終わりを、見つめてる。



 顔色が悪いよ、とそう言われて下げた視線の先に、少し眉を寄せて心配そうにしている顔を見つけて、そうですか?と僅かに口角を持ち上げた。癖のようになった、宝玉のある首筋に手をあてて首を傾げれば、先輩は僅かな吐息と共に悪いよ、ともう一度呟いた。

「寝不足?」
「いえ・・・いや、そう、ですね。寝不足、かもしれません」

 否定を口にしかけて、じっと見上げる視線に、誤魔化しできないように曖昧に肯定を口にした。こくりと頷いて髪をかき回すと、ふぅん、と一見興味のないような頷きが返され、それから廊下の先を指差される。きょとりと目を丸くすれば、先輩はふんわりと微笑んで口を開いた。

「だったら、少し寝たら?」
「え、でもこんな昼間から・・・」
「大丈夫だって。皆それぐらいで怒ることなんてしないし・・将臣なんか普通に寝てるよ」
「兄さんと一緒にしないでください。あの人はだらしがないだけです」
「あはは、辛辣だね。まあ、でも、あれぐらいの余裕は必要かなって思うけど」

 あんまりありすぎても問題だけど、と呟きながら歩き出した先輩につられて横に並ぶように歩き出す。向かう先が空き部屋なのは明白で、上げたままの御簾の下を潜り、薄暗い中へと入る。けれど入ったとしても、眠る気があまりない自分にしてみれば対応に困る。困ったようにぽつんと入り口近くで立ち尽くしていると、奥に入った先輩が後ろを振り返り、あどけない顔で目を細めた。どうしたの、響く声はどことなく柔らか味を帯びていて、溌剌としたものよりもずっと穏やかだった。

「いえ、その・・・折角ですけど、今はあまり寝ようとは・・・」
「え、でも本当に顔色悪いよ?横になったら少しはマシになると思うけど・・それもダメ?」

 無理強いはしないけど、横になった方がいいんじゃないか、とぺたぺたと近寄り下から覗きこむ先輩に、うっと言葉を詰まらせながら、ダメじゃありませんけど、ともごもごと口の中で言葉を転がした。

「けど?」
「・・・眠れない、というより・・・眠りたくない、のかもしれません」

 春日先輩だったらきっとここで問いかける前に、だったら寝よう、とでも言って寝かせるんだろうな、と思いながら観念したように視線を逸らした。心持ちトーンの落ちた声で、か細く答えれば先輩の眉が寄る。それから何か迷うように視線を泳がし、ちらちらと俺を見ては、小さな溜息を零した。

「とにかく、立ち話もあれだから座ろうか」
「あ、はい」

 言いながらその場に腰を下ろした先輩に促され、同じように先輩の正面に腰を落ち着ける。そして見合うとお互いになんとも言えない表情を浮かべた。なんで真面目な顔で見合っているのだろうか、とちらりと思ったけれどもそれは彼女も同様のようで、居た堪れないように視線を逸らし、それからうーん、と声を零した。

「話したくないなら話さなくていいけどね」
「え、はい」

 微妙な沈黙を打ち払うように、ぎこちなくそんな前置きをして、先輩は首を傾げる。座れば高さにそう大きな開きはないものの、やはり元の差がかなりあるために、余計にこじんまりとした印象が拭えない先輩を見つめ返すと、ひどく尋ねにくそうに、先輩は口を開いた。

「・・眠りたくない理由って、聞いても平気?」
「それは・・・」
「あ、だからね、話したくないから話さなくていいよ。でも、その、悪夢だとかそういったことなら、話したほうがすっきりすることだってあるでしょ」

 にこ、と浮かべられた笑みに、ぎこちなく笑い返しながら口を閉ざす。先輩は、言葉通りに決して無理強いをすることはないだろう。話したくないといえば、もしくはそれらしい動作をするだけで、きっと何もなかったことにしてくれる。その控えめな優しさが、痛いほどに胸を刺して、膝に置いた手を握り締めると、じっと待っていてくれる視線に俯いた。

「あー・・・譲、」
「夢を、見るんです」
「、あ、ゆ、夢?」

 俯いた動作をどう取ったのか、きっと拒絶だと思ったのだろう、苦笑を浮かべた先輩を遮るように口を開く。虚を突かれたように挙動不審になる先輩に、やんわりと口角を持ち上げながら口角を持ち上げる。先輩は数瞬口を動かし、ひっそりと噤むと静かな表情で見据えてきた。その、決して強すぎない緩やかな眼差しに後押しされるように、首筋の宝玉を撫でて、半分ほど瞼を伏せた。

