矢傷の可能性
肩が痛い。ひたすらに痛い。泣きたいぐらい痛い。弁慶さん作の痛み止めで、本当はそんなに痛くないはずなのに。震える指先で手当ての施された肩に触れ、奥歯を噛み締めて蹲った。冷たい夜風が、涙の痕を冷やして過ぎ行く。きらきら、月光が頭上に降り注いだ。
※
――油断、だったのだろう。勝って兜の緒を締めろ。なるほどその通りだと、今更ながら実感する羽目になるなんて。戦が終わって、やっと、やっと終わって。帰れると思った。
帰るにも何日もの時間がかかるけれど、その間怨霊に遭わないなんて保証もなかったけれど。でも人と戦うことなんてないのだと思うだけで、幾分はマシな気持ちになる。
早く帰りたいと思った。それは梶原の家を言っているのか、自分の家のことを言っているのか、時折あやふやになるけれど。けれど、ここにはもういたくなかった。気持ち悪い、怖い。
ひたすら嫌悪感と恐怖しか感じられない戦場になど、誰がいたいものか。
剣を握る己の手を見下ろして顔を歪める。投げ捨てたいと、何度思ったか。それでもこれを捨てることなんてできなくて、捨てたいのに捨てられなくて。柄を握り締めて深呼吸を繰り返す。遠くで呼ぶ声がする。緩慢に顔をあげると、朔も、譲もヒノエも敦盛さんも白龍もいた。
九郎さん達は幹部だから、別のところにいるのだろう。後始末の話しをしているのかもしれない。鎌倉に連絡もいれないといけないだろうし。大変だな、大将達もとそう思う。
けれど思うだけだ。以後私は何もできないし、する気もない。それほどの元気もなければ、余裕もなかった。僅かに視線を辺りに巡らせると、朔達よりも私に近い位置でリズ先生が佇んでいた。物静かにいつものように、けれどいつもよりも少しピリピリとした空気で。
それをぼんやりと見ながら、とりあえず彼等の傍に、とのろのろと足を動かす。
あぁ疲れた。寝てしまいたいような、寝たくないような。体は睡眠を欲しているのに、眠るのが少し怖い。けれど寝なくてはどうしようもないと、悪循環に眉間に皺を寄せた。
溜息を零して肩から力を抜き、、と呼ばれる声に小さく微笑んで、
「―――神子!!」
悲鳴のようなリズ先生の声を、初めて聞いた。え、と目を見開いて足を止めると、リズ先生を振りかえる。目を見開いてこちらに駆ける姿が視界に入った、と思った瞬間にどすりと背後から肩に衝撃が走った。その衝撃は中々なもので、後ろから押されたように体が前のめりに倒れる。どさ、と膝をついて地面に手をつき体を支えると、ひくりと喉が引き攣った。
「あ、・・・ぃ・・っ」
ずくずくと肩が痛む。驚きと衝撃で頭の中が真っ白になったが、すぐに激痛に顔を歪めると周りのざわめきが聞こえた。
「、!!!」
「っ弁慶さんを早く呼んでください!!」
「なにをしてる!!さっさと狙撃した奴を追え!!」
きつく眉を寄せて痛みの走る肩に手を触れながら、狙撃、と呟く。痛みに混乱している頭の中で狙撃という単語を考えると、ごつりと指先に固い物が当たった。首を捻って自分の肩を見れば、矢が一本、深深と突き立っている。じわじわと陣羽織から血が滲み出しているのをみてくらりと眩暈を覚えながら、ぞくりと背筋に悪寒が走った。痛い。痛い。痛い。痛い・・・っ。目を固く閉じて奥歯を噛み締める。蹲って矢が突き立っている部分からの激痛に喉奥を震わせると、無事な方の肩に手が置かれた。はっと固く閉じていた目をあけて顔をあげる。リズ先生がひどく険しい顔で私を見下ろしており、私はひどく引き攣れた声を出した。
「リズ、せんせ、・・・っぅ」
「喋るな、傷口に響く。・・・今から矢を抜くから、少し我慢しなさい」
「え、―――ひぅっ!!」
了承もなしにいきなり実行するのはひどいと思う。事前に言えばいいというものではないと、そんな悪態をつく余裕など皆無だ。ぐ、と矢にかかった力に喉が引き攣れて悲鳴がこぼれた。目に涙が浮かぶ。いや、浮かぶどころかあまりの激痛に目の前がチカチカとスパークし、ぼろぼろと涙が零れた。痛いとかいうよりも、それは衝撃故の生理的現象だったのかもしれない。目が熱いと同時に傷口も熱い。ずりゅ、と聞きたくもない生々しい音が聞こえ、深く突き立っている鏃が自分の体の中から引きぬかれる感覚に、首をぶんぶんと横にふる。
「ったい・・・リズ、せんせっ・・・い、・・・っ」
「神子、少しの辛抱だ」
