雨後の筍



「末恐ろしい力だね」

 緊張の糸が切れたように、くたりと力なく気絶する少女を抱きとめながら、どこか畏敬さえ覚えた声で、彼は澄み渡る世界を見渡した。





 夢のように不確かだったそれが、その瞬間一気に現実に引き戻されたようにはっきりとして、パチクリと瞬いて目の前を遮る大きな背中を見つめる。彪柄のそれと背中に流れる濃い青色の髪を見止めると、あ、と口を動かして一気に後ろに下がった。伸ばした手を握り締めて、自分の胸に押し当てる。息を飲んで唇を引き結ぶと、まじまじと視線を上から下まで巡らせた。頼久、さん・・・?

「神子殿、ご無事ですか」
「えっ」

 頼久さんはすらりと抜いた刀をアクラムに突きつけながら、私を伺うように横目でちらりと見てくる。アクラムが正面にいるからだろうか、目を逸らすことが出来ないのだろう。
 低くどこか無感動な、感情を押し殺したような声は、やはりどこか威圧感を感じる。何より、その、・・・丁寧語な三木さんの声って、ものすごい久しぶりすぎて、違和感が・・・。
 似ても似つかない。どちらも整ってはいるけれども、全然タイプが違うのだ。まあ、基本的に3キャラは1、2、とはキャラをガラリと変えてきてしまったのだから当然なのだが。
 それでも、将臣には覚えたことの無い威圧感や、そのどこか冷たい物言いや、鋭い眼光にはどうしても脅えが先立つ。出会いが出会いだったのも手伝い、僅かに顔を強張らせてぎゅっと私は袖を握り締めた。頼久さんは、そんな私を一瞥するだけで、また視線をアクラムに戻す。あ、と思ったけれど、もうこちらを見ていない彼に手を伸ばすこともできずに、眉を寄せて唇を噛んだ。

「星の姫がつけた番犬か・・・無粋なことをする」
「鬼め・・・何故このような所に」

 興が殺がれたように、私に向けて差し伸べていた手を戻し、緋色のたわわな袖を翻し、アクラムが鼻を鳴らす。仮面に隠されて目の動きはわからないが、きっと不愉快げに眉を寄せているのだろう。空気が、愉快そうだった先ほどとは違って、どこか不穏なのだ。いや、むしろ嘲笑うかのように傲慢な気配すら、漂う。頼久さんはきゅっと柳眉を吊り上げて、白刃の切っ先を突きつけながら、そっと私を背後に庇った。私は彼の背後に隠されながら、おろおろと視線を頼久さんとアクラム、交互に向ける。

ちゃん・・・!」
「詩紋くん、」

 あぁものすごい嫌な空気!と内心顔を青ざめさせながら口を噤んでいると、パタパタと足音がしてふわりと背後から詩紋くんが腕を回してくる。私と彼らを引き離すように私を抱いて後ろに下がる詩紋くんを振り向きつつ、心配そうに大きな目を歪めている彼に、思わずほっと息を零した。

「あいつ、なんでここに・・・」

 天真が顔を顰めながら、突然現れたように思う頼久さんにじろりと視線を向ける。それでも、頼久さんと同じように私を背後に庇うのは、さすがというべきか・・・皆、なんか凄く手際がいいですね。いつの間にか私は八葉の内三人に囲まれて守られる、というえぇちょっと、という状況になっており、あわあわと首を動かした。詩紋くんはぎゅっと私の手を握って常にない不安と、厳しい顔をしているし、天真も天真で突然現れたアクラムと頼久さんに敵意を剥き出しにしているし、頼久さんはそんな背後は関係ないかのごとくアクラムを睨みつけているし、アクラムは余裕ぶって小馬鹿にしてるし・・・!カオス。ぶっちゃけカオス。なにこれ・・・!普通自分が体験するはずがないだろう、緊迫した空気に内心で悲鳴をあげる。
 頭の処理が追いつかないぐらいだ。まず私が彼らに囲まれている時点でもうどうなのか。目の前でアクラムが私を神子扱いするのもそう。とにかく、なんだか色々と急すぎてこんがらがりそうだ・・・!顔の筋肉を強張らせると、アクラムはゆっくりと頼久さん達を見回し、くっと口角を吊り上げた。紅を塗ったような赤い唇が、キュゥ、と三日月の形に反りあがる。