「情けないですよね。夢で、眠れなくなるなんて」
「そんなことないよ。夢で眠れなくなるのって・・・よくあると思う」
「そう、ですか?」
「うん。ここだけの秘密だけどね、私も、怖い夢みたら中々眠れないんだ。嘘じゃないからね、これマジな話だから。夢ごときでって思うけど・・・結構、きついものがあるよね・・・」

 言いながら、悲しげに顔を歪めた先輩に、言葉が嘘ではないことを悟った。ひどく辛そうに、苦しそうに、泣き顔にも見えた苦い顔に、咄嗟に腕が動く。けれど届く前に、はっと自制心が働いてびくりと筋肉が派手に硬直する。微かに立った衣擦れの音に、伏目がちだった視線があげられてきょとんとした顔になり、苦しげなそれが音もなく消えてしまった。あ、という密やかな声は、ひっそりと誰に届くこともなく消えていく。

「あー、で。私のことよりも譲だよね譲。内容は聞いても平気、なのかな」

 遠慮がちな問いかけに、吐息を零しながらぐっと肘を握る。押し留めるように、喘ぐように唇を震わせて、きゅっと眉を寄せた。

「内容は、詳しくは話せません。だけど、・・・とても怖い夢です。何度も、何度も、同じ夢ばかり繰り返して・・・時折、それが現実なのか夢なのかわからなくなる。俺は、その夢が怖い。まるで現実に起こるような、起こったような夢が、堪らなく、怖いんです・・・っ」
「譲・・・」
「だから、眠れないんですよ。ここ最近、そんな夢ばかり見ていて・・・眠ったら、まだ同じ夢をみるんじゃないかって。どうにかしたいけど、だけど夢の中ではどうにもできなくて・・・それが、凄く情けなくてもどかしくて。夢なのに、夢じゃないような現実味が、堪らなく嫌なんです」

 見たくもないのに、それでも嫌でも繰り返してしまう。何度も何度も、どんなに泣き叫んでも、怒鳴っても、喉が引き千切れるぐらい訴えても、どんなことを、しても。繰り返し、繰り返し、呆れるぐらい、馬鹿馬鹿しくなるぐらい、いっそ、何も感じなくなるまでぐちゃぐちゃに壊れてしまいたいぐらい。繰り返される、悪夢。血の色をした、とても・・・残酷な。感情のゲージが一瞬振り切れそうなほどに高まって、押し殺した声が細かく震えてしまう。握った拳が白くなり、爪が掌に食い込む。あと少しでぶつりと皮を突き破って肉に食い込むのではないかというぐらい、青筋のたった拳に、慌てたように何かが触れた。暖かな体温に、ふっと一瞬力が抜けて目を瞬いて正面をみる。何時の間にか近づいていた先輩が、ひどく慌てた様子で手に触れて眉を下げていた。

「譲。譲ごめん。ごめん。思い出したくなかったよね、ごめん」
「え、せん、ぱ・・・?」
「ごめんね。嫌なことなんて、思い出したくないよね。ほんとごめん。ね、だから、手、解いて。怪我、するよ」

 とても慌てた様子で、しまった、といわんばかりに苦々しく、先輩はそっと握っていた零しを解いていく。あんなに強く握り締めていたのが嘘のように、あっさりと開いていく指の中、爪の痕が残ってしまった掌が見える。けれど痕だけで傷はついていない様子に、ほっとしたように先輩が表情を緩めた。それから、本当に申し訳なさそうに俯いて、先輩はゆっくりと手を離した。離れていく暖かな体温に、思わず指先がピクリと動く。

「思い出したくなんて、ないよね。嫌なことなんて、忘れたいよね・・・ごめん。折角、考えないようにしてたことかもしれないのに、話させて」
「先輩、そんな。そんなこと、ないです。元はといえば俺が自分の体調の管理ができてなかったからで、先輩が気にする必要は・・・!」
「ありがと。うんでも、私もね、嫌なことってなるべく思い出したくないんだ。どうやっても忘れられないことだから、だから普通にしてるときとかは、そういうこと考えたくないんだよね。逃げかもしれないけど。だから、自分がやりたくないことさせたことは、すごく申し訳ない気持ちになってる。ごめんね」

