きっと、何かが始まる。



 例えばいつもと違うことに気づいて、例えばいつもとは少し違うことをして。
 そうしていれば、私はこの何もない平凡を、いつまでも、いつまでも――手元に置いておけたのだろうか。

「あ」

 かぱ、とあけた調味料棚に目的の物がないことに気づき、私はえぇーと思わず不満気な声を漏らした。・・・デミグラスソースって、もうなかったっけ?そんなに頻繁に使うものじゃないからまだあると思っていたのだが・・・とんだ誤算である。
 棚の中身をしげしげと見回して、瓶の一つ一つを手にとって未練がましく確認してみるが、やはりない。冷蔵庫の中も確認してみたが、やっぱり今必要なデミグラスソースは存在せず、落胆のあまり肩を落としてがっくりと項垂れた。あると思ったものがないのって中々の衝撃なんですが。これが調理を始める前ならば料理の変更もできたというのに、ほぼ完成に近い状態では今更作り直すこともできやしない。まいったなぁ、と呟いて、仕方なしに私はリビングへと視線を向け・・・あぁ、と嘆息した。

「そっか、皆いないんだ」

 風早は今だお仕事中、千尋姉さんと那岐はよくわからないが、どこかに出かけてしまった。水樹にしても珍しく不在なので、この家には今私1人っきりである。物寂しい、などというわけではないけれども、なんとなく今日は色んな意味で落ち着かないのか、ぞわぞわする。
 少し夕闇が深くなった外の様子にちら、と目を向けてすぐに視線を外しながら、薄暗い室内の様子にそういえば電気をつけるのも忘れていたな、と頭を掻いた。うーん。しかし困った。
 ソースがなければシチューは完成しないし、誰かに頼もうにも誰もいない。電話でもして姉さんか那岐に買って来てもらおうか、とも思ったが、いつ帰るかもわからない二人に頼むのも気が引けた。風早も今日は遅くなるのかもしれないし・・・ぐるりと思考を一周させ、仕方ないな、と鍋の火を止めた。
 すぐに帰るとはいっても火の元の確認は怠ってはならない。ついでに家の戸締りもちゃんとしておかなければ。最近世の中物騒になってきたしね。何が起こるかわからないんだから、と内心で呟きながらエプロンを脱ぎ、財布を手に取ると急ぎ足で玄関まで小走りに駆ける。
 とっとと行ってとっとと買ってとっとと帰らねば。財布を左手に、右手で鍵をもってがちゃりと玄関のドアをしめる。そのままポケットに鍵を突っ込み(だって合鍵は皆それぞれ持ってるし)くるりと踵を返した。振り返った先には、空の端が紫がかった夕陽が赤々と燃えている。眉を潜め、今日はもう見たくないと思っていたはずなのに、とままならない状況に肩を竦めた。
 いや、むしろ、今日がやけに感傷的になりすぎているのか。考えるように、少し乾いた唇を舌先で舐める。赤い夕陽。赤という色は思い入れが強すぎる、となんとなく落ち込むような気持ちで俯いた。足元を見ながら、夕陽から視線を外す。それは飄々とした海を愛する少年の髪のようであり、紅の名を持つ優しい人たちの象徴でもあり、深緋色の髪の、傍若無人なあの人のようでもあり―――もっと他にも。

「・・・っ?」

 チリッと一瞬突き通るような痛みが頭に走り、顔を顰めて額に手を添えた。
 痛みは一瞬で、気のせいだったのかというほど名残もなく、私は首を傾げながら添えた手を離して首を傾げた。あぁそうだ。赤といえば、先ほどのあの奇妙な白昼夢も、今日のこの不思議な感覚に関係しているのかもしれない。
 ・・・まあ、赤に直結するものはたくさん私の記憶の中にあるだろう。それを思うと、喉の奥に小骨が引っかかるような飲み下せない感覚を覚え、うんざりとしながら前髪をかきあげた。本当に、今日は変な日だ、と低く唸る。どうしてこんなにも、夕陽が気になるのだろう。今までそんなに気になったことはないはずなのに。
 赤い色に、確かに私は普通よりも敏感かもしれない。だがしかし、これほどまでに夕陽が気になったことなど今までないのに・・・。ざわざわと肌を刺激する不可思議な感覚に奇妙な心地を覚えながら頭を振って一歩踏み出した。

「さっさと買いに行こう・・・」

 そうして、何かを振り切るように小走りに駆け出した。どこにいっても頭上に広がる夕陽から逃げられはしなかったけれども、それでも空を見ないように前だけを真っ直ぐに見据える。
 ぎゅっと強く財布を握り締めて、住宅街の小道を通り抜けていく。例えばその時、ほんの少しでも辿る道を違えていたのならば。通り抜けていく曲がり角ではなく、別の角を曲がっていたならば。――あるいは、住宅街にしてはあまりにも静か過ぎる、世界の凪いだ風に、気づいたのならば。
 私は、ただただ、この暖かく欠伸が出るほどの平穏を、壊さないでいられたのかもしれない。仮定は、所詮仮定でしかないのだと、過ぎ去った過去の「もしも」でしかないと、痛いほどに。
 わかって、いたのに。