「まあ、いい。雑魚に興味はない。・・・神子、私はお前に話があるのだ」
「神子殿には指一本触れさせはしない!去れ、鬼よ」
「犬がよく吼える・・・私は、神子と話しているのだ」
「ちっ。こいつと似たようなこというのは胸糞悪いが、テメェにを近づけさせるかよ」

 ザッ、と地面を滑る足音をたてて、天真が足を開いて拳を構える。頼久さんはカチャリ、と鍔の音をたてて、僅かに切っ先を揺らした。張り詰めた緊迫感が、辺りに満ちて思わずびくり、と肩を揺らした。・・・こんな空気、初めてだ。縋るように詩紋くんに身を寄せると、彼もまたただならぬ気配に表情を強張らせ、ぎゅっと強く私の手を握った。それに僅かに安堵を浮かべつつ、じっとアクラムを見つめる。アクラムは私と彼の間を遮る彼らが鬱陶しいのか、迷惑そうな顔をしながらも、それでも取るに足らないことだ、とでもいうように唇に笑みを履く。向けられる声音は、白龍とほとんど同じなのに、それよりも低く、どこか薄暗い響きを帯びて、怖い。

「神子。お前の望みは、元の世界に帰ることだろう?私の手を取るがいい・・・さすれば、望みを叶えてやろう」

 再び差し伸べられた手は、けれど当初ほどの誘惑を感じられない。それは、彼らがここにいるからか、それとも、私の頭がこの状況に多大なる疑問と、後悔を覚えているからか。
 どちらかはわからない。けれども、きっと私は、その手をもう取れないだろうと思った。
 長い、綺麗な指先が、誘うように揺れても。どんなに優しく、甘く囁きかけても。それがどんなに、魅惑的な・・・人の内を震わせる、魔性の言葉だとしても。それでももう、私は、先ほどのように、縋れないだろうと、ゆるく瞼を閉じた。どうかしていた、と思う。あのときは。そもそも、私は神子ではないのだ。どうやってその彼の誤解を解けばいいのだろうか。それは勿論本物が現れることが一番なのだが、そうタイミングよく現れるとは思えない。そうなると、やはり口ではどうにもできないのだろう。あぁ・・・全く、なんてややこしい。溜息を零して、きゅっと唇を引き結んだ。気合をいれるように顎を引いて、けれどどこか震える細い声で、私は口を開く。

「わ、私はそっちになんていきませんから・・・」
「ほぅ?・・・元の世界に帰れるのだとしても?」
「・・・・そもそも、私は神子じゃないですし、美味しい話には、裏があるって相場が決まってます。それに、」

 言いかけて、口を噤む。アクラムが興味深げに口角を歪め、試すように見つめてくるのがわかる。詩紋くんが、ぎゅっと励ますように私の手を握る手に力をこめて、私はそれに胸を暖かくさせながら、ちらりと周りを見た。天真が小さく微笑んでいる。安堵したような、笑顔。頼久さんは、少し驚いたようにしていた。私がこんなことをいうのは予想外だったのだろうか。そう周りを静かに観察しながら、どこか諦めたように、緩やかに口角を持ち上げた。それに、

