おはよう、と世界が言った



 見知らぬ人、見知らぬ少年、見知らぬ姉、そして人語を介す亀。
 窓から見下ろした世界はひどく懐かしく、記憶の奥底を揺さぶって熱いものをこみ上げさせる。
 だけど素直に泣けないのは、ここが私の世界ではないだろうから。どんなに似ていても、ここは私のいた世界ではなかった。勿論、眠る直前までいた世界でもない。ここは別の世界。
 私にとって、何度目かわからない未開の世界。見知らぬ、けれど何故か納得を覚えるような、そんな奇妙な違和感を覚える家族と過ごすのだろう、世界。
 あぁ―――私は、幾度。瞳を閉じて、息を吸った。
 そこは、新しい世界。





 目が覚めたら見知らぬ天井ってまたなんていうドッキリなのだろうか、これは。寝ている間に場所でも移動されたのかな。よく起きなかったなぁ私。よっぽど熟睡していたんだろう。そんなことをぼんやりと考えて、白い天井ではなくて木板の繋ぎ目も目新しい天井を見つめながら、首を動かして周りを眺める。
 枕の上でサリサリと髪が擦れる音が聞こえ、視界に入った室内の様子に眉を潜めた。・・・誰かの私室だろうか。壁に面するように置かれた机は小学生に上がる頃買ってもらう勉強机みたいな、というかむしろそのまんまの様子で真新しくそこに存在し、少し視線をずらせば小さなインテリア用の収納棚がぽつんとある。中身はあまりないようで、これから詰め始めるのかガランとしていた。けれど唯一つ、やけに目に付くのは大層古めかしくも、立派な装飾の施された丸い手鏡に、その横に置いてある舞扇の存在だ。
 それらはたった二つしか存在していないのに、それだけでこの室内で異彩を放っていて、なんとも場の雰囲気に合わないというか、リビングでも応接間でもない、恐らくは個人の私室に置く類の置物ではないことは明白だった。何故あんなチョイス?あの鏡相当な年代物じゃなかろうか、と思わず頭の中で算盤を弾きそうになった。
 目に付く置物といったらそれぐらいで、大層殺風景な部屋である。なんだここ、と改めて思うとゆっくりと体を起こした。・・・起き上がれた。そのことに驚いて、ぎしっとベッドのスプリングを軋ませて腕を動かす。まじまじと腕を見詰めて、軽く手の握り締めを繰り返した。
 動作が酷く軽い。痺れるような鈍さも感覚が麻痺していくような頼りなさもなく、極々自然に動く手足にある種の感動を覚えて、私はちょっと呆然とした。どんな奇跡が起こったのだろう。絶対助からないと思っていた。助かるはずがない。そういう状況だった。それは間違いないはずなのに、一体どうやって。寝て起きたら治ってた?そんなまさか。そんなことがあるのだろうか。自分の身に起こったことが信じられずしばらく呆けていたが、やがて嬉しさがこみ上げてきて、震える手で胸元を握り締めた。
 体が動く。意識が冴え渡る。動ける、動ける、生きている。生きている!あぁそんな、嘘だ、そんな奇跡が、まさか本当に?わが身に起こった出来事に驚嘆と猜疑心に駆られつつ、押し殺しきれない喜びに胸が震える。だって、あぁ、ならば、それならば、私は、あの人に、