「・・・えっ?」

 曲がり角を抜けた刹那、目の前に広がる光景に角の陰で足を止める。
 大きく、これ以上ないほどに目を見開いて、ぽかんと呆けるように口を半開きにして硬直すると私は右足を一歩後ろにずらした。視線の先で、知っている人たちが、「ありえないもの」を持って、佇んでいる。一瞬で訪れた混乱に思わず声を出さないように口元を手で覆い隠しながら、嫌な加速度を増す心臓に財布を持ったままぐっと胸に押し付けた。
 なんだ、あれは。視界からの情報を拒絶するように何度も瞬きを繰り返して、頭の中で激昂するように叫んだ。――なんなのだ、あれは?!

「はっ、・・・うそ」

 覚えのある緊張感。張り詰めた糸のような、今にもぷつりと途切れそうな鋭さ、剣呑さ。弓を持つ姉が、大鎌を持った黒いフードの誰かと対峙している。不可思議な言霊を紡いでそれに攻撃する那岐がいる。油断なく剣を構えて、姉さんを守る風早がいる。
 そして、あぁこれは誰だろう。見知らぬ黒髪の青年が、棍を片手に――やはり、見慣れぬ衣服をきた(コスプレですか、あれは)眼帯の青年に向けて襲い掛かる。そこは、まさしく「戦場」というほかない。一瞬で展開された現代社会、いや、住宅街のど真ん中で行われるにはあまりにも不似合いな光景に、くらりと眩暈を覚えた。・・・・なにやってるんだあの人たちは!!ちょっと待て、ちょって待ってくれ!
 誰をとめるわけでもないが、大声を張り上げてあの非現実的な光景を止めたくなった。けれども本能的にここで声をかけたら巻き込まれそう、という思考のストップがかかり、寸前でぐっと言葉を飲み込んで両手で顔を覆う。
 ・・・・あんまりにも突っ込み所がありすぎる上に、色々と拒絶したいことばかりで私にどうしろというのだ。よもや家族が銃刀法違反を犯すとは思わなかった・・・。いや、そういう問題ではないか。まずどこからそんなどでかい武器を出したとか我が家にそんな物騒なものは置いてません!!とかご近所に見られたらどうするの、とか警察にだけはお世話になりませんように!とかああああやっぱりツッコミ所しかないよぉ!
 大体黒いフードてお前。大鎌ってお前。どこぞの真っ黒軍師か。いや違う。それ以上に体の線も顔も手足すらろくろく見えないあの姿は不審者という他ない。不審者というか表現するなら死神ですかっていいたい見た目である。
 まあ、武器持っている時点で皆不審者なのだが。なんでみんなあんなものぶん回せるのか、すごいな力持ち。姉さん弓道なんてしてたっけ?あれで結構弓って引くのに力がいるんだけど、非現実的な光景にツッコミという現実逃避を交えつつ、それはそれとして、とむしろこちらこそ鬼気迫るとばかりに攻防を繰り広げる2人にちら、と視線を向けた。
 ・・・・あの2人、どっちも知っているような気がするのは何故だろう?そんなはずはないのに、囁いて、頭を抱えた。あぁ、ダメだ、混乱している。
 よろりと足元をふらつかせて、家を囲むブロック塀に手をついた。頭が、痛い。ズキズキとあんまりな光景に痛む頭を抱えながら、眉間に皺を寄せてくっと唇を噛んだ。
 ありえない、と。馬鹿げている、と。なにをしているの、と。目の前の出来事への否定の言葉など、容易く紡げるのに。実際に、頭の中ではあらゆる否定と奇怪な出来事への驚愕で占められて、色んなものを放棄しかけているというのに。だというのに、どうして私は目の前の光景に、かすかな懐かしさを、現実への納得を、覚えているのだろう?
 きらきらと輝く姉の弓。花のような飾りまでついた、夕陽を受けて輝く美しい金の弓のしなやかな姿が網膜に焼き付いて離れない。
 あれは、どこだったか。私はあれを見たことがあるような気がする。風早の剣を構える姿も、そうだ、あの真っ直ぐな剣を構えて、風早は。いや、と首を振った。そんな姿、見たこともない。この世界で、そんなものを見るはずがない。