「あなたじゃ、私を元の世界になんて、還せない」

 絶対に、それは無理だ。言い切れば、アクラムが多少驚いたように動きを止める。何を、と言わんばかりに眼光が鋭くなったように、少しだけ増した気迫にびくっと体を震わせながら、私は体中に力を込めた。少し考えればわかることだった。彼も、所詮ゲームの中の人間。彼のいう「元の世界」は、天真や詩紋くんの世界であって、消して私の世界じゃない。
 想像もつかないだろう。自分が作られたゲームという媒体の中の存在で、それはデータやプログラムといったものでコントロールされていて、その声すらも、全くの他人があてているなんて。きっと思わない。そんな世界があるだなんて、思いつきもしないはずだ。あるいは、ゲームに酷似した、別の世界なのかもしれないけれど、どっちにしろ「天真と詩紋くん」の世界を認識している彼に、私の世界は見つけられない。彼の力では繋がらない。そういう世界を知りもしない、想像もしてないだろう人に、私を、私の世界に還すことなんて、不可能だ。―――私を、本当の意味で還せる人なんて、いるかどうかわからない。それは、一筋の絶望を胸中にもたらしたが、そんな感傷に浸っている暇は、なかった。不可解そうに詩紋くんが私を呼ぶ中、一瞬の静寂が当たりに満ちる。それから、アクラムは何か見定めるように伸ばした腕を下ろし、ふ、と口元に笑みを浮かべた。

「いいだろう・・・お前が何を思ってそう言ったか、知るのもまた一興。それに、どうやら、我が神子は今だに己を認められずにいるようだ」
「いや、だから、私は神子じゃないんですけど・・・」

 しつこい、と思いながらぼそっと突っ込む。しかしながら私のささやかな突っ込みは届かなかったのか、彼は私の発言は一切無視のようだ。なんてこった。本物いないしなぁ・・・というか、私はあんたの物になった覚えは一切ないんだけど。普通に我が神子発言をされて、非常に複雑な気持ちで表情を曇らせる。逃げるように身を縮こまらせると、彼はふわり、と着物の裾を翻した。緋色が、まるで残像のようにぶれる。あっと思った瞬間、彼は片手を翻して、ふっと、息を吐いた。

「意識せぬ力に意味はない・・・置き土産だ、神子。その力、見せてみろ」
「っ待て!!」

 頼久さんが鋭く声をあげたが、アクラムは嘲笑と共に、すぅ、と煙のように音もなくその姿を消した。鬼の秘術か、つくづく非常識なことをする人間である。周りが驚いて息を呑んだ刹那、アクラムが陽炎のように消えた驚きとは別に、地響きをたてて現れたそれに、驚愕に目を見開いた。揺れる地面に、ぴしぴしと亀裂が走り足元がふらつく。小さく、悲鳴を零して体をふらつかせると、すぐ近くにいた詩紋くんが支えてくれたのでこけることはなかった。おぉ、よかったぁ・・・!ほっとしながらも、現れたそれに声にもならない声がひゅっと、不自然な息を零す。

「な、なんだこりゃ!?」
「ば、化け物・・・っ?」
「くっ」

 天真や詩紋くんが、突然の怨霊の出現に目を見開いて慌てる。頼久さんはさすが武人というか、そもそも慣れているのか知らないが、多少揺れた地面にふらついたけれども、すぐさま立て直して険しい顔で怨霊を見上げる。それは、八本の足を持つ、巨大な蜘蛛だった。
 八本もある足には細かい産毛があり、その大きさ故に目を凝らさずとも細部がよくわかる。足先は鋭く尖りを帯びて、まるで頼久さんの刀のように鋭利だ。あれが人に向けられたらと思うと、ぞっとしない。何個もある目は不気味に赤くぬるついた輝きを持って、周囲を映しこんでは爛々と光っている。口元なんて、びっしりと生えた極悪な牙がカチカチと音をたてて、震えているのがわかるぐらいだ。
 ぞわりと腐臭にも似た生ぬるく気分の悪くなるような風が地面を這い回った。なんだ、これ。あまりの気味の悪さや、その外見の醜悪さ、全てをとって見てもとんでもない代物だ。零れそうな悲鳴を寸前で堪えた私を誰か褒めて欲しい。ぞわっと体中の産毛が逆立ち、気持ち悪さに吐きそうになる。込み上げてくるものを口元を押さえて堪えながら目を逸らすように詩紋くんの肩に顔を押し付けた。見たくない。見たくない。見たくない。怖い、なにあれ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い・・・!!普通の蜘蛛でさえ正直気持ち悪いと思うことさえあるというのに、それが巨大化して目の前にいるのだ。卒倒しないだけましだとは思わないか?

