帰せると言っても?」
「・・・・・・・・・え?」

 疲れて僅かに俯いた顔を、その瞬間勢いよく跳ね上げる。天真と詩紋くんが息を飲んだ気配を感じながら、瞬いた目でアクラムを見つめた。・・・帰せる?彼は私達のその様子に気を良くしたのか、上機嫌に喉を慣らして手を広げた。

「そうだな、そこの2人も帰してやることができる・・・私の力と、お前の龍神の力を持ってすれば」
「なっ・・」
「そんなこと・・・」
「できる。そう、このように」

 信じられないようにうろたえる2人を嘲笑うかのように、アクラムは広げた手で宙を撫でた。
 その刹那、彼の背後に大きな揺らぎが生まれる。ぐるぐると何かの力が集中していくのを肌で感じて、ぞくりと産毛を逆立てながら食い入るようにその光景を見つめた。歪む。空間が。何もないその場所が、不自然に歪んで・・・・開いていく。

「・・っ」
「あ、れは・・・」
「嘘だろ・・っ」

 言葉を失って呆然とする私に代わるように、天真と詩紋くんの驚愕の声が静かな神泉苑に木霊する。アクラムはただ悠然と微笑み、翳した掌を返して見せた。指し示す先。コンクリートの舗装をされた道路、ビルの立ち並び、行き交う車―――この世界には、決して有り得ないもの。唇が戦慄く。指先が震える。元の世界。現代。京ではない場所、元の世界。
 コンクリートの地面、行き交う車、信号の色、立ち並ぶ二階建ての家屋、ビルの灰色。それは紛れもなく現代で、そこにあるものは本物で、偽物だなんて、そうは思わないけど。見えるものは、確かに、本当の、現代のものなのに。――――本当に、それは私の世界?
 すとんと、内に何かが落ちる。冷たい手で心臓を握り込まれたかのように、きゅっと小さくなったそれが痛い。逆にその痛みがやけに思考をクリアにしていく。二人が驚きに慄く中、冷静な頭が問いかけてくる。――あれは本当に、「私」の世界なのか?
 あの、歪んだ空間の先に映る世界は、本当に私がいた場所なのだろうか?遙かのゲームがあって、今目の前の人達が声を当てている人達がいる、「現実の世界」?

「それは・・・」

 呟く。思わず零れた声に、天真が振り向く。詩紋くんが心配そうに眉を曇らせる。アクラムが、私を見つめる。一歩踏み出し、砂利の鳴る音がする。「おい」止めようとする天真の声が遠い。「ちゃん」呼ぶ詩紋くんの声がか弱い。アクラムの、沈黙が近い。きゅっと泣きそうに眉を寄せて、胸元に手を添える。アクラムの向こう側の世界を見つめて。

「それは、本当に・・・私の、」
「神子殿!!」

 縋るように伸ばしかけた腕は、けれど届く前に鋭い声と共に現れた背中にピクリと止まった。