きっと、何かが始まる。
赤い夕陽を見ていると、何かに急かされているようだ、と彼女は言った。それを聞いて、私は同じように赤く燃える夕陽に目を細めて見やりながら、そんなの、と内心で呟いた。
「ろくでもないことに、決まってるよ」
それは多分、私にとって望むものではないのだと、経験上から知っていたから。だからこそ、飽きることなく、何かに囚われるように夕陽を見つめる彼女と夕陽から視線を外し、くるりと背中を向けた。夕陽から背けた空の端は、ほんのり藍色に染まっていて、キラキラと、星が煌いていた。
星が、煌いていた。
※
教科書の中でも少しだけ分厚い国語の本、漢字の書き取り用のドリルに、算数の教科書、理科と社会も詰め込んで、今日は図画工作もあったから図画工作の薄っぺらい教科書、それから教科分ある書き取りノートに一番最後にA4サイズの学校からのお知らせや宿題のプリントが挟まったクリアファイルを揃えるようにしてランドセルの四角い空間に押し込んだ。昨今のランドセルはA4サイズのファイルもすっぽり入る大き目設計なのでありがたい。昔はサイズが合わなくてちょっと曲がってたんだよね、ファイルとかさ。最後に教科書を詰め込んで出来た隙間に細身のペンケースを押し込んだ。
やけに大きなペンケースにたくさんの種類のカラーペンを入れている子もたくさんいたが、正直必要最低限ありゃいいだろ、と個人的に考えていると、周りとは有り得ないほど小さいペンケースで事は済んでいた。昔、それこそ真っ当な小学生から中学生ぐらいの時まではごちゃごちゃ入れていた気もするが、この年になると荷物を軽くすることを第一に考えてしまう・・・。周りから「本当に必要最低限だね」と言われることももう慣れた。よいしょ、と中身が詰まってずっしりと重たいランドセルを背中に背負い、今日は早めに帰って晩御飯の準備をしないと、と顔をあげた。
「あれ、葦原さんもう帰るの?」
「うん。今日は当番の日だから」
「大変だねー。私ならやんないよ」
「少しは手伝ってあげたら喜ぶと思うよー。じゃあね」
「ばいばーい」
ランドセルを背負い、教室を出ようとすれば中で会話に勤しんでいたクラスメイトに話しかけられ、軽く言葉を交わして手を振る。同じように手を振り替えされ、また明日、と最後に言い残すと教室から廊下に出た。何人ものクラスメイト、あるいは違うクラスの子たちと擦れ違いながらリノリウムの床を進み、階段を降りて靴箱までくると上履きを脱ぎ、外靴の代わりに下駄箱に収めた。外靴を地面において、足を突っ込む。とんとん、と地面で爪先を軽く叩いてすっぽりと足を納めきると、下駄箱から外に出て運動場に出る。男の子達が元気よく駆け回っている様子を視界の隅にいれながら校門近くまでいき、そっと植木に向けて声をかけた。
「水樹、帰ろう」
言いながらしゃがみこみ、手を差し伸べれば植木の陰からのそりと小さな亀が姿を現し、疲れたように溜息を零す。亀のくせに、という常識は最早あってないようなもの。差し出した手に手足の先の固い爪の感触がちくちくと当たり、少しだけくすぐったくも感じた。ひょい、とさして重みの感じない水樹の体を持ち上げ、定位置の肩に移動させながら、歩き出す。
「いつも思うけど、学校までついてくる必要ないんじゃない?結局中までは入れないんだから」
「私が好きでやっていることだ。今の世の中、何が起こるかわからないからな」
「まあ確かに物騒だけど・・・水樹がそれでいいならいいんだけどね」
でも一応この子、陸じゃなくて水生の生き物だよね?長時間外に放置していていいものなのだろうか。まあ、もしかしたら勝手に水辺にいっているのかもしれないし、そこまで心配することもないのか?学校に動物を堂々と連れて入るわけにもいかないから、苦肉の策としてこのような形をとっているのだが、果たして本当にこれでいいのかと、何度目かの疑問を覚えて首を捻った。