「ふ、ぅ・・っ」
そんなこと言われても!!本当は一気にいきたいのだろうか、あんまりにも私が痛がるのでリズ先生が躊躇しているのがわかる。わかるが、自分の体から異物が抜き取られる感覚もおぞましいながら、痛みが半端なものではない。こんなに痛いのなら抜かなくていい、とどうしようもないことを思うぐらいにそれはひどい激痛だった。目の前が真っ暗になりそうだ。強く強く瞼を閉じて歯を噛み締めて、体全体に力をこめた。筋肉が引き締まって抜きにくいのかなぁ、とちらりと思ったが、正直まじで抜かなくていいから。本気で痛いから。
額に脂汗が浮かび、心臓がいやにどくどくと五月蝿く鳴り響く。蹲って息も絶え絶えになっていると、、と名前を呼ばれた。正直いって顔もあげたくなかったが、痛みから気を逸らすためにもと、のろのろと顔をあげる。滲んだ視界で上を見上げると、ヒノエの眉間に皺が深く刻まれているのが見えた。
「、辛いならオレにしがみついておきなよ。なんなら肩を噛んでいてもいいから」
「・・っ、で、も・・・・・・ひぎっ」
それはいいのだろうか、という遠慮も、再びずる、と動いた鏃に理性が吹っ飛んだ。
咄嗟に目の前のヒノエに抱きついて額を肩に押し付ける。さすがに噛むのは気が引けて、かわりに背中に回した手でぎりぎりと爪をたてた。痛い、痛い、痛い、痛いっ。
「、大丈夫だ。大丈夫」
「・・・っ、・・・ぅう・・・っ」
「先輩、頑張ってください・・・っ」
「、平気よ。ね?」
周りから頑張れ、と励ましの声が聞こえ、私は奥歯を噛み締めて改めてヒノエに縋りつく力を強くすると、一旦息を整えた。すぅ、はぁ、と深呼吸をして、そろそろと後ろを振りかえる。
リズ先生が矢に手をかけたまま、じっとこちらを見ていて、泣きそうになりながらこくりと頷いた。すると、リズ先生もまた頷き返し、そうして力を加えると、一気に矢を引きぬいた。
「―――――ッ!!!」
「弁慶!」
ずるり、と聞きたくもない音が聞こえると同時に激痛に目の前が真っ白になる。ヒノエの肩に額をぶつけて、悲鳴を喉奥で殺す。ちょ、も、・・・死ぬ・・・っ!!
信じられない、と目の前が真っ白になったが、矢が引きぬかれたと同時に着物が剥ぎ取られるように剥かれた。肩口を大きく露出され、外気に晒される。冷たい、とぶるりと体を震わせると瞬時に傷口に何かが触れた。感触からして布か何かだろう。恐る恐る縋りついているヒノエから離れて視線を巡らせると、険しい顔の弁慶さんがちらりと見えた。
しかし背中、つまり後ろにいるのであまりちゃんとは見えない。代わりにひどく心配そうな、顔を真っ青にしている譲や朔に、敦盛さんが見えて少しだけ息を洩らした。
「弁慶」
「大丈夫です。多少深くは刺さっていますが、急所ではありませんし毒も塗られてはいません。とりあえずこのまま天幕に戻りましょう。・・・九郎、狙撃した者はどうなりました?」
「今景時が追っている。この森だ、捕まえることは無理かもしれないが」
「そうですね・・・リズ先生、申し訳ありませんがさんを運んでくださいますか」
「わかった」
そんな会話が頭上で交わされると同時に、ひょいっと抱き上げられる。肩が引き攣れたような痛みを帯びて顔を顰め、ぐっと背中を丸めた。
「神子、神子・・・っ」
「白龍、・・・大丈夫、だよ?」
覗き込むようにして、白龍が今にも泣きそうに顔を歪めている。その表情が視界に入り、本当は精神的には全然大丈夫じゃなかったけれど、腕を伸ばして整った顔に触れた。
最早子どもではなくなった白龍の鋭角的な頬のラインを撫でて、ほんの少しだけ口角を持ち上げる。引き攣った笑みだったかもしれない。白龍が一層泣きそうになって、頬に触れた手に手を重ねた。
「神子、」
「ん、大丈夫・・・」
死なない。大丈夫、そんな傷じゃない。今弁慶さんも言ってた。死ぬような怪我じゃないって。だから平気、大丈夫。自分に言い聞かせるように呟いて、痛いけど平気だと言い聞かせて、深く息を吐き出した。ほんの少し、気休めだけどどことなく痛みがましになったように思う。リズ先生が滑るように、急いで動き出した。横で白龍が、朔が、譲が、敦盛さんが、心配そうについてきていたけれども私は首を竦めて自分の腕を掴み、小さくなって痛みに必死に耐えるしかなかった。
※
