俺を困らせたいとしか思えないな



 甘い香りが鼻を掠める。心地よい仄かな匂いに、ふるりと睫毛が震え、薄い瞼が開いていく。視界に切れ込みが入るように光が目を覆い尽くすと、やがてぼんやりと色彩が戻り形を得て、そこは変わらぬ木目の天井を映し出した。少しぼぅ、とする頭で天井を見つめるも、やがてまたふわり、と。漂う芳香に何の匂いだろう、と首を動かせば、鮮やかな朱色が目を刺した。つぅ、と視線を上げていけば、外からの光を背負う微笑みが目に入り、目を引くことこの上ない緋色の髪は柔らかくうねり、輪郭を滑り落ちていく。あぁ。

「ヒノエ・・・?」
「おはよう、姫君。よく眠れたかい?」

 囁くように吐息に混ぜた穏やかな問いかけは、無駄に甘ったるい響きを帯びてむず痒い。甘い声ってこういうことを言うんだろうなぁ、と実にわかりやすい声音にそれでもいい声だよなぁ、と思いながらむくりと体を起こした。
 ていうか皆さん、起こしてくれればいいのに何故人が目覚めるまで声もかけずに寝顔を凝視するんでしょうかね。体調が絶不調のときならまだしも、今は景時さんの結界のおかげで、部屋の中だけならば至って問題はないというのに。まぁ寝てばかりの私も問題だけど・・・なんでかなぁ。妙に眠気が襲ってくるんだよね。
 でも人の寝顔は凝視するもんじゃないと思う。ふわぁ、と欠伸を手の中で隠しながら、いささかの気恥ずかしさを押し殺してヒノエを見やれば、口角を持ち上げて相変わらずの笑みを顔中に浮かべてこちらを見つめており、頼むから少しは視線を外してくれないだろうか、とひっそりと溜息を吐いた。

「・・・何か用事でも?」
の顔を見にきただけさ。まぁ、オレにしてみれば姫君の花の顔を見に来ることは大切な用事だけれどね」
「顔を見に来ることはこの際いいとして、なら起こしてくれればいいのに・・・寝顔を凝視するのは趣味が悪いよ」

 私の顔は別段特筆することもない平凡なそれで、まかり間違っても朔や望美ちゃんや、そして君たちのような典型的美形ではないのだから、まじまじと見られるのはちょっと遠慮したい。近くで見ても綺麗だといえるような顔ならまだしも、なんていうか、本当に、毒にも薬にもならない普通の顔だからなぁ。僻みはしないが、それでもこっち見んな!と言いたくなるほどにはそれなりに引け目を覚えているんですよ。
 しかも意識のないときなんて、なにやってるか自覚がないんだから本当、見ないで欲しい。涎とか垂らしてたら普通に恥ずかしいじゃないか。
 眉を潜めると、ヒノエはにっこりと笑みを浮かべて悪いね、と別に悪いとも思っていないような調子で謝罪をしてきた。

「あんまりの寝顔が愛らしいものだから、ついつい魅入って目が離せなくてね。けど、確かに姫君の寝顔を凝視するのは失礼だったかな。お詫びに今度何かお前を飾るものを贈るよ」
「や、そこまでしなくてもいいから」

 相変わらずサービストークとでもいうべきか、よく口の回る男だこと。ぞわっといささかの鳥肌を立てつつも、さらりと高価なものを贈りつけてきそうなヒノエに断りを入れつつ、ゆっくりと視線を動かした。ヒノエを通り越して御簾の向こうを見やれば、いくらか橙色の色味が強くなった光が上げた御簾の下から零れるように差し込んでいる。
 あぁ、もうそんな時間になっているのかと思いながら更に視線をさ迷わせると、ヒノエが笑みを引っ込めて怪訝そうに首をかしげた。

?オレを見ないで他所を見るなんて、そんなに気になるものでもあったのかい?」
「え?あぁ・・・気になるっていうか、ごめん。気に障った?」

 話していたのにいきなり視線を外されては良い気もあまりしないだろう。はっと気がついて眉を下げれば、ヒノエはいいや、と軽く首を横に振って、それから問いかけるように瞳を細めた。

