朧月
ぼんやりと映る視界に、鮮やかな緋色の衣が翻り、皮肉気に弧を描く唇の形に泣きそうになった。
キラキラと光を跳ね返す金髪は、太陽というよりも冷たい黄金月。
綺麗に束ねられていたはずのそれが、ぞんざいな有様で首元で一まとめにされていると気だるさが際立って妙に色っぽかった。さらさらと肩を滑って胸元へと垂れ落ちる細い金糸をどこか暗澹とした気持ちで見やれば、彼は一層笑みを深めて手を差伸べてくる。
まるで、自分の言ったことが正しかっただろう?と言わんばかりの優越に浸る仕草に、唇を噛み締めた。
※
気がつくと周囲はすっかりと暗くなり、太陽の「た」の字も見受けられない完全なる夜の世界になっていた。一寸先は闇、という例え通りの、先の見えない暗闇が周囲を囲んでいる。
しかも不可解なことに、どこかの山の中なのか私の周りにはたくさんの木々が立ち並んでおり、ただでさえ深い闇を一層深く濃いものへと変えていた。木々の隙間から見える向こう側なんて、目を凝らしたところでちっとも見えやしない。何かがあるのか、いるのか、そんなこともわからずに、ただ風一つないおかげで、ピクリとも動かない木々の枝葉が一層の不気味さを増すばかりである。救いがあるとするのならば、どこにいるのかわからない梟の「ホーホー」という鳴き声が無音という一番恐ろしい事態を回避していることだろうか。この状態で、音さえもなかったらさすがに私でも恐怖心というものが先立つものだ。
しかしそれでも、いきなりの場面転換に驚くやら、真っ暗闇の山の中に一人という状況に不安や恐怖を覚えるやら、どうしたらいいのかわからず困惑を強く出して拳を握る。
前、右、左、後ろ、また前。ぐるり、と周りを見渡して、どうやら山の中の少し開けた空間に私は突っ立っているらしい、と把握した。私の周囲から円を描くように数メートル、目立つほどの木々が生えていない。草はぼーぼーと無尽蔵に生えているが、それだけだ。
なんとも巧い具合に空間ができたものだなぁ、と思わず吐息を零して、上を見上げた。
周りに木々がないだけに、容易く開けた空間の頭上にはぽっかりと綺麗に夜空が広がっていて、煌々と光るお月様まで見ることが出来た。まるでスポットライトのようにこの場を照らしているようで、偶然の産物とはいえ感心せざるを得ない。惜しむべきは、スポットライトたる月がハッキリと綺麗に見えているわけではなく、滲むように霞んでいることだろうか。
まるで水が多すぎて滲んだ水彩絵の具のように、ぼんやりとしたはっきりとしない月の姿に吐息を零し、首を傾げる。・・・さて、どうして私はこんなところにいるのだろうか。
今更ながら、というよりもあえて考えないようにしていた現実をようやく直視する気になったかのように、反らしていた首を元に戻して不気味なぐらいの木立の暗闇を見つめた。
他に見るものがないのだから仕方ない。奇奇怪怪な出来事は過ぎるほどに我が身に降りかかっていたが、やはりこう、いきなりわけのわからない事態に巻き込まれるのは勘弁願いたいものだ。どうして気がついたら夜なんだ。しかもなんで景時さんの屋敷でも藤姫の屋敷でも、自分の家でもなくて外の、山の中なんだ。なにこのチョイス、と理不尽な心境でむっつりと口をへの字に顰めた。
「わけわからん・・・」
そろそろ私の頭も現実を受け入れる努力を放棄してもいい頃合ではなかろうか。
むしろしなくてはいい感じに壊れそうだと思う。真面目に思考したのは数分程度で、匙を投げるとこれは夢だ夢、と思い込むことにした。そうしなければ、多分、私はもう耐えられない気がしたからだ。自己防衛、とでも言い換えるべきか。