 記憶になど、ありはしないのに。

 言葉に詰まり、ごくりと喉を鳴らして言いも知れぬ恐怖が胸中を駆け巡った刹那、パキィィィンと何かが割れるような高く澄んだ音が鳴り響いた。
 ぎょっと目を見開ければ、黒いフードの人ががくりとよろけ、姉さん達から距離をとったのが視界に入る。・・・姉さん達が勝った、のだろうか。油断なく風早も那岐も相手を睨みすえていたが、姉さんはほっとしたように弓を下ろしている。
 その様子に、多分、勝ったのだろうと思ってぐっと拳を握り締めた。大鎌を下ろして、ふらつく黒いフードの人の戦意は薄い。あの張り詰めたような緊張感が・・・覚えのあるあの緊張感が、一瞬途切れたことに無意識に詰めていた息を零すと、彼を中心に、不意にきらきらと輝く銀の天秤が、大きくその錘を傾けた。一瞬、そこだけ時が止まったかのように、傾いた天秤の神秘的な様子に目を丸くして見つめる。キラキラ、キラキラ。まるで幻のように、儚ささえうかがわせる透明な天秤。光輝いて傾く様はいっそ幻想的過ぎて、やはり現実感には程遠く。そして、驚いたことに黒いフードの人は陽炎のように姿を滲ませて消えてしまい、ひゅっと気道を狭めて私はポカンと呆けた。
 ・・・・・・消え、た?え、なにあれ幽霊とかそういう類だったの?!マジでっ?あぁでも、そんなものもありかもな、と一人納得したときに、ハッと表情を強張らせて頭を抱えた。いやいやいや、ダメだよそこで納得しちゃダメだよ自分!!
 確かになんかもう色々慣れたけどっ。結構こういう類のこと経験してきたから色々と慣れちゃったけどっ。でもダメだよここでそんな受け入れてたら人としてダメな気がする・・・っ。
 自分の思考回路に多大なる衝撃を覚えながら、うぅ、と小さく唸って今はそれは置いといて、と吐息を零した。フードの人のことも気になるが、それよりも気になるのは、あの天秤。何故こんなシーンで、あんなものが突如として現れたのか。場違いにも程がある。あれは、どういったものなのか。なんだかどんどん現実離れしていく現象に、眉間に皺を寄せて状況も忘れて思案する。

「あの、天秤は・・・」

 一体、なに?皆まで言うことはせずに、ぽつりとただそれだけを口にする。疑問を、不可思議な光景に乗せて呟いただけなのに、戦いの一瞬の隙をついてしまったのか。
 後々しまった、と顔を顰めたくもなったのだが、一斉に注がれた視線にそれができるはずもない。静寂に響いた私の声は、嫌でも周囲の・・・家族ながら関わりたくねぇ、思わせる有様の彼女達に届き、曲がり角の陰の隠れていた私をその視界へと映しこませる。
 え、とばかりに目を見開いた姉さんや、息を飲む風早たちに、それはこっちの態度だよ、となんとなく言いたくなった。

「・・・っ?!」
「千尋、姉さん・・・」

 壁に縋りつきながら、驚いたように名前を呼ぶ姉さんに応えるように・・・いや、本当は応えたくはなかったのだが、それでも場の雰囲気がそれを許してはくれない。
 苦虫を噛み潰したように複雑な心境で応対すれば、姉さんの狼狽が強くなる。私は戸惑いを浮かべて周囲を見渡し・・・ふと、眼帯の青年に目を止めた。制服や、スーツ(しかし白スーツは選択ミスだとなんとなく思った)といった格好の姉さん達の中で、一際異彩を放つ異国の服に身を包んだ青年が、食い入るようにこちらを見つめている。
 萌黄の髪、片目を隠す黒い眼帯・・・ピリッと、頭の奥で何かが神経を刺激する。どくり、と心臓が跳ねる音が、耳の奥で木霊した。青年は、片目を私にひたりと合わせて、呼吸も止めたように微動にしない。私はその彼を見つめて、そっと目を細めた。・・・・懐かしい?いや、あんな不審人物に懐かしさなど、感じるはずが。
 ただならぬ様子であまりにも強く見つめられるので、少々気後れしながら眉間に皺を寄せると、青年は薄い唇をかすかに戦慄かせ――風に混ぜるように、小さな囁きを落とした。

