約束をしよう。きっと破られない約束を



 どんないきかたをしてもいい。


 あなたがこのせかいでいきてくれるなら、このせかいでえらぶみちならただひとつをのぞいてどんなことでもたすけてあげる。うえないように、ひとりにならないように、せかいをせいすちからだってなんでもあげる。ぼくらのかごを、しゅごを、あいをあなたにあげる。ぼくらのすべてをあなたにささげるよ、ねぇ、


 だから、





 あぁ、ここは何処だったか。
 暗い闇、耳の横で聞こえる泡がこぽりと浮上する音。
 母の胎内、絶対的な庇護の下で、眠る自分。
 ずっと一生、永劫に。この中にいられたらどれだけ幸せなことだろう。
 世界の醜さも美しさも残酷な現実も夢のような優しさも切ない過去も諦めた未来も全て手に入らなくても、この狭く閉ざされた中にずっといられたら、きっとそれは限りない幸福に違いない。
 だけどそんなささやかな希望は泡と同じで、パチリと弾けて暗闇から光へと追い出されるのだ。
 狭い道を頭蓋を歪めて通り、今だ開ききらない瞼越しに眩い光を受ける。そうして私はまた生まれてしまったのだ。こんなみっともない、異常な状態でまたこの世に出でてしまったのだ。そのまま息をせずにいれば世界の何を知ることも無く再び死ねたであろうに、本能には逆らえないのかそれが自然の摂理であったのか。息苦しさを覚えた私は口を開いて泣いてしまったのだ。大声を張り上げて、小さな小さな肺に酸素を目一杯取り入れようとして、どこからこんなに、と自分で驚くほどの大きさで泣き喚く。
 泣いて泣いて泣いて泣いて、それが外に出られたことに対する歓喜の産声というべきなのか、それとも生まれてしまったことへの絶望の嘆きなのか、私も、そして私を生んだ人も、私を抱えている人にも。わかりはしない。わかりはしない。
 それが、最初の、記憶。あぁそうだった。これが私がこの世界での最初の記憶なのだと、理解する。ゆっくりと、記憶が蘇っていく。繊細に、辿るように、瞼の裏に焼き付けていくように。今まで忘れていた。いや、きっと、忘れさせられていた。だから、今、思い出している。
 蘇る。一つ一つ辿るように、巻き戻すように克明に。―――思い出したくないものでさえも。
 そんな、ひどく疲れる、作業の、そうそれは作業といえる、合間に。
 聞こえる、泣き声。しくしく。まるで子供のように。おねがい、たどたどしく聞こえる声。
 舌ったらずで、幼くて、甘い。きっと明るく笑い声をあげれば、ひまわりみたいに可愛らしいのであろうに。なのに聞こえてくる声は、子供なのに子供らしくない悲哀に満ちていて、きゅっと心臓が締め付けられるような必死さを帯びていた。
 まだ子供なのに。幼いのに。聞こえてくる。遠く近く。寄せては返すさざなみのように、頼りなく、縋りつく、声。


『しにたくない』


 鼓膜を震わせる声。遠い。のにやけに響く。鼓動が揺さぶられる。しにたくない、意識が急激に持ち上がる気配がした。


『いきていたい』


 そうだね。思わず相槌を打った。でも、声は出ない。唇が戦慄くだけ。そうだね。頷いた。 
 ただ、なんの憂いもなく、生きていたいだけなのに。


『きえたくない』


 瞼が震える。薄っすら、切れ目が走る。ここにいたいの。あそこにいたかったの。ほろり。目尻から何かが伝った。


『おねがい、ぼくらをたすけて』


 広がった世界に、光。弱く儚く明滅する輝き。あぁ、なんだろう。似ている。最初に出会った夢の中の輝き。暖かくて、だけど切なくて。暗闇の中ではそれはひどく頼りなくて、吹けば消えそうに弱々しくて、差し伸べる手に迷いを抱けなかった。
 囲うように、掌で包み込む。小さな光。弱弱しい輝き。あぁそうだ、この世界の唯一の光、小さく弱くて、だけどこれしか縋るものがなかった、そんな光。知ってるよ。それはきっと、あの日見た雨の日の夢と同じ。違うのは、この光があれよりもよほど幼くて、震えていて、そう、泣いていたから。泣いていた。しにたくないと泣いていた、いきていたいと切望していた。きえたくないと、願っていた。それは、まるで私と同じだね。

「いいよ」

 頷く。死にたくないよね。

「大丈夫」

 微笑む。生きたいよね。

「生きていていいんだよ」

 撫でる。誰に、人の命を脅かす権限があるというの。

「きみは、生きていいんだよ」

 誰だって、生きていていいに決まってる。理不尽に奪われてなるものか。死にたくないという思いが悪いことなんてそんなのあってはならないでしょう。誰だって、当たり前を求めていいでしょう?それが人であろうとなかろうと、生きたいという願いを、犯させてなるものか。


 そう、だって私は死にたくないから。


 ふわり。光は微笑んだ。ぽろぽろと光の粒を零して、それはまるで涙のようだったけどとても綺麗だったから、ふにゃりと相好を崩して、微笑み返す。あぁそうだ、やっぱり、笑い顔が一番すてき。


『ありがとう』


 そう聞こえたら、光の渦に巻き込まれたような気がした。目の前がきらきら、真っ白な世界に変わって、色んなものが流れていく。あぁ、あの子が笑ってくれてよかったなぁ。
 そんなことを考えて、また意識が沈んでいく感覚を覚えた。後ろから引っ張られるように、ずぶずぶと沈んでいく意識。重たくなる瞼。視界は細くなり、やがてふつりと途切れて。



あぁ、今度は、どの記憶を見るのだろう。



 ほろり。暖かなものが零れると、全ては記憶の波に攫われた。