花嵐



 それは、水面に落ちた花弁のように。





 目を奪われるほどに鮮やかだったはずの光景が、その刹那に輝きを失う。
 咄嗟に振り向いた視線の先は、風に舞いあがった花弁がはらはらと舞い落ちる桜並木の連なりばかりで、それ以外に特に変わったところはない。ない、けれど。感じるもの。どんなにささやかなものだとしても、水面に落ちればどこまでも広がり伝わる波紋のように。
 放り込まれた。何かが。誰かが。―――どくん、と大きく胸の内側を叩いた心臓の叫びに、吸い込まれるように瞳は遠くを見つめる。「白龍?」と、神子が呼ぶ声がした。

「白龍、どうしたの・・・白龍?!」

 常ならば、振り返り答える声が、今は何故か遠く。騒ぎ続ける心臓に、血潮がざわざわと荒ぶる様がありありと肌の内側から感じ取れた。血潮が、沸騰したように熱く駆け巡る。きっと伸ばされたのだろう手を振り切って、無我夢中で駆け出した。
 だって、感じた。ここに、今ここに。何かが、誰かが、舞い降りた。静かだったはずの水面を揺らして。辺りに広がるように―――あまりに恋しい、何かが。
 真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに。舞い落ちる花弁を掠めて、地面に落ちたそれを踏みつけて、聳え立つ木々を擦りぬけて、奥へ、奥へ、奥へ、奥へ。
 駆けだし、息が乱れるほど。心臓が騒がしいから余計に息が切れるのも早い。それでも立ち止まることができず、いや、立ち止まるという選択肢すら浮かばずに走り続けた。ひたすらに、何かを目指して。最早周りの風景はおろか音さえも、聞こえない。唯一聞こえるのは、急かすように喚きたてる内の鼓動だけ。耳の奥から、響き渡る。全身が叫んでる。早く、早く、早く、そこに行け!
 はっ、と荒い息を零して桜並木を抜けると、鮮やかな蒼穹を映し出す湖面が風にさざめき、桜の花弁は爛漫と咲き誇る。
 その中心に、人影。少し開けた場所に燦燦と降り注ぐ陽光はキラキラと水面に反射し、余すところなくその人影を照らし出す。
 見とめた刹那、引き攣った喉が声もなく唸り声を上げたように聞こえた。こちらに背を向けて座り込む小柄な背中。見なれぬ衣服は、あぁそうだ。初めて、時空を越えてあの人の元へと縋りついたとき着ていたものだ。
 最後に見たときよりも若干短い黒髪が、ふわふわと揺れている。それも、初めて出会った頃と変わらないのだろう、と容易に想像がついた。
 どうしよう。目の奥が異様な熱を帯び始めたことを感じながら、カタカタと細かく震える指先で胸元を握り締める。
 ・・・どうし、よう。心臓が五月蝿い。目の奥が熱い。喉がカラカラに乾いて、膝がガクガクと揺れる。
 そこにいる。あの人がいる。幻のように、そこに。こちらに気付く様子もなく、へたりこんでいる背中はどこか途方に暮れているようにも見えた。
 嗚呼。本当にあなたなのだろうか。そこにいるのは夢でも幻でもなく、本当にあなたなのだろうか。近づきたいのに近づけない。寄れば消える幻のように、遠くにだけ見える逃げ水のように。伸ばした刹那に泡沫のように消えてしまうのではないかと、そんな危惧を覚えて近づけない。近づきたいのに、傍に行きたいのに。だというのに一度の喪失が二度目の喪失に萎縮を覚えてしまった。
 あぁ―――あなたの欠片だとしても、再び見えることができるとは。竦む足を動かすことがとてつもない重労働になった。こんなことは初めてだった。一歩が果てしなく重い。この一歩で全てが夢と変わるのではないかという不安が、堪らなく恐ろしくて踏み出せない。
 それでも、もしも、もしも。もしもあそこにいる、唯一の人が本当なのだとすれば。それは、それはなんと甘美で心地のよい、幸福の先触れなのだろう。
 やっと、会えるのだ。再び触れることができるのだ。愛しいひと、恋しいひと。ずっとずっと、会いたかった。希望は恐れを僅かに凌駕し、すり足のように足を一歩、本当に微々たる物だが前に動かす。
 踏みしめた砂利が微かな音をたてても、小さな背中は消えることなくそこに在り続けた。それを視界に入れた途端、何かの箍が外れたように衝動が全身を駆け巡った。
 熱く煮えたぎる、思い、感情、激情。それらに突き動かされるように、先ほどまで動かすのも億劫だった足が、馬のように跳ねた。力強く地面を蹴り、一直線に小さな背中へと向かう。瞳は最早それしか色彩を伴い映すことはなく、伸ばした腕は縋るように――確かな実感と共に、彼女の背中へと辿りついた。どんっと、あらん限りの思いと共にぶつかるようにして抱きつく。
 それでも本当に本気でぶつかってしまえば怪我をする、程度の理性は残っていたのか、辿りつく寸前の減速で彼女の体は衝撃にわずかに前のめりになったぐらいだった。ぎゅぅ、ときつくきつく、やっと辿りついた背中に離れないように、消えないように、逃げられないように。しがみつき、掻き抱いた。アァ―――本物だ。熱い目の奥が潤みを帯びる。深く呼吸をすると、ひどく懐かしい匂いが鼻腔を通りぬけて、堪らない安堵と共に焦がれる熱がぶすぶすと燻った。
 あぁ、あぁ、彼女だ。この人だ。ずっとずっと待ってた。会いたかった。神子、神子。私の神子。不意に背中の筋肉が動くのが押しつけた頬やしがみつく腕を介して伝わり、のろのろと顔を上げる。
 そうして、合わさる、瞳。大きく見開いた黒い眼差しが驚愕に揺れる。その瞳に確かに映る自分を見つけると、嬉しいのか怖いのかわけのわからない感情が溢れ、唇が震えた。――――神子。そう、声に出して呼びたかったそれは、寸前で音もなく飲み込んだ。気道が狭まったように掠れた息だけが零れ、ぐっと奥歯を噛み締める。
 それは、決して言葉にしてはならぬ思いだった。脳裏に薄っすらと笑う絶対者がいる。甘く囁くように、時空の狭間で無慈悲に告げたそれの声が脳裏に響き渡る。約束だった。いや、約束というほど温く甘やかな響きなどない。それは、神同士の密約であり、契約。
 決して破ることを良しとしない、理を守るが為の代償。破れば即ち、再びこの人は己の手から零れ落ちてしまうのだ。それがどのような形かなど、知らないけれど。

