女神様のお気に召すままっ
HEY!世界の大舞台でぶっ倒れて方々に大迷惑をかけた張本人、勝生勇利改めだよこんにちは!
まぁこうなることはわかっていたけどもうちょっと根性だしてインタビュー終わるぐらいまでは耐え忍ぶべきだったなって病院のベッドの上で思ったけどしょうがないよね限界だったんだもん!
ちなみに目が覚めたらチェレスティーノからは心配と説教と褒め言葉とよくわからない比率で延々泣かれちゃっておまけに携帯のラインやメールや着歴がなんかすごいことになっててちょっと携帯を見るのが怖かったかな!
まぁぶっ倒れたときにはバックヤードに引っ込んでいたし且つインタビュー前という奇跡的なタイミングでかろうじてお茶の間に醜態を晒すとまではいかなかったし、選手陣にもあまり知られずに済んだのが不幸中の幸いだったね!
いやだってさ、滑走した後の選手が意識不明で病院行きとか普通にメンタルにくるじゃない。不可抗力であり自業自得でもあるが、いらぬ動揺を与えたかったわけじゃない。彼らには最高の舞台で最高の演技をして欲しいと常々思っているし、できればその姿を近くで見ていたかったなぁと思うよ。だって普通に生きてたらこんな場所でこんなことしてないからね。まさに今この人生だからこそできることである。できるなら客席ぐらいで他人事としてみるぐらいのポジションが望ましいが、無いものねだりは空しいので諦めるよ!
この大会には知り合いも出てるし、ヴィクトルの演技はスケーターとして生でみる機会があるならぜひとも見ておきたい一品なのは間違いないし!他の選手だって世界最高峰のトップ選手ばかりだ。彼らの演技を見るだけで勉強になるし純粋に感動できるのがすごいよね。ほら今私スケート選手じゃん?前世ではスケートなんて「どこでジャンプの種類見分けるん?」「点数どうやってつけてんの?」って流し見程度の知識だったのが今生ではもうバリバリわかるんだよ?理解できるんだよ?技術力も然ることながら表現力とかもおおよそなんとなくわかるわけですよまぁこれは人生経験を経て歌って踊れるアイドル達のマジカルミラクル現象を生で見たこともあるからっていう経験値もあるかもしれないが。
つまり理解できる、それだけでもう見る価値あり。むしろ必見見なくちゃ損。なのにそれを見られなかったのがとても残念だが、まぁ今回に関してはちゃんと生きているだけで儲けものだと思うので、我儘は言うまい。
いやぁ、あの発作は毎回毎回自分死んだと思うぐらいの衝撃だが、今回は輪をかけて無理をした自覚があるのでペナルティで命掻っ攫われても可笑しくないなって今思ったよ。うん。生きてるってことはまだやることあんだろ?って言われてる気もするが。
「本当にバンケットに参加するのか?無理をしなくてもいいんだぞ、勇利」
そんなこんなでこの大会で最後にこなさなくてはならないとみられる大仕事を迎えるため、フォーマルスーツをきっかりと着込んでホテルの廊下で心配そうに身振り手振りを交えて言葉を重ねるコーチに左胸に手を置いて心音を確かめ、うむ、と一つ瞬きをする。
「大丈夫ですよチェレスティーノ。医者からもどこも異常はないと言われましたし、僕も不調は感じていないので」
「だが・・・」
にこ、と笑顔を浮かべればチェレスティーノは眉間に皺を寄せて渋い顔をする。まぁ、あれだけ大袈裟に意識を飛ばせば、診断上何もなかったとしても心配するわな。
今までが健康優良児且つ怪我らしい怪我もしてこなかった生徒が急にぶっ倒れればそりゃ動揺もするというものである。滑走直前からちょっと可笑しいな、という様子は見られていたので、余計にチェレスティーノの責任感を煽ってしまったのも私の落ち度だ。
もしも止めていれば、な事態にならなくて本当によかった。違うんだよ、人様にそんな糞重たいもの背負わせたいわけじゃないんだよ。本当ごめんねコーチ!