天幕に戻り、すぐさま入ってきた弁慶さんに矢傷の処置をされた。その前に朔が黒龍の力でいくらかの治癒をしてくれたから、手当て自体にさほどの痛みは伴わなかった。
朔の力は鎮魂だ。だから癒すというよりも、痛みの軽減に近い。体に流れる気、というものだろうか、そういうのを正す形なのかもしれない。理屈はいまいちわからないが、楽になったのだからどうだっていい。楽とはいってもやっぱり痛いものは痛いし結構辛いのだが。
傷が背中というか、そういう部分にあるのでうつ伏せになりつつ溜息を零す。
「最悪、」
ぽつりと呟く。幸いにも今は皆そばにはいないから、遠慮なく悪態がつけた。
さっきまで心配そうに複数人いたけれども、あまりいては気を使わせてしまう、と弁慶さんの助言で皆渋々と出ていってくれた。実際少し心寂しい気もするが、一人になって詰めていた息を吐き出すことができて、随分と気疲れもしていたのだとわかる。まあ、人前で痛い痛いと盛大に嘆くこともできないのだから、そういう部分では1人というのは大変楽だ。
簡易的な布団に頬を押しつけて、ゆっくりと目を閉じる。痛かった。本当に本当に痛かった。吃驚した。怖かった。何が起こったのか、全然わからなかった。ふと、肩越しに見た自分の肩に矢が刺さっている光景が瞼の裏に浮かんで、ぞくりと背筋が震える。
ぎゅ、と布を掻き集めるように握り締めて、ざわめく心中に吐き気がきた。ぐっと堪えて、また溜息。一体これで何回目だろうか。
「やだ、なぁ・・・」
無事だったことに喜びはすれども、やはり怪我をしたというのは重たく衝撃的だ。
今は朔の力と弁慶さんの薬で痛みが鈍いけれども、動くと鋭く走るから、中々動けもしないし。本当に、冗談じゃないと眉間に皺を寄せた。泣きたい。実際涙は目尻に零れたが、すぐさま布が吸い取ってくれたからさほど問題はない。怪我をしたのが嫌だ。痛いのが嫌だ。
これ、いつ治るのだろうかとぼんやりと考えていると、ぼそぼそと天幕の外から話し声が聞こえ、ピクリと眉を動かす。息を潜めたように静かな本陣では、少し離れた程度の外の声など、簡単に入ってくる。今は私が狙撃されたということも手伝って、厳戒体勢を敷かれているらしい。当たり前かと、そう思う。なにせ本陣で狙撃事件。もしもがあっては目も当てられない。そういえば景時さんは帰ってきたのかなぁ、と聞くともなしに外の声に耳を傾ける。
それにふと、あれ、これって九郎さん達じゃないか?と顔をあげた。瞬間、傷口から背筋にかけて痛みが走って、思わず悶絶する。し、しまった・・・っ。突っ伏して痛みをやり過ごしていると、やたらと鋭敏になった耳に彼等の話し声が割って入ってきた。
「ちゃんの容態はどうなの?弁慶」
「傷は多少深いですが、命に別状はありませんよ。しばらくは安静にしておかなければなりませんが」
あ、景時さんだ。帰ったきたんだ、と思いながら怪我してないかなぁ、と目を細めた。
私を狙撃した人を追いかけたと聞いた。怪我してないといい、と思っていると、再び、今度は九郎さんの真剣な声が耳に入り込む。
「どう思う、弁慶」
「どう贔屓目に見ても、さん本人を狙ったようにしか見えませんね」
「少し離れた位置に朔達はいたし、兵も離れてた。俺達なんかそれこそあの場の近くにはいなかったからね。・・・目的は神子の暗殺」
ひやりと、背筋が凍った。景時さん帰ってたんだ、と思う前に耳を疑う単語に、え?と目を見開いて息を飲む。知らず手に力をこめて、どくどくと騒がしくなっていく心臓に、唇を戦慄かせた。聞きたくないと、ふとそう思う。けれども、無防備にも人の天幕の前で話し込んでいる彼等は、淡々と聞きたくもない会話を進めていっていた。
「そうか・・・油断していたな」
「えぇ。もっと注意しておくべきでした。相手にとって神子はもっとも消したい人物の1人です。狙わない道理がない」
ち、と舌打ち混じりの九郎さんの厳しい声が聞こえる。弁慶さんがそれに苦く答えているのに、私はガタガタと手が震えるのを感じていた。何を言っているんだ、彼等は。
なんて物騒な話しをしているんだろう。暗殺?なんだ、それは。しかも対象が私?なんで。うそ、と小さく口の中で呟くと、景時さんの声が聞こえた。
「怨霊を浄化できる唯一の存在・・・平家にしてみれば目の上のたんこぶみたいなものかな。今回のことは完全にこちらの落ち度だよ」