そもそも一気に色んなことが起こりすぎたのだ。もう少し時間を置いてくれればまだまともに考えもしただろうに、どっと押し寄せてくる疲労感に肩を落として、早く目が覚めないかな、と思った。前を見るのも疲れてかくり、と首を落として足元を見る。乏しい月明かりでは足元の草の色さえも定かではなかったが、足元を撫でるそれの中にある靴先をじっと見つめていると、不意にかさりと草を踏む音が聞こえてびくり、と肩を揺らした。すっかりここには自分だけしかいないように思っていて、勿論今までは私しかいなかったのだろうけれど、誰かが来る、という選択肢を自然と除外していた分、過敏な反応になったと思う。跳ね上がった心臓に勢いで顔をあげると、人がいる、という期待よりも誰かきた!という驚きとも恐れともつかない感情の方が勝っていて、大きく目を見開いた。
「・・・っ」
「半日ぶり、といったところか・・・神子よ」
低い声。深みを増して、艶すら感じられる、妖しげな。
見開いた目で木立の奥から、ゆらりと影のように姿を現した人物に、息を飲み込んで後ろに下がった。暗闇なのに、そこだけはっきりと色が見えるのは一体どういう仕組みなのか。
夢だからこその待遇なのか、それとも、それは彼自身が何かをしているせいなのか・・・判断もできずに、私は唇を戦慄かせて掠れた声を零した。
「アク、ラム・・・?」
名を呼べば、くっと皮肉気にアクラムの口角がつり上がり、月明かりにぼんやりと金糸が照らされる。がさがさ、と草を踏みしめる音が聞こえて、一歩、また一歩、と。緋色の衣を揺らして、アクラムは私の前へと近づいてきた。私は近寄ってくるアクラムから逃げることも出来ずに、どこか呆然と背の高い彼の、整った顔を見つめていた。・・・なんで仮面してないんだろう、この人。いつもならあるはずの、顔の上半分を覆う仮面は取り外され、どこか女性めいた、線の細い繊細なガラス細工のような美貌が露になっている。女性めいていても女性には見えない、とにかく綺麗で整った顔だ。美形だなぁ、としみじみと思いながら、目の前で立ち止まった彼に、困惑を露にして首を傾げた。
「どうして・・・」
ここにいるの、という問いかけは、くつり、と震える喉奥に飲み込んだ。
アクラムは冷ややかな双眸を細め、無造作に乱れる金糸をさらさらと肩から滑り落として手を伸ばす。びくり、と肩が揺れたが、それでも何かに囚われたように足がその場から動くことを是とせずに、私は体中の筋肉に力をこめて、伸びてきた手が頬に触れるのを感受した。そう、頬に、触れるの、を。
「あ、れ?」
「魂魄だけが肉体から離れたか・・・ここにいるというのに触れられぬというのも、中々そそられるものがあるな」
「こん、ぱく?肉体から離れて・・・?」
どういうことだ?と怪訝に眉宇を潜めて問いかけるように見上げれば、アクラムは薄く唇を歪めて、顔の横で指を動かす。動作的に、髪を払おうとしているのだとは思うが・・・やはりそんな感覚もなければ、髪がアクラムに触れられて揺れ動く感覚もない。なんて、あやふやな。ふわり、と、今まで一つも吹きはしなかった風が吹いて、木々を揺らすと同時にアクラムの綺麗な金糸まで揺らす。けれど、可笑しなことに私の髪も服も、風に揺れることはなくそのままの有様で、唯一動くといえば、「私」が動いたときぐらいなものだった。
呆然とそれを実感しながら、突然のアクラムの出現に停止していた思考がゆるゆると活動を始める。アクラムの言葉を飲み込むように、軽く俯いて顎に手をあてた。
・・・つまり、今の私は、魂魄、簡単に言うと魂だけの状態で、肉体は別のところにある、という意味合いなのだろうか、さっきの言葉は。所謂幽体離脱?え、自分そんなミラクルできたっけ?ていうか、じゃあ私の肉体はどこにあるんだろう?藤姫の屋敷で寝ているのだろうか。そうだといいが、そうでなかったらマジでどこにいるんだろう私。微妙な不安を覚えて視線を揺らせば、くつくつとアクラムの可笑しげな笑い声が聞こえて、はっと顔をあげた。
「安心するといい。そなたの肉体はあの星の姫の屋敷にある。寝ているうちにここまできたのだろう」
「そう、ですか・・・」