一応検査はして貰ったが、相変わらず原因は不明のまま。体自体に異常がどこにもなく精神的圧迫感から解放された結果ではなかろうかというのが大本の診断結果だった。その曖昧な診断にでしょうね、としか返せなかった私と違ってチェレスティーノは不満そうだったが、昔もこういうことがあったと言えば、私のメンタルを心配されたものだ。結構図太い自信はあるんですけどねぇ。しょうがないよねぇ人1人の人生色々歪めてますものねぇ。たかが1人の人間の人生と言うなかれ。勝生勇利のポジションって日本フィギュア界にとって結構、いや割と大きいのである。ある意味日本スケートの歴史、もっと言えば世界のスケートの歴史にも関与する中々のキーパーソンである。小さいといえば小さいし、大きいと言えば大きいが、影響が少ないかと言われるとむしろ大きいに分類する程度にはそこそこの人物である。その人物の中身が私。そして私の行動によって左右される人物たちも若干名。うん。刀剣男士がやってこないかすごく心配である。
でもまぁまだ来ないからきっと許されてるんだと思いたい。それにまだ大仕事が残ってるしねぇ。この仕上がり具合によって私の人生目標の達成度が変わるのである。超重要だ。
「まぁそれに、仮にもメダリストですから顔だけでも出した方がいいでしょうし」
「仮にもとはなんだ仮にもとは。全く、お前のその自己評価の低さだけは中々直らないな・・・」
エキシビジョンも体調不良で出演辞退ということをやかしてしまったので(意識不明状態だったから仕方ないんだけど)これぐらいは顔を出さないと・・・新規スポンサーも見つかるかもだし。お金って大事。
溜息混じりに言えば、チェレスティーノが器用に片眉を動かしてふぅ、と首を横に振った。咎めるような呆れたようなねめつける視線に思わず首を竦める。それ昔っからよく言われるけど、だって、ねぇ?
「・・・未だに自分が3位入賞したなんて信じられないんですよ、本当に」
ぼそっと呟き、いやもう本当、なんでそうなった?と私は小首を傾げた。だって3位だよ3位。3位入賞銅メダル。表彰台に登れるんだよマジで?と目をかっぴらくのは当然じゃない?まぁ表彰式は銅メダリスト不在で終わったけど。折角の晴れ舞台にいなかったのが自分らしいというかむしろぶっ倒れてありがとうと言うべきか。だってそんなことになったら私多分緊張で死んじゃう。しかし昏倒して目が覚めたベッドの上でコーチに説教されながらおめでとうと言われた私の混乱具合半端じゃなかったからね?ハグされながら何かの間違いじゃないの?と真顔で聞いたら笑いながらメダル渡されてもう一回ベッドの住人に戻りかけたんだからね?
鈍く輝く銅色の丸い物体にまさかそんなミラクルが起こるなんて誰が予想しただろうか誰もしてないよ!!最下位だと思ってた!だって勇利最下位だったじゃん!ミスとか色々あったし点数そんなに伸びないと思ってたしていうかそんなこと度外視してやってたし!!
こんな現実受け止められないよ!!嫌だこれなになんの罠なの返還するぅぅ!!と思わず叫べばめっちゃコーチに心配された。ごめんなさい錯乱してました。だってメダルとか!世界規模のメダルとか!!!!嫌だわ私には超重いんですけどなんでこれ今私の手元にあるん??もっと相応しい人いるよね?え?私?私ですか??と三度混乱。
震える手でそっとサイドボードに置いた私悪くない。恐れ多くて触れない。やだ、今素手だったよ手袋買わなきゃ・・・!