「え、な、・・・は、あれ?」

 パチパチと瞬きをしてあなたは酷く驚いた様子で口を動かす。聞こえた声に、外れた箍は壊れてしまったように思えた。
 あぁ、あなたの声だ。あなたの言葉だ。あなたの唇から零れる、あなただけの至上の音色。耳の奥に蘇る、優しげな呼び声に、声にはならなかった思いが、一層熱く煮えたぎるような双眸から、ほろりと零れた。
 熱い。ひたすらに熱かった。熔けてしまうのではないかというぐらい熱く、視界が歪み、目の前の人が朧に滲む。
 あぁ、もっとよくあなたをみたいのに!!呼びたい。確かにこの声でこの口であなたの名前を、あなたをあなただと確定する名前を。呼びたいのに。できぬ思いは涙となって絶え間なく頬を伝い落ち、困惑したようにあなたの眉を下げさせた。おろおろと揺れる視線。なんて、あぁなんて。ぎゅっと握り締めた服ごと固く拳を握り締めた。
 言葉にならない思いと、言葉にしたい名前と、ただ際限などないように溢れては零れ落ちていく激情は、歓喜に心臓を震えさせた。あぁ、お願いだよ、私の唯一。どうか、早く、早く。



 私の名前を呼んで、私にあなたの名前を、刻ませて欲しい。



 想いは確かな熱を孕んで、吐息の中に溶け込んだ。