定位置の肩の上で、バランスを崩すこともなく収まっている水樹は至って平然としていて、内心でなんだかなぁ、とぼやく。まあ喋っているだけで非常識なんだし今更か、と流すことにして、家の玄関の鍵を開ける。
鍵穴に無造作に突っ込んだ鍵を捻り、開いたドアの向こうは外よりも少し薄暗く、ガランとして人気はない。当然だ。この家にいるのは今の私よりも年齢が上の人ばかりで、まだまだ帰宅するには早い時間だ。
「確か姉さんと那岐はテスト週間中だったっけ」
それに合わせて風早もテスト問題を作るのに夜遅くなっているから、彼らが帰って来るにはまだまだ時間がかかることだろう。好都合だ。靴を脱いで揃えながら、テスト週間、なんて懐かしくも地獄な響き、と口角を持ち上げた。最早何年前の話になるのだろうか。私がまだ真っ当な高校生をしていた頃の、あのやってられるか!とばかりの日々。一番やってられなかったのはテスト当日だが、その前日とか中々最悪だったよねぇ。せめて赤点がなければいいか、ぐらいで乗り切っていた節もある。いやそこそこ頑張ってたけど。
今千尋姉さんと那岐はその面倒くさいこと極まりない、テストなんかなくなっちまえ、と半ば本気で思っていた時期を経験しているのだ。・・・考えれば本当小学生って楽な時期だよねぇ。テストはあるけどさほど難しくないし、テスト週間なんてものがあるわけじゃないし、時間の融通も利くし小難しいことなんてほとんど何もないし。
でも一番楽しいのは高校時代だよね、とぼやいた。自室にランドセルを置き、宿題に手をつけようかと一瞬迷って、その前に夕食と洗濯物を取り込まなくては、と踵を返した。雨が降る様子も欠片ともない快晴を見上げて、手早く洗濯物を取り込んでからリビングに籠ごと放置する。・・・畳むのは後にして、晩御飯を先にやっつけてしまおう。そう思い、エプロンをつけてキッチンに向かい、冷蔵庫から食材を取り出してじゃっじゃーん、と肩の上の水樹に見せてみた。
「見てみて水樹。牛タン!」
「昨日買っていた奴か?」
「そうそう。いやータイムセールで安くってさ、思わず買っちゃったんだよねぇ。なので今日は牛タンシチューです」
豪華だよねぇ、と笑いながら昨日の内に下ごしらえを済ませておいた牛タンを鍋にたっぷりの水をいれて火にかける。偶には凝ったものが作りたくなるっていうか、牛タンを柔らかく煮込むのには時間がかかるのだけれど、圧力鍋があるから割と時間は短縮できるし。現代機器って超便利。コンロだから火加減も楽にできるしねぇ。そんなことを考えながらお湯を沸騰させるまでに野菜を食べやすい大きさにゴロゴロと切っていき、沸騰したお湯に牛タンと一緒に投入。蓋をしてとりあえずこれでしばらく茹で続ける。ぐつぐつぐつぐつ。柔らかくなぁれ。
「煮込んでる間に洗濯物でも畳もうかな」
「それぐらい奴等にさせたらどうだ?」
「んーでも姉さん達もやることあるだろうし。この中で一番暇なの私だから」
「・・・そういって、一番忙しなく動いているように私は思うが」
「そうでもないって、これぐらい」
あの日々に比べればどんなに楽なことか。人間の体だったら恐らく眉間に皺を寄せているのだろう水樹に、けらけらと笑いながら取り込んだままの洗濯物の入った籠を引っ繰り返し、手早く畳んで重ねていく。
溜息を零して水樹が肩の上から降りて、ずるずると籠の中から風早の衣服を咥えて引っ張ってきた。そのまま器用にも体全体を使って洗濯物を畳み出すのに、これをビデオで録画して投稿したらなんか賞金貰えるかな、と考えた私に罪はないはずだ。それなら喋れる亀、という方が名も売れるというものだが、そこまで騒がれたくはないので家事手伝いをする亀でどうだろう。ビデオカメラどこにあったかな、とちらりと考えながら洗濯物をさっさと畳んで、時計をみる。そろそろいい感じに茹で上がった時間だろう。洗濯物を重ねて脇に置きながら、ふんふーん、と鼻歌を歌ってキッチンに戻る。ぱかっと蓋をあければぶわっと沸き立つ湯気。熱気に僅かに眉を潜めた。
「うわ、熱っ」
「大丈夫か、」
「ん。平気」