「先生」

 会いにいきたい。自分の足で、動いて、会って、謝って、怒られて、いや怒られたくはないな。・・・まぁでもそれは避けられないことだろうしな。いやでも嫌だな・・・だって絶対怖いよね・・・どんな無茶ぶりされるかな・・・アレンほどどぎついことはされないと思いたいが、正直やらかした事が事な分、先生の反応の想像がつかなくて怖い。
あぁでも会わない、という選択肢もないのだ。だって、そう、生きているのなら、それだけで。私はきつくパジャマの胸元を握り締めながら深呼吸をした。あぁ、どうしよう。突然与えられた開放感に戸惑いを隠しきれず、どくどくと跳ねる心臓を持て余しながら、私は恐る恐る上にかかる布団を退けて床に足をつけた。ひんやりとしたフローリングの感覚がなんともいえない。・・・そういえばここ本当にどこなんだろう。病院でもなければ施設でもなく、なんで普通の家のような場所で寝てるの?運ぶにしても奇妙すぎる場所に首を傾げて、なんだか妙な予感が脳裏を横切るが、あえて頭を振って懸念を追い出した。・・・とりあえず、外に出て確認しよう。誰かはきっといるだろうし、いなくても時間が経てば一人ぐらい顔を見せるはず。・・・まあ、そもそもアレン達が私を放っておくとも考えにくいのだが、奇妙な状況に不安は消しきれない。・・・マリアン先生も、どこにいるだろう。早く会って、話したいのに。
 間際まで側にいた人を思い描いて、吐息を零すと軽く俯いた。さら、とその拍子に髪が流れて顔の横に落ちる。長い髪はいささか邪魔で、反射的に退けようと手をかけると、ぎょっと目を見開いて息を呑んだ。ひゅっと呼吸が一瞬止まったようにも感じた。

「え、な、・・・え?」

 なんか、すごく、髪がキラキラしてるんですけど・・・?ぼんやりと外からの光で明るい室内で、淡く透き通るように輝く髪に目を丸くして、思わず鷲掴みにして目の前まで持ってくる。
 え、ちょっと待ってなにこれ?すごい客観的に眺めたことのある色ではあるけど、えぇ、まってこの視点で見たことないよねぇちょっと。
 誰に問いかけているわけでもないが、混乱しながらも少し強く髪を引っ張ってみた。地味に頭皮が突っ張って痛かった。・・・てことはこれ、一応、私の頭にくっついてるんだね。生えているとは認めたくないなぁ、と思いながら一本だけ髪を取って引っ張る。ぷちっと音がして引き抜かれた。やっぱり地味に痛いよなぁ頭皮。というか、今確実に抜けたよねぇ。うわぁ、てことはマジでこれ私の頭から生えている髪なんですか、この銀髪。でも白っぽいというか、アレンとか白龍の髪の色に近いかなぁ、と思うんですよ記憶にある色を見る限り。だから正確に言うと白銀?
 ・・・えーっと。なんだ。実は私ものすごく長いこと寝ていたのかな?植物人間状態だったとか?有り得る。むしろその可能性しかないかもしれない。ということは今凄い元気だけど体は相当年取ってるのかも。え、ってことは先生はどうなってるの?え?それは想定外だぞ??いやそれにしても体の節々はスムーズに動くというかむしろ瑞々しい、・・・手?
 ふと自分の髪を握りしめている手を見つめて、違和感に眉を潜める。年老いているとは思えないほどにハリのある肌艶は、私の長期間昏睡説を払拭するものではあったが、それにしても、何かが可笑しい。私の手は、これほどまでに小さかっただろうか?私の手は、こんなにも、瑞々しかっただろうか?・・・だって、私、は。

「あああぁぁ・・・わけわかんない・・・っ」

 握り締めていた髪を離して頭を抱え込み、私の髪の色素はどこへ行ったーーー!と内心で叫んだ。なんで白銀?!なにこの髪?!奇跡の生還を果たした代償かなんかですかこの野郎ーー!!!なんか体も可笑しいしーーー!!なんなのもーーーー!!!

