花酔



 あなたが舞い降りたのだと、すぐにわかったよ。





「そろそろ桜も散り時かもしれないねー」

 そういって、両手を広げて際限なく降り注ぐような桜吹雪を見上げた神子が振り返る。
 腰まで伸びた長く真っ直ぐな、ややピンク味のかかった藤色の髪が、同時に背中でたわむように揺れた。さらさらと音の聞こえそうな滑らかな動きで、翡翠色の双眸がにっこりと微笑む。その微笑につられたように、黒髪の神子は口角を持ち上げた。

「そうね。もう春も終わりに近いわ」

 そういって懐かしげに細められる眼差しは、落ちる花弁に注がれていた。ひらひらと舞い落ちる様は儚く無常で、落ちきれば次に大木を彩るのは青々とした葉なのだろう。時の流れを明確に教える花の移り変わり様に、吐息を零したのは果たして誰か。
 花弁の降る中、今日は修行もお終い、と戯れている望美から、その後ろにいた九郎は視線を外した。
 直視し辛い。そう思う。その様子を隣で微笑んでいた弁慶はちらりと一瞥し、けれど故意に何もなかったように逸らした。
 誰もが皆、奇妙に強張った空気を持っている。理由を追求するまでもないぐらいに理解しているからこそ、見ないふりをして放置しておくのだ。何故ならば、自分達ではどうにもできないことなのだから。

「最後にお花見ぐらいしたいよね。今までそんな余裕なかったし」
「それはいいね。散る間際の花見も風情があっていいんじゃないかな」

 言いながら楽しげにヒノエは喉を震わせる。同意を得られたことで俄然やる気が満ちたのか、そうだよね、と弾むように溌剌と望美は言った。そしてそのまま計画を練り始める様子を眺めながら、譲の苦笑が僅かに零れる。どうせお弁当を作るのは俺でしょう、などと軽口を叩けば、譲君のご飯が美味しいんだもん、と唇を尖らせて反論してくる。

「しょうがない人ですね、先輩は。わかりましたよ、何か作ってきます」
「やった!やっぱりお花見にはお弁当だよねーっ」

 ぱん、と軽やかに手を叩く音が響く。楽しげな様子を微笑ましく見守れば、譲はそっと瞼を伏せた。
 ゆっくりとした動きだったが、朔を振り返った望美にその行為は見られていない。それにほっと安堵する前に、見られないようにと譲は眼鏡を押し上げる仕草で顔を隠した。一緒に作るから。そういってくれた人を、覚えている。

「白龍は何が好き?言ってくれたら譲君が作ってくれるかもしれないよ」
「ん・・・甘い、卵焼きがいい。譲、作ってくれる?」
「あぁ、いいよ。甘い奴だな」

 こてん、と幼い仕草で首を傾げて見上げてくる白龍は小さい。微笑みながら、この懐かしい高さに手を伸ばす。白銀の髪を撫でると、白龍は少し嬉しそうに目許を染めた。出会った頃の彼そのままだ。過ごした年月で高まったものは、この時空で全て振り出しに戻った。けれども、甘い卵焼き、と神が何故所望したのかは知っている。どうしてそんなものを知っているのか、今まで食べさせた覚えはないのに。なのに望んだ神の言葉を、そこに思い至らないのか、望美は無邪気に聞き流した。

「好きだったもんね、白龍」
「景時」
「・・・うん。ごめん」

 自分達には少し甘過ぎるきらいのあった、黄色い卵焼き。思い描くように眼差しを細めたそれを、九郎が短く遮った。含められたものに気付かないほど、愚鈍ではない。
 馴染み深くなった、眉を八の字にさせるあのどことなく情けない笑顔で、景時はそれ以上の言葉を打ちきった。
 好きだった。自分達には少し甘過ぎたけれど、だけど嫌いな味じゃなかった。甘い甘い卵焼き。
 彼女が作ったそれを、白龍は事の外好んで食べていた。食べ過ぎだよ、といわれるぐらいには。
 (かな)しい、思い出は身を苛む。ここにあの人はいない。いたはずの人は存在せず。いなかったはずの存在が、まるでそれこそが正しいとでもいうようにそこにいる。違うのに、けれど確かに選ばれた。何故、問いは白龍を悲しませた。どうしてあの子ではないの。片割れの神子は涙を零した。あぁ、けれども今目の前の全てが現実であるのだ。微妙に噛み合わない歯車。知らないもの同士、築き上げるべきそれを。かつてを知るからこそ、覚えた絶望は決して浅くない。会えない。会えない。会えない。会えない。

もう、二度と見えることは叶わないのか。

「―――・・・・」

 薄いピンクの空をリズヴァーンは見上げ、そっと手を差し伸べる。
 ひらひらと音もなく落ちた花弁は吸い込まれるように大きな掌の上に落ち、ぎゅっと拳を固めた。こんな運命は初めてだった。それでも表に動揺が出ないのは、単に経験の差というしかない。
 けれども、こんなことは初めてだ、と声もなく呟く。こんなことは初めてだ。会えないなどと。出会わないなどと。今までどれほど不毛で残酷な運命を繰り返しても。
 必ずそこにいた存在は、最早いない。代わりに、とでもいうように、それこそキラキラと輝くような娘が送られてきた。神子だよ、という白龍の決意した微笑みを忘れない。悲哀と慈愛に満ちた、諦めにも似たあの幼い貌が、忘れられない。多分、一番絶望していたのは、白龍だった。
 固めた拳を解いて、花弁を地面に落とす。向けた視線の先に、流れる藤色の髪。惜しげもなく晒されている白い足がしなやかに地面を蹴り、浮かぶ笑みははっと惹きつけられるほどに輝き美しい。――花のような、笑み。それも大輪の、眩い。
 ―――似ても似つかない、とそう思う。容姿も性格も声も仕草も何もかも。似ても似つかない。こちらの方が神子に相応しいのだろう、とすら率直に思った。
 剣の腕など比べ物にならない。才能の違いをまざまざと見せつけて、強く胸を張る少女。いつもどこか脅えていた彼女。
 このままの方がいいのかもしれない。そう一人ごちる。彼女にこの世界はあまりに残酷過ぎた。彼女に、この役目はあまりにも重過ぎた。犠牲なのかもしれない。
 重く冷たく、苦しいものを、さらになんの関係もない少女に無情にも背負わせて。犠牲なのだろう。彼女のための。
 小さく弱過ぎた、なのに中途半端な強さを持っていたために、逃げることすらできなかった彼女のために。強く輝かしく、美しい神子が舞い降りた。きっと、神子らしい神子になるはずだと。思いながら。彼女よりもずっと相応しい。きっと、ずっと。こうすれば、彼女はもう二度と苦しまなくていい。そう思えば、自分達の目的は果たされたようなものだと、思うのに。

それでも、自分達が願うのは。

 一際強く、風が吹きつける。彼等の間を、一陣の花嵐が吹き荒れるように。
 舞いあがった桜を、感嘆の声と共に望美が見上げる。見惚れるような光景に、誰もが一瞬言葉をなくして見つめた。


 それが、甘く切ない、痛みを伴った希望の前触れと、知らぬまま。