ぱたぱた、と顔に纏わりつく湯気を払いながら、煮汁を牛タンが見えるぐらいまで取り除いていく。そして取り出したるは赤ワイン。風早に頼んで調理用に買っといて貰ってたんだよねぇ。うちの家でお酒を飲む人はいないのがなんだか新鮮で、滅多に減ることのない赤ワインにあの頃が懐かしい、と目を細めた。
ほぼ一日でなくなっていたワインの瓶。無論ワインどころじゃなくその他諸々、数日もかけずになくなっていくことなんてザラにあった。そんな昔を思い出しながら、鍋にワインをとくとくとく、と注ぎこんで再び火にかける。火の強さは弱火ぐらい。ぐつぐつぐつ、三十分ぐらいかなぁ?時計の針と見比べて首を傾げた、その一瞬の後に、後ろを振り返る。特に何か物音が聞こえたとか、そういうわけじゃない。そういうわけではない、けど。
「・・・・・気のせい?」
キッチン越しに見えたリビングには私以外に人がいるわけでもなく、無音のテレビに、誰も座っていないソファ、食事を取るためのテーブルと椅子、壁際の棚と小物が相変わらずの様子で静かに佇むばかりで、何一つとして代わり映えはしない。
ぐつぐつと煮立つ音をたてる鍋と、チクタクという秒針の音が一瞬室内の音を全て支配して、私は怪訝に眉を潜めた。・・・なんだろう、今、何か、空気が変わったように感じたんだけど。奇妙な違和感。変わり映えのない風景のはずが、小石が投げ込まれた水面のような、さざめく広がる何か。ざわざわする。首筋の産毛がチリチリと逆立つような感覚に、咄嗟に首に手をやって撫で付けながら、なんだろう、拳を握り締めた。
リビングから見える、カーテンのかかってない窓の外が、鮮やかな茜色に染まっていて、ぞくりと背筋が粟立った。
「水樹、」
「――」
妙な不安感を覚えて、咄嗟に肩の上の水樹の名前を呼べば、それを遮るように水樹が口を開く。思いのほか強張った真剣な声音に、咄嗟に口を噤んで首を傾げれば、にゅっと首を伸ばした水樹の、金色の虹彩が私を見つめていて、やんわりと口を開いた。
「用を思い出した。少し外に出てくる」
「え?こんな時間に?・・・ていうか用って?」
「なに、簡単な用だ。そろそろ千尋達も帰ってくる頃だろう、案ずることはない」
「珍しいね、水樹が外に用があるなんて」
「偶には、な。すぐ戻る。心配はいらぬよ」
滅多に側を離れない水樹が、自ら側を離れるという。学校でさえついてくるというのに、どうしたことかと思わないでもなかったが、水樹も水樹なりの事情があるのだろう、と納得して笑みを浮かべた。
もしかしてこの肌のざわめきと何か関係があるのだろうか、と思わないわけでもなかったが、緩く頭を振ってその考えを追い出す。――考える必要は、ない。
「気をつけてね」
「あぁ。行ってくる」
水樹が首を伸ばし、顔を近づけてほんのりと頬に冷たく硬い感触が当たる。くすぐったさに首を竦めながら、玄関までついていこうか?と問いかけたが、必要はない、と言われたからには無理強いできない。
肩の上から下ろして見送り、一体どんな用だろうなぁ、とのほほんと考えて再び意識を鍋に戻した。ふぅ、と思わず溜息が零れる。なんだろう。
「・・嫌な、予感がする・・・」
こういう妙な予感があると、決まってろくなことにならない、と体験しているだけに非常に複雑な問題だ。かといって、考えてわかるものでもなければ、そういうものに限って回避できないことの方が多くて、不安が尽きない。
ぐつぐつと煮え立つ鍋の中身をぐるりとかき回して、頭痛のしそうな眉間を指先で押さえた。
「・・・変なことにならないといいけど」
果たして、その願いがまともに叶えられたことがあっただろうか。
そんなあまりに虚しい過去にはあえて目をそらし、今度こそ、と頼りない神頼みをすること幾度目か。お願いだ、日常のミラクルは喋る亀ぐらいで打ち止めにして欲しいんだ。なんならこのタンシチューを捧げますので、お願いですから私の平穏守ってください。
だが断る。
そんな声が、聞こえたわけではないけれど。