「うぅ・・・私の黒髪が・・」

 これはショックだ。なんか色々とショックだ。でもとりあえずこのことは一旦横に置いておこう。落ち込みながらも、あの鉛のように重かった体が自由に動くという感動に打ち震え、顔をあげると不意打ちですっと襖が開かれた。・・・・ホワイ?
 あまりにも不意打ち過ぎて碌な反応もできないまま、開いた襖の向こう側を見る。襖が開いたからには、そこには勿論人の力というものがかかっているわけで、つまり襖一枚隔てた向こう側には勿論人が立っている。それがマリアン先生なりアレンなりリナリーちゃんなり、見知った人物であれば私はさほど驚かなかっただろう。むしろ嬉しくなって名前を呼ぶはずだ。そして満面の笑みで歩いて側に寄ったりもするかもしれない。まあその前に相手がなんらかの反応を返す可能性もあるわけだがさておき。こう言うからには、目の前に現れた人物は決して私が見知っている人ではなかったのだ。
 しかしなんだか見覚えがないわけでもなさそうな気がするのは何故だろう、と思いながらも眉間に皺を寄せて僅かに腰を引かせた。すらっと高い背に、短い青い髪、金色の瞳。目鼻立ちのバランスもよく、文句のない美形である。思わず背後から後光がさしているぐらいイッケメーンである。・・・うん、割と物理的に光ってたりするのはあれですがあれなんかこの白い光知ってるぞ?年はそれなりに重ねているのだろう。まあでも、まだ若いな。けれど落ち着いた雰囲気と共に纏う空気は優しく穏やかで、第一印象は悪い人ではなさそうだ、というもの。
 けれど見知らぬ他人なのは確かで、しかしなんかこう、顔の作りというかがどこかで見たこともあるような気がするのも確かで。・・・ていうか誰よこの人。上から下まで視線を走らせ、格好は普通のシャツにズボンというまったく普通の格好なので怪しむところがない。しいていうならお前青い髪とか普通ねぇよ、とか、金の目ってすごい色だな、とかそんなところが怪しいと思うが、すでに色々と非常識な色彩を目にしてきた身。一々驚いていられない。ていうか髪の色に関しては自分の髪にカルチャーショックを受けたところなので結構どうでもいい。ポカン、として襖を開けた男の人を見つめると、その人も同じく目を見開いていて、けれど数度瞬きをするとほっと安心したように顔を綻ばせた。

「よかった、。目が覚めたんですね」
「え?」

 声をかけられ、それが酷く親しい人物に向けられるような気安さを感じて私は一層目を丸くした。・・・日本語だ。日本語だよ英語じゃない・・・!うわ懐かし!!と思いながら、咄嗟に反応ができずひどく間の抜けた返事を返してしまった。
 この人、私のこと知ってるの?知り合い?いや私にそんな記憶は一切ないぞ。えぇ?混乱して呆然としている間に、男の人は襖を後ろ手で閉めて部屋の中に入り、ベッドの端に座り込んで言葉をなくしている私の側までやってきた。ギクリ、と肩を震わせてぎゅっと拳を強く握り締めると、男性は視線を合わせるように私の前に膝をついて、そっと手を伸ばしてきた。ぎゃあ、という内心の悲鳴は届かず、硬直しているとさらり、と額にかかる髪を軽く横に流された。優しい手つきに少しほっとしながらも、警戒心を引き上げて男性を見る。本当に誰なんだこの人。

「もう長いこと目を覚まさないものだから、心配しましたよ。あぁでもよかった。どこか具合が悪いところはありませんか?」

 ・・・・・・・・・すっげぇイイ声だこの人!!ていうかちょ、おま、その声私聞いたことあるーーー!!どっかで聞いたことあるーーー!どこだっけ?!誰だっけ!?あぁなんか、こう、喉まで出掛かってるのに出てこないもどかしさが!そんな焦燥にかられつつも、私は動揺も露にどもった。

「い、え・・・あ、あの」
「はい?」

 安堵に目を和ませながらも、気遣うように言葉を重ねられていささか居心地が悪い。初対面(と、思われる)相手に、なんでこんなに親しげにされているのだろう私。疑問は疑問を呼び、そして再び頭をもたげ始めた違和感にそわそわ落ち着かない気持ちになりながら、おずおずと上目に男性を見やる。上目遣いに見れば、彼は軽く小首を傾げて瞳を細めた。本当に、悪い人には見えないん、だけど・・・。

