きっと、何かが始まる。



「多分ね、私、柊に会いたくなかったよ」

 いつかの星空の下でそういった私を、彼は微笑んで見つめていた。





 私の問いかけに青年は息を呑んだように言葉に詰まった。ピクリと指先が震え、悲しげに瞳が揺れたかと思うと、すぐにそれは消えて自嘲を口元に浮かべて見せる。それは余裕を持つように皮肉気ではあったが、寄せられた柳眉と細められた瞳が、皮肉を裏切って寂しげにも見えた。
 そんなに可笑しな問いかけをした覚えはないけれど、どうして彼はこんなに悲しげにするのだろう。これではまるで私がいけないことを聞いたみたいだ。居心地の悪さに早くこの場から去りたい衝動に苛まれたが、逃げることは許されないだろう。雰囲気だとか、状況だとか、色んなものが、ここから逃げ出すことを拒んでいる。
 どうしよう。幾度目か知れない戸惑いを浮かべた刹那、悲しげにしていた青年が物言いたげに口唇を戦慄かせた。あぁ、何を言うのだろうか。その言葉を待つ刹那、タイミングを見計らったかのように私の視界を濃紺の背中が覆い隠した。

「聞いただろう柊。貴様などにとって不要なものでしかないのだ。とっとと消え失せるがいい」

 切り揃えられた艶やかな光の輪を描く長い黒髪が背中で揺れ、低い美声が冷たい響きを帯びて辛辣に告げる。突然にして、まるで私を庇うかのように姿を現したこの背中の持ち主は、きっと棍棒を振り回して眼帯の青年を攻撃していた男の人に違いない。眼帯の人を攻撃していたのだから姉さん達の敵ではないのだろうが・・・それにしてもいきなり異国情緒溢れる格好で殺気を漲らせ攻撃していた様子は、一概に信用していいものか迷うところだ。
 確実に一般人ではなかろう、という程度に容易く想像ができて物凄く複雑な気にさせられる。・・・とことん平穏から遠ざかれというのだろうか神様は。しかも青年に向ける言葉はあまりに冷ややかで忌々しげなそれであったから、私は瞬いてその背中を凝視した。見知らぬ人の背中は大きく、サイドの髪を結わえる結い紐がちりちりと揺れてうねる。・・・あの結い紐、どこかでみたような。ふとそんな既視感を覚えたが、それもすぐに消えて首を傾げた。・・・眼帯の人といい棍棒の人といい、一体どういう人達なのだろう。どうでもいいから私を巻き込まないで欲しいな、と思うのだが、棍棒の人の冷ややかな台詞にカチンときたのか、眼帯の人は寂しげだった眼差しを冷たいものに変え、クッと意地が悪そうに口角を歪めた。

「消え失せろ、とはまた乱暴ですね水樹。私は今我が姫と話していたのです。・・それに、我が姫が私を知らないのは記憶が封じられているから・・・あなたに不要どうこうと言われる筋合いはありませんね」
「ふん。貴様の存在そのものがにとって害悪でしかない。今更のこのこと現れて、この子を巻き込まないでもらおうか」

 ・・・・水樹?
 呆気に取られるほどの敵意溢れる応酬であったのだが、ふと眼帯の人・・・柊というらしいその人の台詞の合間に挟まれたものに、思わず首を傾げる。
 いつの間にか姉さんも風早も那岐も私の周りに集まって、怪しい見知らぬ二人の氷のような応酬を眺めていたのだが、それよりも、うん。水樹って・・・ねぇ?

「まさかね」

 そういえば声がなんだか聞き覚えがあるなぁとか(それ言うならここにいる人全員聞き覚えのある声なんだけど)、なんかこう、雰囲気似てるよねぇ、とか、喋ってたんだからそれもありっぽいなぁ、とか。思うところは多々あったが、いやいやそんなファンタジーの王道があってもね。困るよね。主に私が。即行でその可能性をオーバースローで投げ捨て、ただ呆然と2人を見つめるに留まる。言葉を挟もうにも雰囲気が許してくれないし、そもそもあの冷戦の只中に飛び込みたいとは思わない。

「すでに定めの輪は回り始めた。大いなる力はうねりを帯び、渦を巻いて私達を誘おうとしている・・・・抵抗は無駄というものですよ」
「黙れ、柊。例え運命が選ぼうとも、はそれを望まない。あれほどにこの子を苦しめておきながら、更に貴様はこの子に背負わるつもりか!恥を知れ!!」