アクラムのその台詞にほっと胸を撫で下ろして、次の瞬間にはいや、それ安心するところ?と首を傾げた。そもそも魂と肉体が離れていることが危ないことっていうか、あまりよくないことなのではないだろうか。ていうか、なんで私は幽体離脱などという現象を起こしているのか。私にそんな芸当ができたとは驚きだ。驚きというか・・・現実味が湧かないというか。
あながち、夢というのも間違いではないのかもしれない。これは、寝ている私が見ている夢なのかもしれない。そう考えた方がしっくりとくる気がした。魂が肉体から離れているとか、幽体離脱だとか、そういう心霊現象よりも、ずっとずっと現実的な話である。夢だと思うほうが、ずっと。
「・・・・あなたは、どうしてここにいるの」
先ほど、最後まで言えなかった言葉を唇に乗せれば、アクラムは頬を掠めていた手を引き戻し、緋色の袖に仕舞いこむと無論、と口を開いた。
「そなたに会いに、だ」
「私に?」
「そう、そなたに」
低い声がゆっくりと言葉を紡ぐと、ぞくぞくと背筋に悪寒めいたものが走る。さすが置鮎ヴォイス。白龍にはない艶めいた響きに、気圧されそうだ。
そもそも含みをこめすぎなのだ、と内心で悪態を零しながら、警戒を帯びてきゅっと眉を寄せ厳しい目つきで見やると、アクラムは月明かりを背負って目元にちらつく金糸をかきあげた。その仕草一つも様になるのだから、美形というのはつくづく反則的な存在である。
「―――怨霊をその身で浄化した心地はどうだ?龍神の神子よ」
一切の遠慮もなく、核心に迫る、いや、触ってほしくないところを切りつけてきたアクラムに、ひゅぅっ、と呼気を飲み込んで、私は全身が震えたのを自覚した。見開いた目に、妖しく嘲笑うアクラムの整った顔を収めて、一歩後ろに下がる。
彼はそれを引きとめるでもなく、泰然とその場に佇んでじっと私を見つめていて、その視線から逃げるように顔を下に向けた。―――怨、霊。告げられた瞬間、まざまざとあのときの光景が脳裏に蘇り、震える体を押し込めるように両肘の袖を握り締めてくっと奥歯を噛み締めた。
「見事なものだったな。言の葉も紡がず、ただ一度の願いだけであの怨霊を浄化するほどの神力。――さすがは龍神に見初められた神子といったところか」
「ち、ちが・・っ」
「何が違う?そなたも感じたのだろう?自らに襲い掛かる怨霊を、その身から溢れる力が消し去ったことを。澄み渡る空気を、輝く真白の光を――龍の声を」
「・・・・っ!」
耳に低く滑り込んでくる声に反論しようと開いた口は、けれどどうしてか声が出せずに不自然な呼吸を繰り返すに留まり、ぐっと唇を引き結んだ。アクラムはそんな私の様子を、じたばたと足掻く動物でも見るようなどこか優しげな目で見ていた。優しい、けれど嘲笑う。
嘲笑を込めた視線に泣きそうになりながら、私はアクラムの言葉を否定するように・・・いや、自分自身が感じているものを否定するために、弱く首をふった。
「違う・・・私は、私は、神子じゃない・・・神子、なんかじゃ・・・っ」
「何をそこまで否定する?何がそこまでそなたを頑なにする?言ったであろう?そなたがどれほど否定しようと・・・・そなたは、神子なのだと」
「どうしてっ!」
事実、浄化は成った、と淡々と告げる、それはあまりにも明確な事実の羅列に、私は震える声で叫んだ。途端、だから諦めろ、という暗に込められた響きを断ち切り、アクラムの冷えた顔が視界に映る。顔を歪めて、私は荒げた語気に息を乱れさせ、どくどくと騒がしく鳴る心臓を握り締めながら喘ぐように口を開いた。
「どうして、私なの・・・っ」
あぁ。もう、ダメだ。訴えた声は、あまりにも弱弱しい。今の自分の顔を見られたくなくて、両手で顔を覆い隠して俯くと、さらりと髪が滑る音が耳の横で聞こえた。
あぁ、もう、もうダメだ。もう、私はそれを否定しきれない。認めてしまった。認めてしまった。たった今、言葉にすることで!
