きっと、何かが始まる。
ぐつぐつと煮込まれるシチューの香りが仄かに鼻腔を刺激する。その煮立つ鍋の横で赤と黄色のミニトマトの中身を刳り貫いて、中に特性タルタルソースとシーチキンを和えたものをスプーンの先を使って詰めていく。大きなトマトでした方が作業はとても簡単だが、一口サイズで食べやすく、となればやはりミニトマトがいいだろう。見た目も可愛いし。刳り貫いたトマトの中身は後でシチューの中に投入する予定だ。ミニトマトの中身だからさほど味に変化はないだろうが、捨てるのも勿体無い。隠し味とでも思えばいいんじゃないか、という程度である。赤と黄色のカラフルな色彩を目で楽しんで、レタスを手で千切って大皿に敷き詰めていく。小皿でそれぞれ、という手もあるけれど、面倒なので大皿一つで十分だろう。洗い物も減るし。敷き詰めたレタスの上にこんもりとミニトマトを乗せて、サラダ完成。カウンターにできた皿を置くと、玄関の方からがちゃっとドアが開く物音がして、リビングの入り口に視線を向けた。ぱたぱたぱた、とスリッパの足音がしてそう時間も経たずに見慣れた顔がリビングに入ってくる。
「ただいまー」
「ただいま」
「お帰り、千尋姉さん。那岐」
まさしく学校から帰ってきました、という様子の2人をカウンター越しに眺めて、荷物を近くの椅子に下ろしてこちらに駆け寄ってくる姉さんに首を傾げる。
那岐はそのまま、ソファ近くの床に鞄を放り捨てるように放置して、ソファの背もたれにぐったりと上半身を預けながらテレビのリモコンに手を伸ばしていた。
「あ、那岐。主電源消してるからリモコンじゃつかないよ」
「えぇ?・・・ったく、めんどくさいな・・」
肩越しに振り向いた那岐が眉を寄せて、動くのも面倒くさい、とばかりにローテーブルにリモコンを投げ出してそのままごろんとソファに寝転がる。そのまま、那岐が珍しく選りすぐったお気に入りのクッションをもぞもぞと引き寄せて自分の頭の下に潜り込ませるのに、あのまま寝る気じゃなかろうな、と目を半眼にした。おいおい若者。全然若さが足りないぞ。
「もう、那岐ってば。帰って早々寝るつもりなの?」
「いいだろ、別に。千尋に付き合って勉強してたら疲れたんだよ。千尋は頭使ってなかっただろうけど、こっちは教えるのに労力使ったんだから」
「ちょ、失礼な!私だって考えてたよっ」
「どうだか。途中から上の空で人の話なんか全然聞いちゃいなかった癖に」
だらけきった那岐の様子にカウンター近くに寄ってきた姉さんが苦言を呈したが、すげない反論にうぅ、と小さく言葉に詰まるばかりでどうやら今回の軍配は那岐に上がったようである。私はその会話を聞きながら、まあだらだらするのは一向に構わないのだが、と一呼吸置く。
「でも那岐、寝るのはいいけどせめて制服は脱いできてよ。皺になったら面倒でしょ?」
「はいはい」
あ、これは動く気ゼロだ。気のない返事に、もしかして意識はすでに夢の中に片足突っ込んでいるのかもしれない、と思いながら溜息を零した。困るのは自分で迷惑を被るのは私なのだが、と肩を竦めれば、千尋姉さんも苦笑してカウンターに膝を置く。
そのまま僅かに身を乗り出してくるので、ソファに横たわった那岐から視線を千尋姉さんに向けたら、姉さんはキッチンの奥を見て首を傾げた。
「今日の晩御飯はなんなの?」
「タンシチューだよ」
「タンシチュー?わぁ、今日は豪勢なのね」
「偶々お肉が安かっただけだけどね」
でなけりゃタンシチューなんてものわざわざ作りはしない。へらり、と笑ってサラダに手を伸ばそうとした千尋姉さんに、待ったをかけた。
「こらこら姉さん。なにつまみ食いしようとしてるの」
「だってお腹空いたんだもの。シチューはまだできてないの?」
「煮込むのに時間がかかる料理だからね、まだしばらくはかかるよ」
「、僕もお腹すいたんだけど、なんかないの?」
「しょうがないな・・・リンゴ剥いてあげるから、しばらくそれで我慢してて」
寝てたんじゃないのか、と意外なところから口を挟まれて少しビックリしながらも、お腹空いたー、と訴えてくる二人にしょうがないな、と嘆息する。まあ育ち盛りなのだから仕方ない。うさぎさんがいいな、とニコニコと笑顔で言ってくる姉さんに、はいはい、と頷きながら冷蔵庫からリンゴを取り出して包丁をいれる。真っ二つに切っている間に、あぁそうだ、と声をかけ後ろを振り向いた。