「・・・我が、姫・・・・」

 驚いているのか、茫然としているのか。表情そのものは変わらないように思うのに、どこか頼りなくも聞こえる小さな声は、風に乗って鼓膜を震わせた。
 私はそんなあやふやな青年の言葉に驚きに目を見張り、は?とばかりに首を傾げる。・・・姫?姫って、お姫様の姫?それ、私に向けて言ってるの?いや、明らかに視線が私に向かってるのでまさか那岐とかに言っているわけではないだろうが。もしかして私の背後に別の誰かがいるのかな、と思ってちらりと後ろを見てみたが、まあ、普通に誰かがいるわけもなく。
 前を向いて、青年を見やるがすっかり口を閉ざしてこちらを凝視している彼に我が姫ってなんですか、なんて問いかけられる雰囲気などではない。
 私に姫とか、なんて似合わない。しいてそれに相応しいとするのならば千尋姉さんではないだろうか・・。だって、さっきまで姉は、武器を持って敵と思われる相手と戦っていた。姉「が」武器を持ち戦っていたのだ。風早も、那岐も、「姉」の側にいて、「姉」を守るように展開している。それにあの天秤は、きっと「姉」が勝ったからこそ現れたものなのではないだろうか。少し前のあの神秘的な光景を思い出し、そう一人考える。ならば、きっと、私ではなく、姉が中心のはずだ。そうであるのならば・・・あの隻眼の青年が、私に対して反応することは可笑しい、と断言できる。
 ・・・正直、今でさえ、私は千尋姉さんと真実血の繋がりがあるのかどうか、信じ切れていない節があるのだから。
 むしろ那岐と姉さんが双子か何かで兄弟だといったほうが納得できるぐらいだ。・・・髪の色とか目の色とかかなり違うからなぁ、私と姉さん。
 それに、私には過去の記憶がなく、代わりにあるのは・・・・。そこまで考えて、不意に、パチンと泡が爆ぜるような小さな音が聞こえて眉宇を潜めた。そういえば、私には過去の記憶がない。姉さんもないけれど、私の場合は特殊すぎるので、この事態は由々しき事なのかもしれない。私がこの体になってからの数年分の記憶が、ごっそりとないというのは・・・ほぼ、ありえないはず、なのだ。この世界に生れ落ちたのならば、脳味噌が発達しきっている人間が、その過程を覚えていないはずがない。けれど、あるのは狂おしく悲しい、幸せと絶望が入り混じった前世の記憶だけ。
 今更ながらそれに思い当たると、震えが全身に走り、知らず口元を掌で覆い隠した。知らない過去。覚えていない過去。それはとても可笑しいことなのではないか?もしかして、もしかしてそこに何かあったのではないか?何か、何か重要な・・・私と青年には、何かがあった?
 不安とも脅えともつかない感情が胸中を駆け巡り、唇を戦慄かせて無言の青年を見つめる。青年の片目はじっと私を見つめていて、私はその眼差しを見返した。
 静かだけど、揺れる瞳。整った顔立ち、キラキラ、輝く、星の・・・・星?刹那、何かがカチリと嵌ったような、合点がいったかのような、奇妙な心地を覚えた。
 あぁ、と思わず吐息が零れる。まさか、もしや、そんなことって。ぐるぐると考えが頭の中を巡ってはっきりと整理はつかなかったけれども、私はなんの考えもなく、呆然と呟いた。

「星の、一族・・・?」

 それは何の確信があったわけでも、説明を受けたわけでもないけれど。なんとなく、そう、なんとなくとしか言いようがなかったのだけれど。
 キラキラと輝く星の瞬き、夕暮れが少し沈んで、空に浮かぶいくつもの輝き、青年を包むもの。巡り巡る、占の一族。覚えがあるはずだ。懐かしいと、思うはずだ。星の一族。知っているのは当然だろう。過去に2人。私は彼らと接触したことがあるのだから。そうだ、星の加護。星の一族。
 ――ならば、この世界は。呆けている私とは対照的に、私が言葉を発した途端、今までのどこか読めない表情とは裏腹に驚愕に目を見開いて肩を揺らした青年をぼんやりと見ながら、私は眉間に皺を寄せた。しかし、彼が星の一族なのだとしても、それとこれとはまた違う。懐かしさの理由は思い当たった。星の一族であるならば、確かに懐かしいと思うのも間違いではないだろう。私と彼の一族の縁はそれなりに深いものだと自負している。もっとも、「また」関わるようなことになるとは思ってはいなかったが・・けれど、それと青年とは別の話だ。私に星の一族に対する郷愁の念はあれども、「彼」に対する思い入れなどあるはずもない。何故なら、彼に関する記憶などないのだから。そう、「今」の私には、目の前の怪しい男との関係など、あるはずがないのだから。もしも。もしも、あるとするのならば・・・それは恐らく、この脳裏から霞み消えた、過去の中にこそあるのかもしれない。
 それは知るべきことだろうか?それは知らなくてはいけないことだろうか?それとも、それは知る運命にあるものなのだろうか。
 日常がガラガラと崩れ行くような不穏な音を聞きながら。夕暮れの、静かで切ない空気を肌に感じながら。
 きっと、そう、これはきっと――逃れる術など、ないのだろうと、諦めながら。

「あなたは、だれ?」

 問いかけるほか、私にできることなど、なかったのだ。