「どうして私・・・?どうして?私は、私が神子になんてなるはずがないのにっ」
「・・・」
「違うんだよ、本当は。違うの、私じゃないの。なのに、なのに、それなのに、あの時・・・っ」
蘇るのは怨霊への恐怖。おぞましく恐ろしい、画面の向こう側で見ていたものとはそもそも比べることもできないような、リアルな存在感。質感、立体感、全てにおいて、それが「本物」であることを全身で訴えていた、あの衝撃。まざまざとこの心に焼きついた、本能ともいえる恐怖心は、これから先、ずっと一生消えることはないだろう。芯から震えが走る、どうしようもないあの感覚。間近に感じた死というもの。確かにあのとき、私の背後にまでそれは迫っていた。ひたひたと、普通に生きているのなら感じたこともないような、それの存在を。
今だって思いだせる。鋭い牙、爪、細かい産毛に、爛々と輝く赤い目、全部、全部!
殺されるかもしれない恐怖、化け物が襲い掛かる恐怖、誰かが死ぬかもしれない恐怖!
そして、あの時感じた、柔らかくも暖かな、どこまでも圧倒的な――白い、龍の気配。
しゅるり、と衣擦れの音が聞こえると、不意に周りが翳った。私は顔をあげることもできず俯いたまま、近くに感じた人の気配に、ぎゅっと唇を噛む。
「それでもそなたが、龍神の神子だ。龍に選ばれた、ただ一人の――私が、求める力だ」
淡々と告げる声音に優しさなどない。ただ事実を告げるだけの無機質な声音に、熱くなった眼球から零れそうなものを押し殺すのに精一杯になる。なんて無情。なんて無慈悲。
そんな一方的なもの、誰が欲しがるものか。誰がそんなもの、欲しいと言った。
それでも与えられたものをつっ返すこともできなくて、そして彼が求めているのは確かに私の中にあるもので、そして彼じゃなくても、この世界が求めているのは、その力で。
あまりにも重過ぎた。あまりにも私には不似合いすぎた。背負いきれそうにもないと、震える手を握り締める。私の身の内に巣食ったものは、あまりに私には過ぎたものだった。
どうして認めてしまったのだろう。どうしてあの時、理解してしまったのだろう。
白い光りが立ち昇ったとき。白龍がその体をうねらせたとき。どうして私はあのとき、自分の中の「龍神」の存在に、納得してしまったのだろう。納得さえしなければ。認めさえしなければ。
私は、まだ心安らかでいられたであろうに。現実は、今まで以上に、無慈悲だった。
「神子、その力、恐ろしいか?」
「・・・」
「恐ろしいのならば我が手を取れ。そなたは何も考えず、私に従っていさえすればいい。そうすれば、恐れる必要などなにもあるまい?」
私が、そなたの力を使ってやろう。
甘い誘惑を孕んで囁かれる言葉は、確かに甘美な響きを帯びていた。
自分で考えないことはどれだけ楽だろうか。この、本来ならば与えられることなどなかったであろう、どうして私に差し出されてしまったのか、全く意味も理由も掴めないものを、アクラムの言うとおりに、できたのならば、それはきっと、不幸だけど、とても楽で簡単な道だ。
とても、簡単で、気負う必要のない・・・楽な。思わず手を伸ばしたくなる、弱い人間にはどうしても無視できないもので。ゆるりと顔をあげると、私の目に溜まった涙で滲むのか、そもそもそれ自体が滲んでいるのかよくわからない月を背負う、アクラムが視界に入る。
嫣然と微笑む顔は、おいで、とばかりに私に手を差し伸べる。優しい笑顔の裏に潜む、毒。
きっと、こういうのを魔性というのだろうなぁ、とぼんやりと考えながら、疲れたように口角に笑みを浮かべた刹那。
「その者から離れろ、鬼」
今までの空気を一層するような無機質な声音が明朗に響くと同時に、私の目の前を至近距離でピッと何かが霞めて横切った。・・・・・・・・・・・・・・・え?