「何かいるものがあるなら持ってこようか」
「あ、別にそういうことじゃなくて・・・匂い、が。なんの匂いかなって思って」
「匂い?」
「うん。さっき起きるときにね、いい匂いがしたから・・・何かの花の匂いかと思ったんだけど」

 しかし、部屋にはそんなものはないし、ここからでは庭の様子も逆光になってうまく見えない。それに、特別風が吹いているわけでもないし、外からの匂いが中に入ってくることもなさそうだ。一体なんの匂いだったのだろう。首を傾げれば、ヒノエはあぁ、と得心がいった、とでもいうように一つ頷き、すっと肩にかけていた上着に手を触れた。

「それはきっと香だね」
「香?・・・ってことは、ヒノエから?」
「そ。嗅いでみる?のお気に召すなら光栄だけど」

 そういって、肩から上着を外しこちらに差し出してくるヒノエに、一瞬躊躇うも、まぁ別に匂いを嗅ぐぐらい・・いやいや可笑しくね?絵的に可笑しくない?と、思ったがうっかり受け取ってしまったので、仕方なく顔を寄せてくん、と鼻を動かした。その瞬間、ふんわりと鼻腔を抜けたのは、優しく、甘い、けれど甘すぎない、仄かな香り。あ、と瞬きをして、口元を緩めた。

「・・・いい匂い」
「気にいって貰えてよかった。その香を焚き染めた甲斐があるってもんだよ」
「本当にいいね、この匂い。私好きだなぁ」

 言いながら上着を返して、上着を羽織るヒノエにこいつ本当なんでもそつなくこなすなぁ、と内心の感心をほっと吐息に混ぜて外に吐き出す。
 恐らく、この香だってヒノエが自分で合わせたものなんだろう。強くもなく、癖もなく、ただすんなりと僅かに香る香りは品良くヒノエを飾り立てて嫌味がない。いや存在自体が狙い済ましたかのような気はするけれども、それはまぁしょうがないとして。
 そうか、起きるときの香りはヒノエからのものだったのかぁ、と疑問が解けてすっきりとすると、ヒノエはくすり、と笑みを零した。

「そんなに気に入った?」
「うん。すごいね、ヒノエは。なんでもできて」
「これでも試行錯誤して作ったんだぜ?はどんな香りが好きかな、って考えて作ったんだ。気にいって貰えてオレも安心した」
「へー」

 うん。まぁ、話半分に聞くとして。適当に聞き流すと、聞き流されたのがヒノエにもわかったのか、信じてないね、と肩を竦められた。いや、だって。仕方ないと思う、これは。
 あはは、と笑って誤魔化しながら話題を変えるようにそうだ、とちょっとわざとらしく声を出した。それにヒノエはあえて今回は絡んでくることなく、ん?と語尾をあげて先を促してくれる。よかった、話に乗ってきてくれた。ほっとしながら私はヒノエの上着の端を持ってつん、と引っ張った。

「この香って、寝るときによさそうだよね」
「これが?」
「うん。なんていうか、違和感なく溶け込むっていうか・・・まぁ、いい香りってそれだけで落ち着くと思うんだけど」
「確かに。良い香りは気を落ち着けてくれるからね」
「そうそう。だから寝覚めもよかったんだよねぇ。ここ最近あれでしょ。穢れのせいであんまり体調よくないし・・・夢見もよくないし」

 しかし、今日はあの悲しいほどに痛ましい泣き声も呼び声もなく、穏やかな気持ちで寝れたのだ。いや、多分最初は、妙な重苦しさを感じていたと思う。確証はないが、けれど途中からそういったこともなく寝られたような気がするので、もしかしてこの匂いがあったからかなぁ、とか。思ったり?とはいっても全部曖昧なのではっきりとは言えないが。
 てかそうなるとヒノエいつからいたんだよってことになるな。・・・あまり長時間じゃないといいなぁ。そう思いながら、早く穢れ取れないかなぁ、と愚痴のように零せば、ヒノエはくっと口角を持ち上げた。