「あなたは、誰ですか・・・?」

 知り合いだったらすげぇ失礼なこと聞いてるよねぇ、と思いながらも聞かずにはいられないこの問い。しかしながら、どう記憶を浚っても目の前の人物に繋がるようなものはなく、完全なる初対面の赤の他人のはずなんだけれど、と唾を飲み込めば、男性は目を見開いて、次いでどこか寂しげに微笑んだ。
 それがあまりにも、切ないような、遠い何かに思いを馳せるような、そんな寂しさを含んだものだったから、思わず息を詰める。彼はその寂しい微笑みのまま、そっと膝の上においてある私の手を取って、視線をひたりと合わせた。

「俺は風早といいます。あなたの従兄弟にあたるんですよ。他にも那岐という男の子と、あなたのお姉さんの千尋もいます。今日から、ここで俺達3人と一緒に暮らすんですよ」
「・・・・・・・・・・はい?」

 ちょっと待て。なんだその設定。視線をひたりと合わされ、穏やかに、子供でもわかるような優しげな口調で告げられて、一瞬私の頭はフリーズした。ワ、ワンモアプリーズ?って言いそうになったぐらいだ。ちょっと待てちょっと待てちょっと待て。うん?私に従兄弟なんていたか?ていうかいないよ。だって私あの世界に身一つで飛ばされたんだよ。その前にまず彩雲国で肉親はほとんどいなくて天涯孤独の身の上みたいなものだったしね。従兄弟なんているわけねぇだろ!!なんでこの人、そんなこといきなり言い出すんだ?!パチパチとしきりに瞬きを繰り返して反応に困っている私に何を思ったか、風早、さんは落ち着かせるように瞳を細めて、微笑する。うーん。やっぱり美形だ。

、落ち着いて聞いてください。最初は信じられないかもしれませんが、これから話すことはとても大切なことなんです。・・・いいですか?」
「はあ・・」

 人を安心させるような穏やかな笑みを消して、真面目な表情を作って下から見上げてくる風早さんに思わず生返事を返して首を傾げた。
 いや、だって・・・なんか展開についていけないというか、わけがわからないというか、なんか可笑しなことになってるぞ、というか。嫌な予感がすごくする、と思いながらも、話を聞かないわけにもいかずに、私は大人しく口を閉ざした。
 そんな私の頭を風早さんは撫でて、そしてゆっくりと口を開く。滔々と語られる内容はあまりにも非現実的過ぎて、作り話のような気さえした。だってそんな実感が私にないのだから当然だろう。私と彼は従兄弟で、もう一人従兄弟がいて、私には姉がいて。両親は2人とも事故でなくなって、その時のショックで記憶をなくしてしまったとかどうとか。両親の代わりに、風早さん・・・目の前の人が、私達を預かって一緒に生活をしていくだとかどうとか、そんな馬鹿なと言い張りたい。嘘を吐くなと言いたいけれど、真面目な顔にそれもできず、困惑を益々強くさせて、私は胸に過ぎる一抹の不安にぎゅっと風早さんに握られている手に力を込めた。それに気づいた彼が、安心させるように手を握り返して微笑むのに、余計に不安と危惧を覚えながらも、言葉にできずにもどかしく唇を震わせる。
 そんな話、作り話だろう。記憶喪失?そんな馬鹿な、都合のいい話があるわけがない。だって私には記憶がある。ここではない別の場所の記憶。起きる前までの、眠りに落ちるその瞬間まで何をしていたか、こんなにも鮮明に覚えているのに。
 それなのに、彼の話の全てを否定もできない。だって、あぁ、そうだ、だって可笑しいのだ。私の体はこんなに小さくなかったし、髪の色だって変わっているし、わざわざこんな部屋を、あの人達は用意するはずもない。
 それでも信じたくなくて、可能性を否定したくて、何かを言おうと思うのだけれど。
 はくり、と僅かに唇が震えるだけで、私は何も、言うことが出来なかった。