「っ、詩紋!逃げろっ」
「神子殿、お逃げください!!」
「天真先輩!・・・・ちゃんっ」

 ――――え?
 周りから、突然焦ったような、切羽詰ったような声で叫ばれ、ぐるぐると取り留めの無い思考がぶつりと途切れる。顔をあげると、視界の上の方に、鋭い切っ先。それが振り上げられた蜘蛛の怨霊の足先だったと思い当たったのは、詩紋くんと天真によりその場から強制的に離されてからだった。詩紋くんに抱えられたまま、天真に背中を押されて体が傾ぐ。はぁっ?!となんともいえない不意打ちを突かれた悲鳴が零れると、どさっという衝撃と共に割りと近くでどぉん、というなんとも恐ろしい地響きが轟いた。詩紋くんを倒れる際にクッションにしてしまいつつ、強かに打ちつけた膝だとか、庇われたとはいえ殺せなかった衝撃やらで、痛みに軽く顔を顰めて慌てて後ろを見る。

「・・・ひっ」
「くっそ。なんだってんだよっ」
ちゃん、大丈夫?」

 地面に突き立った、鋭い毛むくじゃらの足先。瓦礫すら作り出して、地面に皹をいれたその巨大な足先に、最早飽和状態になりそうな驚愕と、生理的な恐怖が胸中を掠めてポカンと目を丸くした。急いで天真が立ち上がり、今だ立ち上がることもせずに転がったままの私と詩紋くんを庇うように前に立ちふさがる。けれど彼の背丈ではどうしても隠せない怨霊の恐ろしい顔が、天空から高く私達を見下ろしていた。

「神子殿!!―――くっ!」
「頼久さん!?」

 呆然としていると、私達とは逆方向に飛びのいていたのだろう頼久さんが、急いでこちらに向かってくるのが見えた。だが、それに気づいた怨霊が彼に向かって再び足を振り上げる。あまりの光景に息も忘れて口元を手で覆うと、頼久さんは危うく怨霊の攻撃を避けて、逆に刀で切りつけた。けれど、ガキン、と硬質な音と共に跳ね返されて、僅かに踏鞴を踏む。僅かな焦りが、彼の無表情だった顔に浮かんだ。
 あぁ・・・ダメだ。ただの剣ではダメなのだ。そうか、神子が、神子がいないから、彼らは八葉の力を、怨霊を退ける力を、使えないのだ。思い当たった瞬間、恐怖とは違う絶望が、目の前を横切った。それは、彼らに、怨霊と戦う術がない、ということに他ならない。
 嫌だ、嫌だ。なんてものを置き土産にしたのだあの男。どうしよう。どうしよう。私に何をしろというのだろうか。何もできるはずがない。私は無力だ、そんな力などない。そうだ。3の時代だってそうだった。何も出来ずに、ただ嬲り殺されそうになっただけだ。あの時は、他の皆が助けてくれたし、望美ちゃんがいた。だから、結果的には大丈夫だった。だけど、ここにいるのは、たった3人の八葉で、それに加えて、あかねちゃんはいない。神子がいない。しかも、八葉の内2人は戦闘経験皆無の現代人だ。ゲームキャラだとしても、戦う術などあるのだろうか。というか、彼らが力があるのは神子がいることが前提のはず。では神子がいなければそこらの人間と変わりないではないか。―――絶望的、ではないか?思考が一巡りすれば、感じたのは紛れも無い死の予感だった。なんとかなる、そんな楽観的なことを考えていられるか?だって今目の前に、危機が迫っているのだ。これが、これがまだ、夢だと、現実なんかじゃないんだと認識していた頃であったのならば。きっと、無責任に、なんの確証もなく、大丈夫だと、思っていたはず、なのに。過ごした時間が、体感した全てが、逃避に走って、逃げられなかった事実が、―――私から希望を、奪い取っていく。体が震えるのが止められない。歯の根がガチガチと震えて合わない。ぎゅっと衣服を握る手を強めると、庇うように力強く、詩紋くんの腕が背中に回された。

