メビウスの始まり



 寒くて、冷たい暗闇の中、誰かの泣き声が聞こえた。
 殺しきれない嗚咽の、小さな音が静かに反響して体を震わせる。
 誰かの名前を呼びながら、請うように―――恋うように、悲しみが漏れ出さないように。
 小さく小さく押し殺した、誰かを呼ぶ誰かの泣き声に、首を傾げた。
 最後、ぽつりと頬に何かが落ちたとき。


「会いたい」


 ただただ純粋な、誰かの思いを、聞いた。





 朝から降り続いた雨はその勢いを少しも緩めることなく夕方まで降り続き、放課後までその曇天を晴らす事は無かった。
 学校の吹きっ晒しのさっむい下駄箱で、腰を丸めて屈みながら外靴を取り出す。雨のせいで元々寒い冬の最中、余計に寒い、いやむしろ冷たい指先で肩から下げた補助バックを再度肩に掛け直した。
 外靴を履いて、上靴は下駄箱に戻してばしんと蓋を閉める。偶に下駄箱の蓋は緩いのか知らないが、閉まることなく再び開く事があるのでちゃんと閉まっているのを確認してから外を向いた。
 冷たい外気に首を窄め、ぶるりと震える。腕を擦りながら部活に行く友人にばいばい、と声をかけると、大量に傘が差してある傘立ての中で、紛れている自分の傘を引きずり出してバネを利用して広げた。
 大きな音をたてて開いた傘を差して、ザァザァと音のする灰色の中、水溜りを踏んで歩き出す。時計を見ながらバスの時間を確認して、心持ち遅くなってしまった時間に早足になる。
 寒い中、なるべく待ち時間などない方がいい。赤から青に変わる信号の長さを苛々と待ちながら、バス停側の道路に目的のバスが走ってきているのを確認すると、一層苛立たしく思う。さっさと変われ!!とトントンと爪先で地面を蹴ると、やっと変わった信号に急いで走り出した。雨の中、しかも傘を差している状態で全力疾走など望めるはずもなかったが、それでもギリギリでバス停に止まったバスに駆けこみ、バスカードを取り出して機械に通すことに成功する。ほっと安堵し、多少込み合っているバスを見渡して、座れる場所がないことに眉を寄せた。仕方なくしばらく立つことを余儀なくされて、面倒な、とぼやく。
 濡れた傘がこういう時非常に邪魔である。ずり下がった鞄を直して、近くの席の持ち手を握る。そうすると青色に変わった信号に、バスが動き出した。ガクンと車体の揺れと同時に体が揺れ、濡れた床に滑りそうになる。通り過ぎる車窓についた水滴とともに、自分の姿が薄っすらと映っていた。





 終点から一駅前に、自分以外の全ての客が降りる。精算機の大きな音が静かな車内に響き、タラップを降りる足音が遠のいた。開いたドアからシャアァァ、という雨の中車の走る音が紛れ込み、ザァザァという音までも聞こえてくる。足元に吹きつける温風を感じながら、音をたてて閉じたドアと同時にバスが走り出した。ぼぅ、と特に見るものもないバスの中、座席の背もたれについてある広告に目を通す。耳につけたイヤホンから流れる音楽に欠伸を零すと、しばらくしてアナウンスが入った。顔をあげて窓を見る。水滴のついた窓ガラスは中と外の温度差故に曇り、はっきりとは外の風景が見えない。けれども見覚えがある場所に違いは無く、もぞもぞと鞄のファスナーを開けると財布を取り出した。中からバスカードを取り出して準備をする。バスが車線変更をし、終点の駅に向かった。大きな車体をくねらせるように曲がり、反動で僅かに体が揺れる。やがてバス停に着くと、プシュウ、と音が鳴りドアが開くのと同時に立ち上がり、精算機にバスカードを通した。音をたてて精算されると、運転手を振り返る。