そんなこんなで厳重にタオルとかで包んでスーツケースに収めて保管している銅メダルは今後どう扱えばいいのかと頭を抱える。国内大会のメダルと一緒に並べていいのかな?いや気持ち的にやりづれぇ。喜ぶ前に恐れおののく私にチェレスティーノコーチが「その反応謎すぎる」とばかりに首を傾げて笑っていたのが印象的だったが、これ私じゃないと絶対わからない感覚だよね。アスリートでありながら一般人というこの矛盾。本当精神的に疲れるわぁ・・・。
そんな通常とは違う疲労感を噛み締めながら、ホテルのホールで開かれる豪華絢爛な慰労会にコーチを伴いぬるっと参入する。まさしくぬるっと、である。よく「何時の間に来たんだお前」と驚かれるぐらいには気配もなく存在を溶け込ませることには慣れている。逆を言えば存在感がないともいえるかもしれないが、余計な人に絡まれなくて済むから楽なんだよね。チェレスティーノという隠れ蓑があると尚の事私の隠密スキルは輝くのである。体格的にも隠れるからね!あ、矛盾してるなこの表現。
ていうか勝生勇利の顔が整っていないとは言わないが(ていうか割かしイケメンの部類だと思ってる)華があるかと言われるとそんなことはない、と言える程度の顔である。
少なくともそこらでシャンパングラス片手に談笑している外国産イケメン共と比べると地味なのは否めない。意図的に地味にしているのもあるが、着飾っても見劣りするのは自明の理だ。卑下ではないと言うよ。客観的にみて、本当に、率直に、私という目線から見て、勝生勇利は決してブサイクではないし年の割にいささか童顔が目立つ部分もあるがそれでもカッコいいと言っても差支えない程度の顔面レベルであることは認めても、それが例えばスイスのクリストフ・ジャコメッティだとか、ロシアのヴィクトル・ニキフォロフだとか、そういう面子の顔面レベルに見合うかと言われると系統も違うことながらいや無理だよね、と言えるレベルなのだ。
氷の上と土の上では大分印象が違うからなぁ勇利って。氷の上では目一杯努力して咲いているが、地面に降りれば途端に蕾になっちゃう朝顔みたいな男である。
ていうか勇利の場合、根本的に顔で見せてるわけじゃなくて空気というか雰囲気でイケメンを語るタイプなんだと思う。顔はそれほどじゃなくても「なんとなくあの人カッコいいよね」と言わせる空気というか?それで多分外国産イケメン共と並び立ってるんだと・・・いやすごくね?顔じゃなくて雰囲気で並び立てるってすごくね?
現自分ながら過去の勇利よ。やっぱりお前どこにでもいるフィギュアスケーターじゃないって。雰囲気で世界のイケメンと渡り合えるってすごいよ。さすが魔性のカツ丼。
人間ってものすごい美形よりちょっとイケメンぐらいの方が手が届きやすくて親近感持ちやすいんだよね。人間顔だけじゃないんだよ。
でも今はそのキラキラアスリートオーラは完全に消してどこにでもいる一般人になっているので皆さん見事に銅メダリストをスルーである。別の場所で美女やらアスリートやら大手企業やらに囲まれてちょっとした人の山が形成されている金メダリストと銀メダリストに比べると大層貧相な有様である。ああーこれは別次元の生き物だわぁ。大変そうだなぁ。そつのない笑顔で談笑してる辺り慣れているんだろうが、あれじゃ食事を味わう暇もないだろう。このローストビーフ美味しいのに。もぐもぐ。
勇利もこうやって人に囲まれてキラキラしてる彼らをみて違う世界の人間だとか思って酒をカッくらって悪夢のバンケットにしたんだなぁ・・・絶対避けねばならぬ。
まぁヤケ酒呑むような理由もないしする気もないから問題ないけどさ。おかげでゆっくりと食事ができます。基本的にコミュ症というかやっぱりあんまり関わりたくないなぁという意識が強いので、必要以上に目立つ彼らには本当に大助かりである。ていうかヴィクトルとは接触する気はないからね。これさえ乗り越えれば最早ミッションはコンプリートしたも同然だ。頑張れ私もうちょっと!
