女神様のお気に召すままっ



 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 こんな運命は認めない、こんな運命が認められていいわけがない!
 お願い、誰か、どうか、お願い!助けて、彼を、こんな、ごめんなさい、僕のせいで、嫌だ、いかないで、傍にいて、離れずに傍にいてよ!約束、どうして貴方が、僕が代わりになるから、だからどうか、どんなことでもするから、どうなってもいいから、たすけて、誰か、神様、お願い、助けて、神様、神様、僕の神様を助けて!!!


 魂が千々に引き裂かれるかのような、いやまさにその最中なのか。判断もつかないぐらいに支離滅裂で、剥き出しの慟哭が呼び覚ます。
 傷を帯びて絶え間なくだらだらと血を流しながら、いや、これは彼の涙であろうか?赤とも透明ともつかないそれでも紛れもない深い深い、致死性の傷を負いながら、彼は己の喉に爪を立てて請うていた。その狂気的な願いは、彼の魂をどす黒く染め変えていって、清廉な、氷のように澄んだ薄氷の魂は、ピシピシと罅割れてそこからどろりと濁ったおぞましいものが溢れてきていた。
 これはダメだ。私はとっさに青年の背中から傷痕を隠すようにぴったりとくっついた。
 見覚えのあるあのどろどろと凝った邪悪なものは、青年には勿論の事、その周りももしかしたら世界ですらも危ういものにするかもしれない。いつだって世界は人の心一つで歪んでしまうのだ。ちっぽけな人間が、というけれど、大きなものはいつだってそのちっぽけなもので容易く崩れてしまう。なんでバランスのとれた理なのだろう。巻き込まれてしまうことが多い自分としては、未然に防ぐことでできる限りそのリスクを減らしておきたい。今まさに関わってしまった感は否めないが、世界規模になる前に収まるなら多少のリスクは甘んじよう。そもそもここがどこかもよくわからないけど。とりあえず、突然抱き着かれた青年は喚いていた声をピタリと止めて、驚いたように後ろを振り返った。青いフレーム眼鏡の奥の瞳が驚きと期待に染まってこちらを見たが、私の顔を見た瞬間にどろりと濁った。裏切られた、とばかりに光を失くして、虚ろに変わる。
 やべぇ。この青年色々マックスすぎて何が切欠で怨霊に化けるかわからん。むしろ荒御霊?どちらにしろ、私の対応次第でこの青年の運命が決まりそうなぐらいに崖っぷちなことは明白だった。
 まぁあの魂の慟哭の時点でわかっていたことだが、それにしても恐ろしい。人が狂って堕ちていく過程をこの目で見ることになろうとは思わなんだ。
 急激に黒く淀みのスピードを上げていく魂に、うわわ、と慌てて傷口に手を押し当てて私は叫ぶ。

「助けるよ!」
「・・・え?」

 咄嗟に出たものは、彼を引き留めるには十分だったらしい。絶望と喪失、罪悪感と虚無感にもはや自我さえ手放そうとしていた青年の、どろりと濁った虚ろな瞳が、その瞬間ほんの少しだけ光を宿す。しかしそれはあまりにもまだ小さくて、私は溢れ出る穢れを手のひら一杯で押しとどめながら、自分今無責任なこと言い始めてる、やばい、これ確実に厄介事だ、と確信しながらも必死に呼びかけた。

「何がなんだかよくわからないけど、助けてほしいんだよね?なに?誰を助けるの?」
「・・・ぁ・・・」
「どうして欲しいの?どうしたいの?ねぇ、貴方が動かなきゃ、私は何もできない」
「・・・ぼく、は、・・・」

 必要なのは情報だ。彼が望む根源を知らなければならない。そもそも私にできることなのかも、軽々しく「助ける」なんていうべきではないこともわかっているのに、それでも今目の前のことで精一杯で、ただ私はこの溢れんばかりの彼の絶望をどうにかしなければならない、と赤銅色の瞳を見つめた。
 乾いた虚ろの瞳から、ぽろりと一粒の氷を落とす。彼の魂の欠片のような、涙の石。青年は、私を見るでもなく、ただ聞こえる声に反応するように罅割れた薄い唇を震わせた。

「かれ、を、」
「彼?」
「かみさま、」
「神様?」
「ぼくの、かみさま」

 ・・・青年の?
 首を傾げた瞬間、ひたりと彼の瞳と目があった。ぞわりと、背筋に悪寒めいた寒気が走る。
 それは、何をしても、誰を犠牲にしても「神様」を助けると決めた、―――無垢なる狂気の眼差しだった。
 その歪んだ、けれど悲しいほどに一途な瞳が私を映す。「彼」が「私」を認識した。捕まる。あぁ、彼は。


「お願い、彼を、――――を、助けて!」


 どんな禁忌を犯しても、それが許されざる行いだとしても。
 そして、きっと自分が救われることも報われることもないと理解していながら。
 それでも、彼は、―――を歪めることを、躊躇わないんだ。
 どんっと押されて、私の体が大きく傾ぐ。遠ざかる青年の目から、ボロボロと零れるのは氷なのか涙なのか。ごめんなさい、と小さな声が聞こえて、それでも代わりに彼の薄氷の魂が清廉な光を纏い始めていたのは、薄れていく視界の中でなんとなく見えたから。
 いいよ、と笑って受諾する以外、落とされる私に術はなかったのである。