「もうすぐ、全部終わるさ。オレも早く陽の下での元気な姿をみたいからね。中でひっそりと過ごす様もいいけど、やっぱりには陽の下が似合うよ」
「私も早く外に出たいなー。部屋が苦痛なわけではないけど、やっぱりちょっと、ねぇ」

 飽きるっていうか。嫌なわけではないけど、ネットもパソコンもない状態で延々といるには、飽きもくるというものだ。苦笑を浮かべ、伸びをする。うん、と背筋を伸ばすとバキバキ、と物凄い音がして、私はどんだけ・・・と思わずがっくりくる。花の十代の音じゃねぇ。
 いや、まぁ、ずっと寝たらそら骨も鳴るよね!・・・室内でできる運動って何かあったかな・・・。とはいっても動けば動いたで見つかったら強制的に布団送りにされるしなぁ。
 景時さんの結界があるんだから大丈夫だってのに。リズ先生だって手伝ったっていうんだから、いくら1と2の陰陽師に劣るとはいえそれなりに効果的だと思うのに。
 しかし、そこまでしてもらう人間なのか、とも思うけれど。うん。ヒノエ含めみんな過保護だよねぇ。
 ふぅ、と肩から力を抜くと、それを見計らったようにヒノエがくすくす、と笑みを零して、ばさり、と頭の上に何かをかけてきた。一瞬視界が真っ暗に遮られて、わっと驚きの声が飛び出す。

「な、なに?!」
「ふふ。また明日、その香を持ってくるよ。代わりといっちゃなんだけれど、今日はそれを夢の共に連れて行ってくれないかい?」
「夢の共って・・・え、ちょ、これ?」

 慌てて頭の上から退かせば、それはヒノエが肩にかけていた上着で、見上げればすでに立ち上がったヒノエが上着を持たぬまま、やんわりと笑みを浮かべていた。
 えぇ、ちょ、そんな!

「いやいやいいよそんなの。別にすぐいるわけでもないんだし、また香の元?でも持ってきてくれるならそれまで待つよ?」
「その待つ一日でさえ、の眠りを妨げることがあるだなんて許せないからね。オレ自身が一緒にいてあげられないのが残念でならないよ・・・本当はこんな着物じゃなくて、オレが一晩中傍にいて、お前を悪夢から守ってやりたいぐらいだ」

 いや、それは心から遠慮する。「オレがいれば、お前に指一本触れさせないのに」なんて、囁きながらすっと伸びてきた手が髪を一房手にとり、腰を曲げて口元を近づけるヒノエにうわぁ・・・と内心で絶句して顔を強張らせる。お前、囁きレベル今いくつだ。
 無駄に声に艶があって色んな意味でドキドキするだろ!それがドン引きの意味なのか恥ずかしい!!っていう羞恥心なのかは明言しないが、しいていうなら他所でやれ、だ。
 返事に困りながら、上着を膝にかけたまま、私はしばし考え込んで仕方なく溜息を吐いた。

「・・・一日だけ」
「うん?」
「一日だけ、借りるよ。明日にはこれと同じの、持ってきてね」
「・・・あぁ。勿論。約束するよ」

 ここは遠慮するよりざっくりと受け入れたほうが早い。なんか上着借りるとか妙な感じだが、まぁ、深い意味があるわけでもないだろうし、あまり気にしていても仕方ない。
 諦めたように肩から力を抜き、見上げながら言えばヒノエはふっと吐息を零してするりと髪を撫でるように手放した。
 ぱさりと頬を打った髪が滑ると、また来るよ、といってヒノエが背中を向ける。その背中を見送っていると、入り口近くで足を止めたヒノエがあぁそういえば、とくるりとこちらを振り返った。うん?

「オレと同じ香りを纏いたいなんて、も積極的だね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 パチン、とウインク一つ飛ばして、ひらひらと片手を振って消えたヒノエにポカンと口をあけて呆けると、徐々に言われた意味を理解して、うわぁ・・・と顔を掌で覆った。
 ・・・・・・・・・・・・・私、普通に恥ずかしいことしたのかもしんない・・・・。言われなければ気づかなかったものを、と。多分確信犯的にからかったのだろうヒノエに、恨み言をぼやいた。