でもこっちもお仕事というか必要最低限の挨拶回りというのはしなくてはならないので(スポンサーとかね)それだけはちゃちゃっと済ませるけど。とりあえず皆銅メダルおめでとうの後に口々に「素晴らしい演技だった」とか「あんなに感動したのは初めてだ」とか「一生忘れられない演技だった」とか過剰にお褒めの言葉を頂くんですがそれ誰の演技です?皇帝さんとかエロスの権化とかと間違えてないかな?まぁ日本人お得意のアルカイックスマイルで聞き流しましたが。自分の演技みてないしなんなら滑り終わった後の周囲の反応もあの時は全く認識できていなかったから、正直自分と周囲の評価の温度差が半端ないなって思ってる。私どういう滑りしてたんだろう本気で。
首を傾げなら嗜む程度のお酒で唇を湿らせ、ほどよく空腹を満たし、同じ日本人選手と時々会話を弾ませ(やっぱり過剰なぐらい褒められるんだが、とりあえず皆感受性豊かすすぎない?)うろり、と視線を泳がせる。さて、あと1人話をしたらさっさと会場を後にしたいんだが・・・。グラスで顔を隠しつつバンケット会場を見渡し、流した視線に引っかかった影にこくり、とシャンパンを嚥下した。・・・見つけた。けどすぐには行かない。様子を探り、周囲に警戒すべき人影がないことを確認する。よし、ロシアの皇帝はどこぞの美女と楽しく談笑してるや。ならば今がチャンス。グラスを通りがかったボーイに渡し、颯爽と歩き出す。するするっとほろ酔い気分の重役たちの間をすり抜け、ちょっとふらついたイタリアの女性選手を軽く支えて送り出し、勝生選手!とかけられた声にハァイ、と手を振って、ずんずんと近づいてその小柄な背中に声をかけた。
「こんばんは、プリセツキー選手」
「っお前・・!」
声をかければ、お酒はまだ駄目だろうから中にジュースが入っていると思われるグラスを片手に、肩を跳ねさせて勢いよく天使・・・基妖精・・・基世界ジュニア王者のユーリ・プリセツキーが目を見開いた。肩書き多いなこの子も。
にこ、と笑うと眉間に皺が寄せられて、片側が前髪で隠れているせいで片目しか見えない緑色の目が険しく細められた。眼付けられてるような顔だが、これが彼の通常だと思いたい。そうでなかったら嘘くさくても愛想笑いぐらい咄嗟にできるように指導しないと彼の今後が心配だ。世の中笑っていれば大概なんとかなるものである。
「世界ジュニア優勝おめでとう。それから、あの時は本当にありがとう。助かったよ」
ほらあの時お礼はあとでちゃんとするって言ったからね。言ったことは守らねば。それが私にとって危ない綱渡りでも、あの時は本当に天の助けかと思ったのだ。彼がいなければ滑れなかっただろうし、滑れたとしても3位入賞などできなかったことは間違いない。今後ああして私が滑ることもないだろうし・・・本当に、彼には感謝してもしきれない。
微笑みながらお礼を述べれば、彼は眉間にぐぐぐっと深い谷間を作ってぎゅっとグラスを握りしめた。・・・割らないよな?薄いガラス製品に籠められる握力に咄嗟にそんな心配が浮かんだが、彼はちっと舌打ちをしてそっぽを向いた。ふわっと動きに合わせて肩上で切りそろえられた細い金糸の髪が揺れ動く。
「・・銅メダリストがこんなところで何やってんだよ」
顔を背けたままぼそりと問われて、こんなところでって、と小首を傾げた。飲み食いしてますが?・・・いやまぁ暗に文化交流してこなくていいのかってことを言っているんだろうけど。
「最低限は済ませてきたから大丈夫だよ」
「ふぅん。あいつらは忙しそうだけどな」
「周りが放っておかないタイプだからね彼らは。特にニキフォロフ選手なんかはそういうタイプでしょ」
あんなに華がある人なら蜜に群がる虫のごとく人が寄ってくるだろう。大変だな、としみじみとして言えば変なものを見るような目でプリセツキーが私を見る。
「てめぇだって、」
「うん?」
「っなんでもねぇ!はっそうだな。たかが3位のジャパニーズとじゃ格が違うって奴だな!」
「本当だよね。むしろ3位であることも信じられないよね」
いや全くその通りだよプリセツキー。私が3位って何かの事故じゃないかな。そういえば私の後の滑走者達のミスが目立ってたっていうし、本当に運が良かったんだなー。まぁそれも勝負の世界では重要なものだし、殊更に卑下する材料でもないけど。
いささか不自然に台詞を区切って、挑発的に鼻で笑った彼にうんうん、と深く頷けば、彼は酢を飲み込んだような顔をして、ハァァ?!と声を荒げた。え、なんぞ?