「わかっている。これからは警備も一層強化するつもりだ。俺達も注意していなければ・・あいつを失うわけにはいかない」
「そうですね。今や神子は源氏にとってなくてはならない存在です。・・・僕達にとっても、失えるような存在じゃありませんからね」
「あぁ・・・」
「そうだね・・・」
ふと、最後の呟きはうまく聞き取れなかったが、心境的にそれどころではなかった。
ぐるぐると思考が掻き混ぜられて、ベクトルがあっちへそっちへと、目茶目茶に向いている。何を考えればいいのかわからなかったけれど、話し声が途切れると足音が遠ざかっていくのに、息を殺して私は目の前が真っ暗になる感覚に襲われていた。
知らず、口元に手を押し当てて寝そべっている布を凝視する。カタカタと奥歯が震え、ぎゅっと噛み締めるときつく目を閉じた。
「・・・っ、なん、で・・・!」
どうして、私が。そう思わずにはいられない。理由はわかった。考えれば当然のことだと、理解できる。けれども、納得などできるはずもなかった。いや、したくないのだ。
だって、だって、だって、そんな。そんな、こと・・・っ。
「ふ、ぅ・・・っ」
嘘だと、誰かに罵りたい気持ちになった。所構わず手当たり次第にものを投げつけて、癇癪を起こしたい。けれど生憎とそんな対象は傍にはいないし、そもそも投げつけられるほどの物がない。あるとすれば水の入った桶と薬、布、それぐらいで。体を震わせて嗚咽を零し、額を敷き布に押し付けてくぐもった声を出す。涙が溢れて溢れて、止まらなかった。
暗殺。神子だから。平家の邪魔。殺される。狙われた。あれは私を、私だけを、殺す為に。
ぞっとする。背筋が凍るような思いと共に、そっと傷口に触れる。あの時リズ先生の声がなかったら、もしかして私は、とそう思うとひやりと冷たい手に心臓を握り込まれた気がした。
狙われたのだ。私が。私を殺す為に、あの矢は放たれたのだ。源氏の神子だから、怨霊に対抗できるから、ただ、邪魔だから。――――狙われて殺されるような立場に、私はなってしまっているのだ。思い至れば、恐怖心が沸き立つ。熱い目の奥から落ちた涙が、ぽたぽたと敷き布に吸い込まれていく様を滲んだ視界で睨みつけて、顔を押しつけた。
泣き声だけは晒すまい、と必死に歯を噛み締めて声を殺す。なんでだ。どうしてだ。なんでそうなった。こうなってしまった。殺される、私が、明確な意思を持って。
「じょ、だんじゃ・・・なっ・・・や、だ・・・やだ、やだ、やだぁ・・・っ!」
なんで殺されるような立場にならなくちゃいけない。ふざけるな。ぐるぐると思考が回りまわって、ぐちゃぐちゃだ。ただもしかして、これからもあんなことがあるのだろうかと思うと、ぞっと背筋を何かが走りぬけた。それは肩の痛みとも違う、悪寒というもので。吐き気さえ覚えて、息を止めた。
「怖、い・・・こわ・・・っ」
怖い。怖い。なんで、なんで。私が神子だなんて、そんなの、好きでなったわけじゃないのに。こんなことしたくないのに、なんで私が。どうして、私がそんな立場に。
信じられない。信じたくない。なんで、どうして、・・・・・・・・・・・・嫌だ!!
しばらく、そうして蹲って泣いていた。九郎さん達もひどい。なんでそんなこと人の天幕の前で話すのだ。もっと別のところで話して欲しい。人に聞かせるなそんなこと。
私はそんなに神経が図太くないのだ。暗殺の可能性を諭されて、平然としていられると思うな馬鹿野郎。もっとも、彼等にしてみれば聞いているとは思っていなかっただろうし、そもそも寝ているとさえ思われていたかもしれない。要するにタイミングが悪かったのだろう、などとその時は考える余裕はなかったが。震えながら咽び泣き、どこか泣き過ぎてぼんやりする頭でそろそろと起き上がる。肩にぴしりと痛みが走ったが、ぐっと奥歯を噛んで耐えるとゆっくりと天幕の入り口まで歩いた。そろりと幕をあげれば、ぽっかりと月が夜空に浮かんでいる光景が見えた。ぼんやりとしか見えないそれに目を細めて、再びじわりと涙が浮かんでくるのを感じる。ごしごしと手の甲で涙を拭い取ると、溜息を零して肩から力を抜いた。
――――暗殺も有り得るのだと、そんな事実、知りたくもなかった。
何かがぽっかりと洞をあけているかのように。空虚な内を、夜風が吹きつけて。
現実を突きつけるような肩の痛みに、きつく目を閉じた。