「あ、っ、詩紋、くん・・・っ」
「大丈夫、大丈夫だよちゃん。ボクが、守るから・・・っ」
「くそっ。わけわかんねぇけどな・・・やるしかねぇか」
「天真ぁ・・・」

 むちゃくちゃな!!あんた今八葉の力なんて使えないでしょう?!強がりなのか知らないが、口角を吊り上げた天真に、思わず手を伸ばす。天真の腰辺りで止まっている着物の一部を掴むと、ぎゅっと握り締めて引っ張った。天真が弾かれたようにこちらを振り向く。
 見下ろしてくる顔が逆光を背負い、僅かに目を見開いたのが見て取れた。

「天真、無茶だよ・・・っ。武器も、力もないんだよ!?あんなものがどうにかできるはずがない・・・っ」
「じゃあ、このまま黙ってやられろっていうのかよ!」
「逃げればいいでしょうが!!勇気と無謀は違うの!戦う術がないのに立ち向かったって意味ないでしょ?!わ、私、やだよ。天真や、詩紋くんが、頼久さんが、怪我するの、嫌だよ・・怖いよ・・・っ」

 あんなものに立ち向かうところすら、見たくなんてないというのに。怪我なんてしたら、あんなものに切り裂かれるところや、もしかしたら噛み付かれるところや、そんなところ見たくない、血なんて持っての外だ。案じるというよりも、怖い。この場にいることすら苦痛で苦痛で、怖くて怖くて、早く逃げてしまいたいのだ。それで周りがどうなろうが、正直知ったことではない。自分の身が一番で、逃げ出してしまいたいのだ。じんわりと恐怖のあまり涙が浮かぶ。天真が行かないようにぎゅっと服の端を握り締めながら、唇を噛み締めて逃げよう、と引っ張った。

「逃げよう、ねぇ、お願いだからぁ・・・!」
、・・・っ危ねぇ!」

 必死に訴えたその時、突然天真が私を突き飛ばした。突然のことに思わず握っていた手の力も緩み、するりと着物が離れる。あっと後ろに体が倒れていく中で、怨霊の足が、―――天真の体を、吹き飛ばした。これ以上ないというぐらい、目を見開いてその光景を見つめる。とん、と地面に後ろ手をつくと、吹き飛ばされた天真が、地面にぶつかって土埃をあげて何メートルも転がっていった。

「天真せんぱあああああぁぁぁぁい!!!」

 詩紋くんの、つんざくような悲鳴が後ろで聞こえる。私はその声を、どこか遠くで聞きながら呼吸を忘れたようにその光景に見入っていた。天真が、吹き飛ばされた。怨霊によって、無防備に、術もなく、あんな大きなものに、骨だってきっと簡単に折れて、いや、折れるだけならまだ生易しいかもしれない、もっとひどいことにだって、だってきっと、あれの力は物理的にとんでもないはずで、―――私の、せい?

「・・・てん、ま・・・?」

 動かない。動かない。怨霊に吹き飛ばされたまま、うつ伏せになったまま、彼が動かない。
 遠い。遠い。遠い。なんで。どうして。動かないの。え、なんで。天真、天真、天真?
 私のせい?私が逃げようっていったから?私が彼の動きを止めたから?私が、私が、私が、私が、私の、せいで?ひゅっと呼吸を短くして、手を伸ばす。届かないとは知っていたけど、届くはずもないとわかっていたけど、倒れている彼に向けて、手を伸ばした。

「神子殿!!」
「え、」

 放心状態の私の耳に、鋭い声と、ギィンッ、と重たい何かが頭上でぶつかりあう音が届く。その音にびくりと肩を跳ねさせ、ゆるりと振り向いて上を見上げれば、広い背中が見えた。足を大きく開いて、何かに耐えているかのように踏ん張っている頼久さんの姿にきょとりと瞬き、何が起こっているのかしばし把握ができなかった。けれど、すぐに視覚から入った情報が能に届き、どういう状態なのか気がついた。怨霊が、今度は私に向けてその猛威を振るったのだ。そしてそれを、頼久さんが、助けてくれた。今、彼は、怨霊と、力比べのようなものを、している。

