女神様のお気に召すままっ
連れてこられたのは、ぶ厚い氷が敷き詰められた来たことのない、けれど見た覚えのある矛盾したものを抱えたスケートリンクだった。感慨深いようなさりとてなんの思い入れもないような。こういう時、感情の置き場に困るなと人知れず溜息を吐いた。
歴史的価値のない張りぼてのお城の膝元で、あまり繁盛しているようには見えない古びたスケートリンク。その外観を見たときからおや?と思い、中に入って受付からスケートシューズを借りたところでおやおや?と首を傾げ、そのブレードのついたスケートシューズを椅子に座らされ、足元に跪いて履かせてくれるミナコ先生の旋毛を見下ろしておやおやおや?と口元を引き攣らせて、歩きにくいだろうから、と転ぶことを憂慮され抱き抱えられてリンクに向かったところで、あっちゃー、とぺちりと額を叩いた。
そうか。そうだよね。この九州の片田舎にある長谷津に小さい子供連れで遊べるような施設など片手の指でも余るぐらいしかない。遠出するでもなく近場で済ませようと思ったら、まぁこうなることは必然だ。
ミナコ先生に抱き抱えられ、ほぅら勇利スケートリンクよ~なんて言われて白銀の、子供にしてみれば酷く大きく見える氷のステージを見下ろして、私の目が一瞬死んだ魚のごとく濁った。アカン、これはアカン。どくどくと一定のリズムを刻んでいたはずの心臓が俄かにざわつき始めたのを感じて、咄嗟に上から押さえつけてきゅっと唇を真一文字に引き結ぶ。氷から立ち上る冷気がひやりと頬をなでて、急激な温度変化に耐えられないかのように鼻の奥がツンとする。体中に力が入っているのか、固まって反応しない私にミナコ先生がどしたの、と顔を覗き込んできた。
「勇利?どうしたの?」
あまりに険しい顔をしていたからか、ミナコ先生が目を見開き、ついで怪訝そうに眉を潜めて頬をぷに、と突かれる。
「怖い?大丈夫よ、ちょっと最初のうちは転ぶだろうけど、慣れれば楽しいし。ほら、テレビでも見たことあるでしょ。あんな風にくるくるーって滑れたら気持ちいいと思わない?」
思えば、彼女はスケオタだ。鑑賞用としてのフィギュアスケートを愛していて、同じ音楽に乗せて表現するものとして美しく銀盤で舞う選手を尊敬していた。
そんな彼女が地元の、しかも身近にあるスケートリンクに私を連れてこないはずがなかったし、そもそも勇利がスケートを始めた切欠も彼女だった。奇しくも同じ状況になっているんだな、と思いながら私は怯えるように彼女の首に齧りついた。本能が告げている。あそこに立ってしまえば、私の人生設計がとことん狂ってしまう、と。
それはダメだ。スケートという繋がりは、どうしたってヴィクトル・ニキフォロフに繋がってしまう。それは細い糸かもしれない。容易く千切れてしまう実はなんてことのない繋がりかもしれない。けれど、もしそうではなかったら?様々に折り重なり、紡がれ、撚り合わせて太い糸になってしまったら?―――二の舞だけは、避けねばならない。
だからわかって勇利。騒ぐ心臓が、強張る体が、悲鳴をあげても。だからこそわかって、と懇願する。納得して。諦めて。君は、それさえも受け入れて、私をここに送り込んだのでしょう?と。微かに乱れる呼吸にミナコ先生が背中をぽんぽんと叩く。
少し悩んで、帰る?と問われてほっと息を吐いた。嫌がる子供に無理を強要するほど彼女は強引ではなかったし、あまりに堅い私に一抹の不安が擡げたのかもしれない。