「式紙・・・陰陽師か。無粋なことをする」
目の前を横切ったものに、体を強張らせて呆然と固まっていれば、何やらアクラムの手の中で何かがうごうごと蠢いている。パチパチと瞬きをして、ぎこちない動作でそれに視線を合わせれば、もうなんというか、言葉にし辛い生き物がその手の中にはいて、アクラムがそれを握る手に力を込めると、くしゃりとそれは消えてしまった。
変わりに、手の中に現れたのは何か文字が書かれた紙で、それはバラバラと崩れるとアクラムの手の中から零れ落ちて、拭きぬけた風に浚われてしまった。うわぁお、となんともいえない引き攣った顔でその一連の流れを凝視して、恐る恐る、横を向く。
そこには、なんというかある意味で、お約束、とでもいうべきなのか・・・なんとなくなるほど納得、と言わんばかりの人物を見つけて、私は再び内心でうわぁお、と言葉を発した。さらさらと細い髪をお団子にして纏めた髪、首から下げられた大きな数珠に、人形みたいに整った綺麗な綺麗な顔。目鼻唇眉毛、全てのパーツが文句無く絶妙なバランスで配置されているその顔は、ある意味で今までとは別格だといってもいいだろう。
確かに今目の前にいるアクラムも、今まで私が出会った遙かキャラも、皆美形は美形だったし、そりゃもう、飛びっきりといってもいいぐらいの人間ばかりで、正直美形のありがたみも薄れそうな有様だったのだが。その中でも、確かに彼は「人形めいた」という言葉が正しいほどの綺麗な顔だった。安部泰明。陰陽師。地の玄武。・・・八葉の1人。ピクリとも動かない無表情で、恐らくアクラムに式紙を差し向けた体勢のままじっとこちらを見る彼に、私は呆けた顔をして、固まっていた。まさか、こんなところで泰明さんに会うとは、これっっぽっちも考えていなかったのだ。というか誰が想像するかっていうんだ。
馬鹿みたいに間の抜けた顔で、木立の間に佇み厳しい、といっていいものか・・・ピクリとも動かない表情でこちらを凝視する彼を見返して、私はこてり、と首を傾げた。
てーかこの人、出会い頭にいきなり式紙ぶっ放しますか・・・!あ、あれ結構私にも近かったんだよ!私が実体だったら前髪とか掠めてそうだったんだよ!怖いよ普通に!!もっと穏便に出てこれないの、泰明さん?!今更ながら間近を横切ったものにひぃ、と震え上がっていると、アクラムを睨みつけていた泰明さんが、ついっと首を動かしてこちらを見た。
暗がりではわからないが、多分綺麗なオッドアイの双眸が、不意に細められた気がした。
「鬼に、誑かされたか」
「は?た、誑かされ?」
え、なにその私がフラフラとアクラムに近寄ったみたいな言い方!!違うよ、私別にアクラムに近寄ってないよ!どっちかっていうとアクラムが近づいてきたんだよ!!