「よ、頼久、さ・・・」
「神子殿、早くお逃げくださ・・・くっあぁぁ!!」

 頼りなく震える声で名前を呼んだ刹那、再び目を覆うような光景が目の前で繰り広げられた。怨霊の力に耐えられなかったのだろうか。剣で受け止めていた蜘蛛の足先が、僅かに動いたと思ったらひどく乱暴に頼久さんを振り払った。そんじょそこらの男では比較にならないような立派で恵まれた体格であるはずの彼の、決して小さくなどない体が、なんとも呆気なく弾き飛ばされる。零れかけた悲鳴は、喉奥で潰れて不自然な呼吸音となった。慌てて頼久さんが吹き飛ばされた方向に首を振り向ければ、彼は刀を地面に突き立てて立ち上がろうとしていた。思わずほっと胸を撫で下ろす。どうやら、直接攻撃が当たったわけではなく、ただ振り払われただけのようだ。それでも彼の体を軽々と吹き飛ばす力に、ダメージを負わないはずがない。元々大きさすらも大人と子供という次元の話ではないのだ。物理的に、敵うはずが無いのは明白で。―――あぁ、どう、すれば。

ちゃん、伏せて!!」
「っ!」

 聞こえてきた鋭い指示に、咄嗟に言われるままに頭を抱えて地面に伏せる。刹那、ブォン、と頭上で何か大きなものが横切る風の音が聞こえて、心臓が騒がしいほどに鼓動を打った。どくどくどく、と耳の奥で血流が激しく流れる音を聞きながら、地面に手をついて瞬きを繰り返す。最早、言葉も無いとはこのことだ。頭の中が真っ白になる。今、今、私の頭の上を、何が通ったというの?

「な、なんっ・・・」
ちゃん!」

 すぐ傍で、自分を対象として行われたことに、思考が追いつかない。体が動かない。石になってしまったかのように、その場にぺたりと座り込んだまま動けずにいると、詩紋くんが走りよって私の手を掴んだ。だけど、腰が抜けて立てない私が、腕を引かれたからといって動けるはずもない。焦ったように、詩紋くんが青色の目を見開いた。

「っちゃん、頑張って・・・!」
「詩紋、くん・・・に、逃げ・・・っ」

 ダメだ。このままじゃ詩紋くんまで巻き添えになってしまう。一部分で冷静な頭がそう囁いて、握られた手を握り返すことも出来ず、まるで舌足らずな子供のように断片的に訴える。本当は一緒に逃げてしまいたいのに、腰が抜けて、足が竦んでいる私はこの場から一歩も動けない。すぐそこに迫る危機に、体が萎縮してしまっているのだ。どうしようもない。情けない。こんな恐怖、味わったことも無い。だって圧倒的だ。こんなにも圧倒的なものと対峙した覚えがなければ、私の周りにいたのは云わば戦闘のプロ。こんなにも、どうしようもない状況ではなかった。それでも、腰が抜けかけて一人縮こまっていたのは確かだったけれど。
 ぐいぐいと力を込めて詩紋くんが引っ張ってくれるが、ダメだ。動かない。自分でもなんとか動こうと、一応の努力はしてみるのだが、どうしても足が動いてくれないのだ。こんなにも恐怖は人の体を動けなくさせるものなのかと、奥歯を噛み締める。どうしよう。どうしよう。このままじゃ、このままじゃ、とんでもないことになる。それがどういうとんでもないことなのか、なんて実はよくわかってないというかそこまで思考を回せてはいないけれど、とにかくこのままでは、このままで、は。
 ぐるぐると何も思いつかない頭で馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返したとき、私と詩紋くんの上に、影ができたことにはっと気がついた。それは、きっと詩紋くんも気がついたのだろう。強張った顔で咄嗟に上を見上げた瞬間、ズドォン!!と、私と詩紋くんの間に鋭い切っ先が突きたった。それはまるで、私と彼の間を隔てる、壁のごとく。あぁ、と絶望にも似た吐息が口から零れた。大きな爪先は私の目の前を遮り、詩紋くんの姿すらもう見えない。ただ、声だけが。焦ったような、切羽詰ったような、必死な彼らの呼び声だけが。姿も見えず、聞こえてくる。