折角連れてきてもらったのに申し訳ないと思う。純粋に、好きなものを教えてくれた彼女に罪悪感が芽生えるが、それでもこれだけは、と肩から力を抜いた瞬間甲高い子供の声がスケートリンクに木霊した。
「お姉さん、その子どうしたとー?」
「あーなんか慣れないところにきて緊張してるみたいでね」
「そうと?大丈夫だよ、スケートってとっても楽しかよ!」
無邪気なソプラノ。どくん、と再び脈打った心臓に視線を向ければ、くりくりと大きな目をした今の自分よりもいくらか年上だとみられる可愛らしい少女が好奇心を一杯に湛えて私を見上げていた。
リンクの天井に吊るされた照明の光を反射してキラキラと輝く瞳は子供らしく澄んでいて、栗色の髪を赤いリボンでポニーテールにしている。動作に揺られて揺れる姿が本当に尻尾みたいで、あ、と唇を半開きにした。
「ほら、勇利。この子もこう言ってるし、ちょっとだけ滑ってみたら?」
私が興味を示したと思ったのか、ミナコ先生がそういって私をリンクサイドに下す。不安定なブレードで床に足をつけたとき、脈打つ心臓が速さを増した。リンクへの入口の前に、女の子がにこにこと笑って立っている。
「勇利くんっちいうと?ね、一緒に滑ろうっちゃ!」
差し出された手袋をした手。その瞳はただひたすらに楽しい遊びへの誘いに煌めいて、純粋に好きなもので埋め尽くされていた。一緒に滑れたら楽しい。遊び相手が欲しい。好きなものを好きになってもらいたい。純粋で、穢れなくて、真っ直ぐな思いに、吸い寄せられるように手を伸ばす。駄目だと私が叫ぶ。手を取ってはいけない。決めたじゃないか。諦めるんだ。戻れ、取り返しがつかなくなる。お願い、やめて勇利!
なのに、体が言うことを利かない。伸ばした腕が少女の手を取る。重なって、引っ張られると小さな体は容易く一歩を踏み出し、真白い氷の上にかつん、とブレードの先が音をたてて着氷して―――つるん、と見事に滑った。
「あっちゃー。やっぱ転んだかー」
「だいじょうぶ?勇利くん!」
ごちん、と結構痛々しい音をたてて額を強かに氷に打ち付ける。受け身を取る暇もなかったのは子供故の鈍さかそれともやめろと叫ぶことに必死すぎたのか勝生勇利に引きずられていたからか。今生一度も、前世前々世、そのまた前世と、まぁ過去を振り返ってみてもスケートなんてした回数は片手の指も余るほどの回数だ。未経験にも等しいので、氷の上でしかもこんな細い刃物みたいな靴でバランスを取れって言う方が土台無理な話。
当然といえば当然の結果に慌てる女の子はいいとして爆笑するミナコ先生はいかがなものか。顔面からいったわね!と笑われて、だいじょうぶ?立てる?とおろおろとしゃがみこんで頭を撫でる女の子の優しさが痛い。だがそれ以上に、―――冷たい氷の温度が、胸を突き刺す。あぁ、あぁ。駄目だ。だから駄目だといったのだ。ここに立てば狂ってしまう。私が立てた人生設計が。勝生勇利の願いのために企てていたことが。音をたてて崩れて行ってしまう。肩が震える。立ち上がる気力もない。氷の上にへばりついて、額を押し付ける。冷たい、冷たい氷の上。だけど何よりも愛を伝えあった、口下手な「僕」の雄弁なキャンバス。
―――いとおしい、と。彼が叫んだ瞬間、何かが弾け飛んだ気がした。
「ちょっと、勇利。そろそろ起きなさい?」
さすがにあまりにも長いこと俯せで転んだままの私を見かねて、ミナコ先生が後ろから脇に手を差し込んだ。そのまま引き上げようとする先生に、やめてくれ!と叫びそうになった。ぐずるように身を捩ったが、皆困るでしょう、と窘めるように言われてぐいっと力任せに上半身を引っ張られる。大人と子供では当然のことながら抵抗などないも同然で、氷の上に座り込んだまま、上半身だけ持ちあがった状態でミナコ先生が後ろから顔を覗き込んでぎょっと目を見開いた。