なんか納得いかない、とばかりに眉を潜めると、泰明さんは再び無表情に首を動かしてアクラムを見つめて、いつの間にか指に護符を挟んで構えていた。は、早業だ。てかどこから護符出したお前。
「去れ、鬼」
「逢瀬の邪魔をしてきたのはそちらだろう?去るべきはそなただ」
「鬼に惑わされる者を引き止めるも私の仕事だ」
「仕事、か・・・くくっ。本当にそれだけか?」
緊迫しながらも、アクラムの崩れない余裕の態度はなんだか場には不似合いな気がした。それはそうだろう。一方は厳しい顔をしているのに、もう一方は笑っているのだ。その余裕は一体どこからくるのかと、疑問に思う。実際アクラムの力は強いのだろうと思う。
鬼としての力は、リズ先生なんかよりも大きいに違いない。なんたって鬼の一族の首領なのだから、それも当然の話だ。私はおろおろとアクラムと泰明さんを見比べて、どうしたものかなぁ、と眉間に皺を寄せた。・・・まあ、どうするもこうするも、私の行動なんて決まっているとは思うのだが、しかし今ここで動いていいものか。睨みあう二人に動くこともままならず、やっぱりおろおろとしていると、不意にアクラムは袖の中から仮面を取り出し、そっと目元に重ねた。
「ふ。よかろう。今は私から引いてやる。魂魄のみ手に入れても、無意味だからな」
「アクラム、」
酷薄に刷いた笑みを唇に浮かべ、顔の半面をあの独特の仮面で覆い隠すと、緋色の紐を細い指先が摘み上げる。その仕草だけでも妙に色っぽい、と思わず結わえて、留めるその一連の動きだけでも惹きつけられた。・・・魅せる術を知っている人なのだろう、と漠然とそう思う。さらり、と流れる金髪が動きに合わせて揺れると、キラキラと月明かりを跳ね返して煌いた。あぁ、やはり。この人の金色は、太陽よりも、月に近い。無言でその動作を見守っていると、アクラムは緋色の袖を翻し、くるりとこちらに背中を向けた。泰明さんも、あえて引きとめようとはしない。けれど、警戒しているかのように油断なく見据えているのはわかって、私は・・・私は、ただぼんやりとその後姿を見つめていた。
「神子よ。私に全てを委ねる決意をしたのならば、私の名を呼ぶといい」
「・・・私、は」
掠れた声で、背中を向けたアクラムになんと答えたものかと、眉を潜めた刹那、その仕草さえも理解していたかのように、一層声の深みを増して、アクラムは、告げた。
「例えどれほど否定しようと―――そなたは、龍神の神子なのだから」
その運命から、逃れることなど叶わない、と。言葉もなく告げられたようで、息が詰まる。囁きに乗せて届いた声は周囲を、私の内を、震えさせると余韻もなく消えてしまった。
それは、残像さえも残さない、アクラムの姿のように呆気なくて。目の前で、霞のように消えてしまった緋色の背中をぼんやりと見送りながら、ただただ広がる暗闇に、そっと俯いた。どれぐらい、そうしていただろうか。実際はそんなに時間は経っていなかっただろう。ただ、私が少々ぼんやりとし過ぎていただけで、背後から聞こえた足音に、ちょっと大袈裟になってしまっただけだ。慌てて振り向けば、やはり。アクラムが去ったからと帰るでもなく、無表情に佇む泰明さんがいて。整った顔で、なんの感情の起伏も見られない無表情を浮かべられると、なんとなく居心地が悪いような、それでも問い詰められるよりも気楽なような、相反する感情が入り混じって結局、微妙な表情を作る羽目になった。
泰明さんは、そんな私にも、やはり特に表情を動かすことは無く、淡々としている。
「お前は、何者だ」
「・・・え?」