 今までの冷静な口調から一転して、カッと苛烈な口調で水樹と呼ばれた人は声を張り上げる。その声は本当に怒りを露にしていて、思わず自分が怒鳴られたわけでもないのに肩が揺れるほどだ。ひくっと、喉を引くつかせて目を丸くする。
 対して柊という人物は、水樹の気迫に押されることも無く、いや、だが僅かに伏せられた瞼が、彼の憂いを表していた。それは芝居がかっているかのように流麗な仕草ではあったが、どうしてだろう。彼が、苦しそうに見えたのは。私は話題の中心にいながら何もわからず、言葉も無くその光景を見守るしかない。ざわざわと、首筋を寒気が走った。

「それでも、この心の思うままに―――それが、あの日、我が姫が私に託してくださった最後の言葉です」
「柊!!」
「我が君が運命に誘われるように・・・我が姫もまた、伝承の只中へと誘うのが私の使命なのでしょう」

 そう、柊が細く呟いた刹那。水樹の背中越しに、彼のまるで遠くの何もかもを見通すような不可思議な青の片目と、線上で重なり合った。それは深く遠く、そして懐かしくも覚えのある・・・狂おしい光を秘めて。その狂おしさがなんだったのか、それは自分に近く、しかし遠い光のように見えて、私は息を呑む。目が合った瞬間、ギクリと肩が跳ねて頭の奥底で警報が鳴り響いた気もするのに、金縛りにあったように身動きができなかった。
 それは、あたかも先ほど彼が言っていた・・・・運命のように。

「しまった!」
っ!」
「やめろ、柊!!」
「ダメだ、間に合わないっ」

 周囲が声を張り上げる。風早が血相を変えて身を乗り出し、那岐が舌打ちを隠すこともなく打って、千尋姉さんが悲鳴のように私を呼んだ。水樹は柊に静止をかけ、そして、柊、は。

「さぁ、我が姫。思い出してください。豊葦原の緑を、橿原の奥宮の光景を、その身に流れる尊き血の由縁を」
「な、に、なにを言って・・・!」
「あなたは豊葦原を統べる中つ国の三の姫。二の姫たる葦原千尋の妹・・・既定伝承に記されることなき、稀有なる存在」
「な、」

 手が伸ばされる。手袋に包まれた指先。しっかりと私に向けられて。くらりと眩暈を覚え、米神が俄かに痛みを訴えた。それは思い出すことへの拒絶だったのか、無理矢理引きずり出されることによる脳の悲鳴だったのか、知るすべは無く。
 頭を抱え、増す痛みに顔を顰めた。どくどくどく、と。心臓さえも早鐘を打ち始める。
 呼吸が苦しい。嫌だ。怖い。何かが来る。迫ってくる。目の前が真っ暗になるような、真っ白になるような、だけどどうしてか。柊の蒼い片目だけが、はっきりと見えた気がした。
 
!あいつの声など聞くな、私を見ろ。思い出さなくていい!」

 目を見開いて息苦しく喘いでいると、がっと両の肩を掴まれ、視界一杯に丹精な顔が入り込んできた。らしくない焦った顔。いつだって冷静で、どこか冷たくて、落ち着いていた彼らしくない。彼?そう、彼だ。覚えがある。見たことがある。彼は、この人は、そうだ。この人は。視界がぶれる。重なる。見上げる顔。見下ろしてくる視線。長い黒髪、あげた青い結い紐。ずっとつけてくれてるんだね。もうどれぐらい前だったか。そうだ、この人は。

「みず、き、」
!」
「そうだ、水樹。水樹、だね・・・どうし、っう」
っ」

 頭がガンガンする。胸が苦しい。くっと眉を寄せて、身を捩る。心臓が五月蝿い。どうしたことだろう、これは。何かが、何かが、・・・・・迫って、くる。


 暖かな暗闇と優しい水音。それは恋しさを覚える母の胎内。最初の世界。


「あ、」


 目を焼いた光と広がった世界。それは生れ落ちた刹那の瞬間。


「ああ、」


 金色のあどけない子供。黒髪の優しい人。それはこの「世界」の私の家族。


「ああぁ・・・っ」


 萌黄の髪、まだ揃っていた両の瞳。それは初めて出会った記憶。


「ああああぁ・・・!」


 森。草原。川。湖面。桜。広い宮の奥。寄り付かない人。畏怖。嘲笑。囁き声。巡る力。古い書物。閉ざされた部屋。月夜の舞。星の瞬き。伸ばされた手。向けられる微笑み。遠くの足音。荒荒らしい前触れ。いなくなる人。黒い影。喧騒。怒号。悲鳴。金属のぶつかる音。翻る白刃。燃える炎の熱さ。崩れる柱。交わされる言の葉。最後の日。


「ごめんなさい、


 視界を埋め尽くした真紅は、誰のものだった?


「いぃやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁっっ!!!!!!!!!!」



 憎く厭わしい、けれど焦がれるその色は、一体誰から流れてた?