!!」
ちゃん!!」
「神子殿!!」

 ぼんやりと、耳に届いた声に瞬きをする。あれって天真の声なのかな、と思いながら、聞こえた声に反射的に上を見上げれば、キラリと爪が光って見えた。大きく目を見開く。え、という間の抜けた声が零れて、咄嗟に這いずるように体を動かした。それはいくらも進まなかったけれど。ああだけど、こんなのってどうなのだろう。え、なにこれ。なんで怨霊が私に向かって爪を向けてるの?それって、なんのためにそうしてるの?今更馬鹿みたいなことを考えて、ザァ、と顔から血の気が引いた。周りに人はいない。怨霊のせいだ。こいつのせいで離れ離れになってしまった。どうしよう。どうしよう。私、私、――なにも、できないよ?

「ぁ、」

 動く。怨霊が。誰かが叫ぶ。叫んでる、気がする。爪が閃き、振り下ろされた。風を切る轟音、驚いたことに真っ直ぐに私に向けられていた。私を狙っているのだと、嫌でも知れる。両手で耳を覆うように頭を抱える。きつく目を閉じた。ずっと見てなんていられなかった。くるだろう衝撃に、反射的に備えたのだろう―――誰か。頭の中に強く浮かんだ言葉に、ほろりと目尻から涙が零れる。生理的なそれを、留める術など、知るはずもなく。



神 子 ―――――! !



 響いた魂を引き千切るような声に、きつく閉じていた目をはっと開ける。刹那、ゴゥ、と、風が吹き上がるような音が、びりびりと大気を揺らした。そうして目の前の光景に、驚きに目を見張った。一体何回私は目を見開けばいいのだろう。そのうちドライアイにでもなりそうだと、馬鹿なことを考えながら、それを見つめる。真っ白な、輝き。私の周囲を光が埋め尽くして、いや、違う。これは、光だけど、光じゃない。物凄い勢いで上へと昇っていく、それは、白い肢体の、もっと巨大な、何か。私を中心に、円を描くように、地面に亀裂さえ与えて、立ち昇る―――龍。

「はく、りゅう・・・?」

 気の抜けたような呆けた声が零れると同時に、うねるように立ち昇ったそれの顔と、目があったような気がした。無論長く巨大な胴体の先にあるだろうそれの顔を、確かに見つけることはできないだろう。視線が合うだなんてそんなこと、本来ならばありえないだろう。けれど、何故だろう。優しく、悲哀と、慈愛と、安堵に満ちた――愛しくなるほどの金の眼差しと、目があったように思えたのは。優しい、光。真白の、輝き。清らかで、圧倒的な・・・真綿で包むような、柔らかな、それ。あるいは圧倒的過ぎて恐ろしささえ人に植え付けるのかもしれない、それを。優しいと、思ったのは。
 無意識に差し伸べた手が、その白い光に触れる。ほんの少し、触れた指先が暖かいような、冷たいような、曖昧に温度に晒された気がした。自覚する刹那、リィン、と厳かな鈴の音が脳裏に響き、光が弾ける。それを切欠にしたように、突風とはいえない、春風のような穏やかな風が吹きぬけた。風が頬を優しく撫で、髪を微かに戯れるかのように揺らしていく。吹きぬけていくそれに誘われるように、後ろを振り向き、嗚呼、と目を細めた。
 何も遮るもののない晴れ渡る蒼穹に、薄紅色が鮮やかに舞う光景が、視界に一杯に広がる。


そして、悟った。


 これが理由だとか、切欠だとか、現実だとか、そういう確かな言葉などない。
 ただ、心のどこかで、納得してしまったのだ。わかってしまったのだ。
 絶対、認めたくなんて、なかったのに―――それはいっそ、圧倒的なまでの、強制力。


「なん、で・・・?」

どうして、白龍?

 ふつりと、何かが切れたような音が、幻聴でも聞こえたような気がした。