沈黙を破るように、泰明さんが問いかける。私はその問いかけに、一瞬反応が遅れてきょとりと、首を傾げた。彼はそんな素振りも気にしていないように、もう一度口を開く。
「龍神の神子、なのか」
「――・・・・・・・」
それは、多分、先ほどのアクラムの言い残した言葉からの問いかけだったのだろう。
淡い月明かりの下で、整った顔を見上げながら私は力なく口元を歪める。言葉も無く、だ。
アクラムと泰明さんが対峙していた緊迫感の中、おろおろとしていた心は成りを潜め、今はただ、なんだかポッカリと洞が空いたような空虚さを感じる。
それは最後に言い残したアクラムの言葉のせいなのか、それとも今日一日で突きつけられた様々なもののせいなのか、私には判断がつかない。ただそれでも、凪いだ気持ちで私は笑みを形作ると、ぎこちなく口を開いた。
「認めたく、ないのに」
「・・・」
「それでも、理解してしまった、自分がいるから」
「・・・」
「私は、神子なんだろうと、思います」
泣きそうに、なった。最後の言葉は震えていたかもしれない。それでも涙を落とすことはできなくて、そんなことをしたら、なんだか色んなものがダメになってしまいそうで。
ダメになったら、私は本当に、本当にダメになってしまいそうだったから。泣かないまま、深く息を吸い込んだ。鼻の奥がツン、とする。目の奥が熱くて、視界は少し潤んでいたけれど、でも涙だけは落とさないように努力した。泰明さんはピクリともしない表情で私を見つめていて、私はそれに少しだけ救われた気持ちになった。
もしもこれが、頼久さんとか、天真とか、詩紋くんとか、藤姫だったら。もっとなんらかの反応はしただろうし、言葉もかけてくれただろう。何か否定の言葉を紡いで、何か肯定の言葉を紡いで。そうして私に声をかけてくれただろう。だけどそれは、今の私には少し重くて、辛い。だから、今ここにいるのが彼でよかったと思った。彼ならば、ただあるがままを受け入れてくれただろうから。何も言わず、私の言葉を聞いて、ただそれだけで。勿論、疑問があったら問いかけてくるのかもしれないけれど、でも、今の彼は私に問いかけることは無く、ただ淡々とこちらを見下ろしているだけだから。だから、こんな愚痴めいたことも言えるのだろう、と。そう思った。じっと見つめていると、彼はするりと手を伸ばして、頬に触れてきた。
その時、初めて冷たい、と思った。頬の横で揺れる髪を掬い上げて、輪郭を細い指が辿って、目尻に触れる。アクラムでさえ触れられなかったのに、この人は今の私に触れるのだと、少し驚いた。彼は、無表情に少しの疑問を浮かべて、私の目尻に這わした指先を動かす。形良い唇が動くと、心地よい低い声で流れ出た。
「泣くのか」
その行為は、彼にとって一番不思議な行為なのかもしれない。不意に、客観的になって、今の私の状況に、結構すごいイベントこなしてるんじゃないだろうか、と思った。
月明かりの下で、泰明さんと2人っきりになって、顔になんか手で触れられて。
そんなことを思った自分が、可笑しくなった。こんなときでも、どこか他人事の自分が可笑しかった。あぁ、やっぱり、現実味を帯びるには、どこか私の周りは夢心地。
実際私が見ている夢の中の出来事なのではないだろうか。そうであればどんなに幸せなことであろうか。こんなにもおぼろげなのは、今の私は肉体を伴ってはいないからだろうか。
くすりと笑って、私は泰明さんの手に手を重ねると、軽く小首を傾げた。彼は少し、戸惑ったようだった。
「泣きそうですけど、泣きませんよ」
「あの、鬼の手を取るのか」
「・・・取れたら、きっと楽なんでしょうけど」
一番気にかかっていたのはそれなのかな。私に手を重ねられたまま、振り払うこともせずにじっとしている彼の眼差しを見返しながら、そこまで口にして言葉を切る。