「ありがとうございました」
「はい、気をつけて」

 バスから降りるときの挨拶は礼儀である。中年男性の朗らかな笑みを受けて多少高い段差を降り、ぼんやりと出口の下にある水溜りを見る。空から落ちてくる雨に波紋を何度も広げるその上に、足を下ろして――どん、と誰かに強く背中を押された。ぎょっと目を見開く。
 誰が背中を押したの。いやそれよりも、目の前に水溜りのアスファルトが迫っている。
 しかも今まさにバスから降りようとしていたところで、体勢を立て直す余裕もなかった。
 ただ傾ぐ体に傘から手を放して前に手を突き出す。アァ痛い。アスファルトの上にこけるのもそれが雨の日だということも全部。しかもちょっと高い位置から落ちるようにだ。
 最悪だ!と思う前にどさっと盛大に転んだ。無論受身は取ったが、打ちつけた手足が痛い。

「いった・・・」

 小さくうめいて溜息が零れる。何が起こったんだ今。誰かに押された気がしたんだけど、と思いながら眉を潜めて、目を見開いた。手をついた地面が何故か茶色い。
 ついでに言うのならば濡れた感触もしない。思わず手を地面についたままじっとそれを凝視した。さりさりと砂の感触がする。アスファルトの感触はいずこ。

「え、あれ・・?」

 雨に濡れたアスファルトの濃くなった色彩は目の前にはない。変わりにさらさらと乾いた土の茶色が小石と共に広がっており、私は地面についていた手を放して、掌についた土を見た。受身を取ったときに擦れたのか、掌にはアチコチに擦り傷がある。
 じんじんと地味な痛みに眉を寄せ、膝頭を覆い隠すスカートの裾をちらりと持ち上げた。
 見事打ちつけ、擦り傷を残す膝小僧が見える。そりゃ目一杯転んだものね。青痣になってそう、と溜息を零した。ぱっぱっと掌についた土を払いながら、おっかしいなぁ、と顔を上げて(どこか思考回路が追いついていない危うさがあったが)絶句した。
 広がる霞みがかったように見える、ぼんやりとした青空。その青空にかかる鮮やかな薄紅の桜の、見事な咲きぶり。満々と透明な水を湛えた、大きな池。
 目の前に広がるのは、あるはずの雨降りの路上ではなく、見たこともない春爛漫の風景。
 ひらひらと薄紅色の花弁が落ちている様を見ると、もう散り始めなのだろうか。桜吹雪の見事さが美しい。白に近いピンクの花びらが、ひらひらひらひら散っている。
 夢のような光景に、瞬きを繰り返して唇を戦慄かせる。え、と1つ呟くと、ぐるりと辺りを見まわした。まるで四方を囲むように桜が何本も隣接して立っている。池の中にも花弁は舞い落ち、思わず見惚れるほどに綺麗な姿を晒していた。そんなぽかぽかと陽気も暖かな桜並木の中、もしかしてど真ん中に私は座り込んでいるのだろうか、と瞬きを繰り返す。
 制服のスカートが砂に汚れるのが判っているのに、私は動けないまま有り得ない光景に呆けていた。だって、なんで目の前に桜があるの。しかも見事な咲きっぷりである。
 昨今は温暖化の影響で暖冬だったりなんだったりで、季節を勘違いして咲く、ということもあるようだが、それにしてもお前等季節勘違いし過ぎだろう。桜前線到来ですか。
 今は冬だ、紛れも無く。冷たい寒風に雪も降り、鍋が恋しい季節である。暖冬とか言われようと寒いもんは寒いのである。だってほら私セーター着てるし?
 制服の下にだってシャツとか着込んでるよ。制服だって冬服用で、夏場の爽やかな白い制服じゃなくて紺色の制服で?ほらほら完全冬の格好じゃないか。冬だったんだよ今の今まで。雨が冷たくて雨のせいでただでさえ寒いのが更に寒くて、そうだよ雨だったんだよたったの今まで。なのに、これはどうしたことだ。

「え、な、なん、・・・え、だって、雨、道路、・・・なんで?」

 晴れ渡る青空が目に眩しい。ちょっと待ってよさっきまで目茶目茶曇ってて雨降ってたじゃん。乾いた茶色い土の地面。さっきまで水溜りもたくさんあった固いアスファルトだったでしょ。桜なんぞなかった代わりに住宅があったよね?!なのに!どうして!!