 そういって笑った顔は、笑っているのに苦しそうで。どうして先輩がそんな顔をしなくちゃいけないのかと、愕然と唇を戦慄かせて、咄嗟に離れていた腕を掴んだ。細い。華奢で、多少の筋肉があっても、なんて、か弱く・・・温かな、それ。一瞬物を確かめるように、改めて握りなおすと、驚いたように丸くなった目が向けられる。その丸くなった目が、あの瞬間に、重なる。ブレる視界を振り切るように、きつく眉を寄せて唇を引き結んだ。膝立ちになって、呆然としてる先輩を見下ろす。彼女は大きな戸惑いを浮かべながら、俺の顔と、掴まれている腕、交互を見やっておろおろと視線を泳がせた。その様子に、一瞬高ぶった感情を宥めるように、押し殺した声で、それでも懸命に笑みを浮かべる。

「謝らないで、ください。先輩が、謝ることじゃない・・・俺は、こういったら卑怯かもしれませんけど、先輩に、そんな顔をして欲しいわけじゃ、ないんです・・・」
「譲・・・ごめ、あ、いや。・・えーっと・・・ありがとう?」

 目の前を、さらりと前髪が滑る。笑みを浮かべながらも、きっとそれはとても下手糞な笑顔であったのには想像に容易い。こんな言い方は、誰に対しても卑怯だと思う。こういえば、きっとそう返されることはわかりきっていて。だけど、言わずにはいられなかった。悲しませたいわけじゃない。苦しめたいわけじゃない。ただ、ただ、あなただけは笑っていて欲しかった。あなただけは幸せになって欲しかった。―――あなた、だけは。笑顔が消えていくのが自分でもわかる。それが見られたくなくて、どこか引け目があったけれど、掴んでいる腕を幸いに先輩の肩口に額を押しつける。それでも背中にまで腕を回せないのが自分らしいと、どこか自嘲を浮かべながら、ぐっと息を押し殺した。

「ゆ、譲っ!?譲、え、ちょっ」
「すみません・・・少し、眠い、かも、しれません」
「え、あ、そ、そう?ふ、ふーん。そっか、眠いのか・・・」

 嘘だろう、と言外に先輩がぼやいた気はしたけれど、俺はそれには応えなかった。ごり押しに弱いこの人は、こうすれば小さな嘆息と共に力を抜くことを知っている。ずっと見てた。この世界にきてからの付き合いだけど、それでもこの世界に流れ着いてから・・・いや、もしかしたら、共にあの時空の狭間で流されたあの瞬間から。ずっと、見ていた。一緒にいた。過ごした時間の長さならば兄になど負けない。俺の方がずっと長くこの人と共にいたのだ。それは僅かな優越感を抱かせ、吸い込んだ仄かに香る匂いに、瞼を閉じる。さりさりと、俺の髪と先輩の髪が混ざり、擦れあう。

「譲・・・」
「・・はい」
「あの、ね。夢は、所詮夢、なんて私には言えないけど」
「はい」
「でも、頑張るから。譲の夢の不安が吹き飛ぶぐらい、頑張る、から」
「・・・は、い」
「私、弱いけど・・・頑張る、よ」

 言いながら、頭の上に乗せられた小さな手が、控えめに動く。撫でる手の動きに、言葉に、もしかしてこの人は夢の内容を知っているのだろうか、とふと考える。時折何かを見通すような言動を取る人だから、もしかしたら察しがついてるのかも、しれない。それを思うと、ひどく胸が締め付けられる。もしも知られていたら、そう思うと堪らない。気づかれないように唇を噛み締めて、零れそうな言葉を必至に押し殺した。もしかしたら肩は震えているかもしれない。それを嗚咽だと勘違いしてくれればいい。先輩の言葉が嬉しくて、そうして震えているのだと思ってくれればいい。殊更優しくなった手つきにそう思いながら、か細い腕を掴む手に、力をこめた。先輩、先輩。怖いんです。本当に、とても、とても怖いんです。
 俺の見る夢はとても現実的で、本当に起こったことなんじゃないか、これから起こることなんじゃないかと、不安になるんです。いつだって見てしまう。血生臭い夢。溢れる赤と、冷たくなる体。どんなに形は違っても、結末だけは変わらない。どんなに声を張り上げても、腕を伸ばしても、願っても、拒絶しても、どうしても結末だけは変わらない。それが堪らなく嫌で、嫌で嫌で嫌で、怖くて、恐ろしくて仕方ないんです。ねぇ先輩。俺は、俺は・・・・。


 あなたに置いて逝かれることが、心が壊れそうなぐらい、怖いんです。