本当に、何も考えずに、何も背負わずに、投げ捨てられたら、楽なんだろうけど。疲れたような微笑を、浮かべた。
「知ってるから、取れませんよ」
何も知らなかったら、取っていたかもしれない手だったけれど。告げれば、彼は小さく首を傾げた。
私はそれに無言で微笑みを浮かべたまま、するりと手を離す。ふと、その離れた隙に彼の指先が少し濡れたように光ったのを見て、目尻に溜まっていたものがついてしまったのかな、と思った。なので、自分の手の甲でごしり、と目尻をふき取って顔をあげる。
彼は、涙のついた指先を凝視するようにじっと見つめていて、なんだかその行動が少し気恥ずかしい気がして、私は頬を指先で掻いた。
「えっと、私、そろそろ戻った方がいいんでしょうか」
「魂魄だけが肉体から離れて逍遥している。――もう、戻った方がいいだろう」
「そうですか。やっぱりあんまり長く離れていると危ないんですか?」
「元々離れるはずのないものだ。それに、お前は神気に満ち溢れている・・・魂魄のままでいるのは、危険だ」
「そう、ですか。どうやったら戻れますか」
「気を集中しろ。私が導く」
さすがにいつまでも真夜中の山の中、魂だけで漂う趣味はない。それはっきりいって浮遊霊とか生霊とか、とにかくいいもんじゃないだろうし。手を差し述べて、私の額に泰明さんの指先が触れてくる。気を集中とかいわれてもどうしたらいいんだろう、と悩んだが、とりあず帰れますように、と念じておけばいいのか?と自己完結をしてみる。
そういえば、これって後でまた泰明さんに会えるのかなぁ、とぼんやりとこちらを見つめる彼を見上げて考えた。私が神子で、彼が八葉ならば、多分何日か後には、正式にご対面を果たすことになるのだろうけれど。じっと見上げていれば、ふと周囲が急激に霞んできたように遠のいた。あ、なんか、これは、帰るのかも、と漠然と悟る。目の前の泰明さんも朧で遠く、周囲の音もどんどん小さくなっていく。額に触れていたはずの彼の指先が遠のいたところで、私ははっと瞬いて慌てて口を開いた。完全に戻る前に、と。
「泰明さん!」
「なんだ」
「えっと、ありがとうございます。あと、それと、あの、また会えるのを待ってます!」
ギリギリ、最後まで言えたか言えなかったか。そのぐらいの時間差で、泰明さんの姿も木立の影も梟の鳴き声も、全てが全て、遠のいて消えてしまった。
変わりに、飛び込んできたのは古びた木目が並ぶ天井で、ぼんやりと瞬きを繰り返して首を動かす。どうやらすでに朝になってしまったらしい。夜とは思えないやんわりとした光りが御簾の向こう側から、隙間から漏れいるように室内にはいってきて、思わず吐息を零した。
むくり、と体を起こして、手足の動作の確認をする。特に問題はなく、なんとなく安心した。いや、だって魂が離れてたとかいうからさ、死後硬直とか起こってたら嫌じゃん。
でもそんな様子はなくて、本当にただ眠っていただけのような自分に、あれは全部夢だったのかなぁ、とそんなことを思った。夢だといわれても全然不思議じゃないし。
一つ、溜息を零すと私は布団から這い出て、御簾をからげて廊下に出た。まだ日が明けて間もないのか、周囲は少し薄暗い。だけど空の明るさは本物で、夜が明けたんだなぁ、と肌寒い空気に二の腕を擦りまだ見える、あの真夜中よりも随分と霞んでしまった白い月を見上げた。
「・・・また会ったら、夢だったのか現実だったのか、わかるかなぁ」
ていうか私、名前呼んじゃったけど大丈夫かなぁ、と。
頼久さんに呼ばれるまで、ぼんやりと白い月を見上げていた。