「勇利?なに?そんなに痛かったの?ちょ、ほら。どこ?見せてみなさい」
慌てたようにミナコ先生が前髪を掻き上げて額を露わにする。目の前のミナコ先生が酷くぼやけて見えて、ぼたぼたと頬を伝い落ちるものに違うのだと言いたくなった。
いや、痛いことには痛かったのだが、それじゃない。そうじゃない。痛いのは、そこじゃない。女の子が戸惑っている。痛い?痛い?と言いながら背中を撫でてくれているのがわかるがそれに応える余裕はなかった。あぁ、申し訳ない。そう思うのに、取り繕えない自分がいる。当たり前だ。これは、この涙は、―――勝生勇利の、涙だ。
「――っぅぅ」
ぼたぼたと元栓が緩んだのかそれとも壊れたのか、止まることを忘れたかのように次から次へと浮かんでは、表面張力の限界を超えて落ちていく雫が氷の上に丸く形を残していく。
その様子に、ようやくミナコ先生が違和感を覚えた。額を撫でて私を抱きしめ、大丈夫よ、と言っていた動きを止めてそっと体を離す。声もあげず。痛がりもせず。ただ、涙だけを流す。ひどく傷ついたように、感動したように、感極まったように。
涙だけが頬を伝い落ちて、その泣き方の異常性を、彼女は眉間に皺を寄せることで表した。
「勇利・・・?」
あぁ、ミナコ先生。ごめんなさい。これは私の涙ではないのです。ましてや4歳の勝生勇利の涙でもないのです。これは、これは、―――狂った男の、妄執の涙なのです。
かは、と息を零す。痛いほどに打ち付けはじめた心臓を守るように服の上からぐしゃりと押さえつけて、目に焼き付けるように白く冷たい銀盤を睨みつける。
叫んでいる。呼んでいる。僕の居場所だと、ここで生きていたいんだと、妄執の残影が未練たらしく喚いている。違うでしょう。譲ったでしょう。私に、押し付けたじゃないか。助けてって、言ったじゃないか。何を捨てても、誰を犠牲にしてもと、そう願ったじゃないか!!なのに、それなのに!!!
「ふ、ぅぅ・・・あぁ・・・!」
痛い、痛い。心臓が痛い。勝生勇利が喚いている。それでも愛してると叫んでいる。あぁでも諦めなくてはと嘆いて、それでも捨てられないと絶望している。
どっくん、どっくん、どっくん。
心臓が喚き立てる。暴れて、動いて、脈打って、痛いほどに、苦しいほどに――この冷たい氷の上を諦めるのならば、死んでしまえと言っているように。
苦しい、苦しい、痛いよ、あぁもう本当に、本当に、勝生勇利という男は!!
「ばか、だなぁ・・・!」
鈍感で負けず嫌いでプライドが高くて頑固で弱虫な、傍迷惑な男この上ない!
かふ、と一度不恰好な呼吸を零して、私の身体は後ろに倒れていく。
心臓と脳みそのオーバーワークだ。あぁ、またしても家族とミナコ先生に迷惑をかけてしまう。それと、偶然居合わせた女の子にもトラウマを与えてしまうかもしれない。
本当にごめん、と言うしかないのに、それでも逃げるには一旦全てを手放さなければいけないというのだから、私その内持病持ちのレッテル貼られそう、と一抹の懸念を覚える。
あぁでも、しょうがないよね。泣き濡れた頬を撫でる冷たい感触に目を閉じて、全てを投げ捨てることを決めた。あぁ・・・私の意思は、一体どこまで許されるのか。
そっと抱き寄せられた冷たい抱擁が誰のものなのか、知る必要はないと思った。