「リンゴ切っておくから、姉さんは部屋で着替えてきたら?荷物も置いてきなよ」
「あ、そうだね」
いつまでも制服のままっていうのも疲れるだろう。あっさりと頷いた千尋姉さんは一瞬那岐に視線をやり、それから全然起き上がる様子もない姿に肩を竦めて荷物を持つ。
その姿を見てから背中を向けてリンゴに向き合うと、足音と共に引き戸の開く音がして、気配が遠ざかるのを感じた。タンタンタンタン、と軽やかな階段を上る音が遠ざかるのを聞きつつ、赤い耳のうさぎを作って適当にお皿の上に乗せていく。そのリンゴを盛ったお皿を持ち、那岐が寝るソファの近くまでいくとローテーブルにことり、とリンゴをおいた。
「ほら、那岐。リンゴだよ」
「あぁ、ありがと」
言いながら目の上に乗せていた腕をずらし、眠気からなのか半目でちらり、とこちらを見た那岐がもぞりと体を動かしてリンゴに手を伸ばす。寝たままで届く範囲だからいいけれど、せめて座れよ、と思わないでもない。リンゴを手にとってしゃりり、と齧る那岐の様子をみてから、テレビでもつけようかなぁ、と首を回すと、リンゴでもごもごと口を動かしながら、不明瞭な口調で那岐が口を開いた。
「そういえば、。水樹は?姿が見当たらないけど」
「ん?あぁ、なんだか用事があるって何処かに行っちゃったよ」
「あいつが?・・・・ふーん」
しゃり、と手掴みのリンゴを齧りながら、目を細める那岐に首を傾げる。それはいつもの興味がない、という様子よりも何か考え込む仕草にも見えて、含みのある相槌に那岐の足元に腰掛けながら首を傾げる。
「どうかした?」
「・・・別に。あのいつもに無駄にべったり引っ付いている奴が1人で出かけるなんて、珍しいこともあるもんだね」
「あぁ、まあ確かに。どんな用事なんだろうね」
「さぁ。興味ないね」
果たして1人という単語が相応しいのか否か。正確には一匹じゃない?と思いつつリンゴを一つ食べ終えるともう一つに手を伸ばす那岐に、先ほどのどこか含みのあった様子は一切ない。
いつも通りの気だるげな態度に、さっきのは気のせいだったかな、と思いながらソファを僅かに軋ませて立ち上がると、窓の外の風景が目に飛び込んできた。思わず、動きを止めて外を見つめる。
隣家の白い壁が、まるで絵の具をぶちまけたように赤く染まっている。燃えるような茜色に染まっているその光景に目を細め、その次の瞬間大きく目を見開いて硬直した。
すぐ目の前に広がっていたはずのリビングはいつの間にか消え去り、目の前には何故か赤々と燃える炎が壁となり揺れる不可思議な光景が広がっている。ぎょっとして後退ろうとしたが、足はまるで根を張ったように動かずに、ひゅぅ、と喉の奥が狭まった。舐めるように周囲を覆いつくす真っ赤な炎に肌が焼かれるようで、本能的な恐怖に心臓の鼓動が五月蝿く鳴り出す。何時の間に目の前は火事の現場になったのか、軽い混乱が頭の中でパチパチと爆ぜる火の音のように巡った。真っ赤な炎。ゆらゆらと揺れ、周囲を嘗め尽くすその姿。自分自身を庇うように腕を交差させ、身を抱きしめると、頭の奥がズキズキと痛んだ。
「・・・っ」
言葉が出ずに、眉を潜める。止まりそうだった呼吸を助けるように一度短く息を吐くと、心臓の五月蝿さが耳についた。やかましいぐらいにどくどくと悲鳴をあげる心臓。唇が戦慄き、赤い渦に視線が釘付けになる。――これは、なに?過ぎったものに畏れを抱くように、ぞくりと肌が粟立った。
それに比例して増していく痛み。終いにはズキズキというよりもガンガンと、頭の中で何かが内側から外に出て行こうとしているかのような痛みに頭を抱えた。それは、まるで警告のようだった。
うぅ、と小さく唸り、頭を抱えて後ろによろける。最初の一瞬、動けなかった足が嘘のように後ろに一歩下がると、周囲に響き渡るように低い男の声が耳の奥で木霊する。燃え盛る赤い炎。低く落ち着いた、哀れみを含んだ男の声。あぁ、何故だろう、私は、それを、知っているかのような。そう思った刹那ぐっと後ろから肩を掴まれてびくり、と体が跳ねた。
「おい、?」
「・・・ぁ、」
ひどく掠れた声が乾いた唇から零れ、無理矢理振り向かされた視界に怪訝そうな那岐の顔が目一杯に映りこむ。それに目を大きく見開き、私は呆けたように那岐の顔を凝視して瞬きをしきりに繰り返した。・・・あれ?