「どこだここ・・・っ?!」

 見知らぬ土地にいるの私!!頭を抱えてなんだこれ!?と混乱を迎え入れた。なにこれなにこれなにこれなにこれ。夢、夢なのだろうかリアルな夢?
 え、だってさっき私バスを降りようとしてて、外は雨が降ってて、季節は冬で、アスファルトの道路があって住宅街はすぐそこで!バスは、バスは何処に行ったの?
 雨は、なんで晴れてるの。冬、・・・暖冬にも程がある!いつからアスファルトの塗装は剥がされたんだ。ていうか池も桜も近くにはない!!あぁぁぁああぁぁわけがわからな・・・っ!
 ドッドッドッドッ、と心臓が勢いよく稼動し始める。不安と驚きと理解不能の状態に、血の気が下がる思いだ。しかし1度深呼吸をして、ぎゅっと胸の前で手を組むと睨むように周りを見る。・・・どんなに見つめても風景は変わらなかったが、私の頭は1つの結論を導き出していた。つまりは、

「夢だ」

 夢に間違いない。多分変にリアルな夢を見てるに違いない。よくあるよくある。
 夢と現実を混同してしまうことって。それでよくよく考えるとあれ夢じゃん!とか気付くんだ。
 そうだこれは夢なんだ。夢だよね。当たり前じゃん。だっていきなり路上からどこぞの庭園とかないって普通。夢独特の突然の場面転換、という奴だろう。そうそう場面転換って全然脈絡なかったりするんだよね。前後の繋がりがないっていうか?それなんだろう。
 いやぁしかし夢の中で夢だと認識するなんて益々変な夢だこと。いやむしろ珍しい夢といったほうがいいか?普通夢を見てるときは夢だと思わないものだが、時々これは夢だ!という変な確信を持つことはある。しかし、自覚すればその後は比較的早く目覚めが訪れるのも常識だ。ということはだ、そろそろ目が覚めるはずである。吃驚だ私。まさかあんな短い距離で夢を見るほど寝てしまうとは。脇に抱えているすっかり肩から落ちてしまった鞄の上に手を置いて、ほっと肩を下ろした。なんだ夢か。
 夢なのか、と思った瞬間、どんっと背中に衝撃が走った。その衝撃具合がなんとなくバスで押されたときに似ており、目を剥いて慌てて前倒しになった体を支えるために地面に手をついた。何だぁ!?と焦って後ろを振り向けば、何か白い色が見える。え、なに?と目を丸くすると、白い色が動いて、目の前に泣きそうに潤んだ金の瞳が映った。きんいろのめ。その綺麗な色に驚くと同時に、見覚えのある顔に大きく目を見開いた。呆けたように口が半開きになる。パチリと瞬きし、唖然と固まっていると、それの口が何かの形に刹那戦慄いた。けれど、不自然な呼吸音がヒュゥ、と聞こえただけで、声は聞こえずにそれは口を閉ざす。ただ、声の代わりとでも言うように、ポロリと潤んだ金色の目から溢れた雫が、頬を伝い落ちた。ぎょっと目を剥いて息を飲み込む。

「え、な、・・・は、あれ?」

 は、白龍登場、ですか・・・?人の背中にしっかりとしがみついたまま、ほろほろと透明な涙を流し、小さな淡い唇をきゅっと噛み締めている白龍を眺めてこてりと首を傾げる。
 あぁ間違いなく夢である。・・・白龍が出てくる夢とは美味しいなぁ。好きなゲームのキャラクター登場に少し気分が浮上したが、それにしてもいきなり飛びついてきて泣き出すとはいったいどういう話なのだろう。いやわかってる。夢にストーリー性など求めてはいけないのだ。
 しかしながら、どうしたものかと戸惑う。これって自分が動いたらまた場面転換してしまうのかなぁ。だとしたら惜しい。どうせなら会話ぐらいまではしたいものだ、と余所事のように考えていると、後ろの方からまた声が聞こえた。白龍ー!という呼び声。聞いたことがある。
 ぱっと白龍から顔をあげて声のした方向に向く。そうして、その人は桜並木の中から現れた。ひらひらと舞い散る花弁の中から、長い紫色の髪をなびかせて、きらきらと輝く翠色の瞳を真っ直ぐに向けて。あぁ、リアルである。映像というよりもまさしく人として姿を取ったような立体感と共に、現実の人間らしい質感さえも兼ね備えた美少女・・・春日望美が、立ち止まり白い制服の短いスカートを揺らして、大きく目を見開いている。


 この夢は友達に話したら面白そうだ、と背中に白龍をくっつけたまま、春日望美と見詰め合いながら私はぼけっと考えた。