「那岐?」
「全く、まで今日はなに?姉妹揃ってぼけっとする日とでも決めてるの?」
「いや、そんな日は決めてないけど・・・。あれ?」
「どうかした?」
「・・・ううん。なんでもない」
呆れた、とばかりに体を起こしていた那岐が再びソファに横たわるのを見ながら、さっきの光景は、と顔を曇らせるが小さく頭を振って放り捨てた。白昼夢、だったのだろう。まだ少しぼんやりとする頭を持て余すように、額に手を翳しながらきつく眉を寄せる。恐らくは外の風景があまりにも赤かったから、錯覚のようにあんなものが見えてしまったのだ。
現実でなくてよかった、とほっとすると同時に言いも知れぬ物が内を巡るのに舌打ちを零したくなる。けれどそれをすれば那岐からの怪訝な視線を貰うことはわかりきっているので、あえて何事もなかったかのように振舞うのを忘れない。
はぁ、と溜息を零して僅かに俯けていた顔を元に戻し、目を細めるともう窓の外は見まい、と顔を逸らす。――忘れろ、という男の声に従うわけではないけれど、直感的にこれは深く考えておくべきことではない、と自分の中で理解しているのだ。考えたくない、というのが九割方占めてはいるけれど。
まあそんなことはどうでもいい、とキッチンに戻ろうと踵を返したとき、たんたんたん、と階段を降りる音がして立ち止まった。顔を向ければ、リビングの戸をあけてひょこり、と千尋姉さんが顔を覗かせる。
「姉さん、どうかした?」
「、なんだか雨が降りそうだから私風早に傘を届けてくるね」
「え?」
「すぐ帰ってくるから!」
「あ、ちょ、千尋姉さん?!」
言うだけ言って、さっさと顔を引っ込めてばたばたと廊下を走っていってしまった姉さんをポカンと見送り、私はもう見ない、と思った窓の外に再び目を向ける。
「・・・・雨が降りそう?」
・・・どの辺が?雨雲の一つも見つからない、綺麗に晴れ渡る夕焼け空に、きょとんとして首を傾げる。私の感覚からいっても今日は雨の気配など皆無だ。なのになんでいきなり雨が降るから?え、なに姉さん、それはどんな言い訳?むしろどんな電波を受信したのか・・・はっ。まさか、そんなバレバレ且つわけのわからん嘘を吐いて、非行に走ったりはしないよね?!・・いや、それはないか、姉さんに限って。
そんな取り止めのない思考を展開し、うーん、とばかりに首を捻る。・・・よくわからないぞ、姉さん。
「可笑しなこというね、千尋姉さんも。雨なんか降る様子もないのに・・・」
「・・・、僕もちょっと出てくる」
「え?」
同意を求めるように那岐に声をかければ、むくりと起き上がった那岐が面倒くさそうに髪をかき回して前を見据えた。私はそんな那岐に目を丸くして、那岐も?と声を少しだけ引っ繰り返らせる。
「姉さんを追いかけるの?」
「ちょっとね。大した事じゃないよ、すぐ戻る。ついでに千尋も連れて帰ってきてあげるから」
「あぁ、うん。それはいいんだけど・・・」
だるそうに立ち上がりながら、通り過ぎ様ぽん、と頭に手が置かれて私は困惑の眼差しで那岐を見上げる。那岐は少しだけ口元を緩めて笑い、ひらひら、と後ろ手を振ってのそのそと玄関まで行ってしまった。
私はその後姿を、やはり特に引き止めることもできずに見送って、最後のばたん、というドアの閉まる音まで聞き届けて肩から力を抜いた。あの面倒くさがりで、自主的に、という言葉が激しく似合わない那岐が自ら動いて姉さんを追いかける?ありそうでない事柄に、私は眉間に皺を寄せて呟いた。
「・・・なんなの?」
姉さんといい、那岐といい、そういえば水樹も。何か可笑しい行動をとる3人を思い浮かべて、皆私にないしょで何かしてるのか、と勘繰った。もしかして風早も何か一枚噛んでたりするのかな。いやでも・・・私に秘密にすることって、案外この家族ないんだよねぇ。まあ、別に秘密にされてもそれで私に迷惑だとか害だとかが被るわけではないのならば、いくらでも秘密にしてくれていればいいのだけれど。
しかしそれでも不審は不審だな、と思いながらも、それ以上深く考えることはせずに私は再びくるりと踵を返した。牛タンはそろそろとろとろに柔らかくなった頃だろうか?鼻歌混じりに、鍋の蓋をあける。
「そういえば、デミグラスソースってまだあったかな?」
味付けに欠かせない調味料に、くるりと戸棚を振り返る。この後何が起こるかなんて、知る由もなく。