「馬鹿かお前!そこは同意するところじゃねぇだろ!?」
「え?自分で言っておきながら何を」
「うるせぇ馬鹿!あんな滑りを見せつけておいてふざけたこといってんじゃねぇぞこの豚!」
「豚?!」
え、そこまで言う!?ていうかそんなに太ってないし!むしろ今絶好調に絞ってるところだし!!・・・え、太ってる?思わず自分の腹部に目線をやると、ブァァァカ!!と更に罵られた。・・・プリセツキー。これ私だからまだ聞き流せるけど普通にほぼほぼ初対面の人間にこんな態度取ったら村八分にされるところだよ。勇利の記憶で君を知っているし、精神年齢ピー才の私だから苦笑で終わるんだよ。他の人にしたらマジダメだからね。
「てめぇなんかにメダルは似合わねぇんだよ!来年俺がシニアに上がったら、てめぇの首に下げるメダルなんかねぇからな!ユーリは2人もいらねぇんだよ!!」
びしぃ!と親指を下に向けて言われて、一瞬ポカーンと目を丸くする。とりあえずこういう場所でそういう指の形はよくないな、と思うが言いきってやった!とばかりに鼻を膨らませて胸を張るプリセツキーは見た目相応で大変可愛らしい。口は悪いけど。
えぇとここはなんて返したら正解になるのかな?困惑したようにきゅっと眉を下げ気味に曖昧に口元を歪めたところで、ユーリ!!と雷が落ちてきたかのようなしわがれた低音が鼓膜を震わせた。それにげっとばかりにプリセツキーの顔が嫌そうに歪む。
「お前は!他国の選手に向かって何を言っておるんだ!?」
「うるせーのがきた・・・」
「ユーリ!!」
ぼそっと呟いた声に地獄耳かと思われるほど俊敏に反応し、咎めるように鋭い声が飛ぶ。
視線を向ければロシアの名コーチと名高いきらりと光る頭頂部が眩しい・・・おっと失言。厳めしい顔つきに風格を漂わせた老人・・・ヤコフ・フェルツマン氏がずんずんと足音も高く近寄ってきていた。顔を赤くさせてキリリと眦を吊り上げて、ギン、とプリセツキーを睨みつける。
「ここはバンケットだぞ。口には十分気をつけろとあれほど言っただろう」
「あーはいはい。耳にタコができるぐらい聞いたっつーの」
「聞いていたなら実行せんか!全く・・すまない、ユウリ・カツキ。うちの選手が失礼をした」
グラスで塞がっていない方の手で片耳を塞ぎ、説教など聞きたくありません、とありありと態度に出してプリセツキーがつんとそっぽを向く。それに更にヤコフ氏が眦を吊り上げたが、一つ深く息を吐きだすと気持ちを切り替えるようにぐるり、とこちらを向いた。
思わず成り行きを見守っていた私は突然視線を向けられ、あまつさえ謝罪をされてドキっと心臓を跳ねさせる。おお、完全に油断してた・・・!
「あ、いえ。気にしていませんので。競技者ですから、これぐらい強気でなければ務まりませんよ。むしろ、これほど向上心のある生徒に恵まれて、ミスターも誇らしいのでは?」
ふふ、と笑みを浮かべてそれらしいことを返しておく。まぁ口の悪さは難だと思うが、強気でいることも相手に絶対勝つという気概も競技者には必要不可欠な代物だ。
私にはそれが欠如してるからなぁ。競い合うって苦手なんだよね。勝ち負けにさほど拘らない性質だし。あぁそういえばこれが終われば私がスケートを続ける意味もないし、辞めてもいいんだよなぁ。年齢的にはまだ早いような気もするけど、フィギュアスケートという競技から考えれば早すぎるというほどでもない。GPFの銅メダルだし、そこそこ綺麗な終わりじゃないか?今まで成り行き任せに(ていうかほぼ強制的に)勇利の人生を辿るようにやってきたが、本来の目的は離れたところで囲まれてる銀盤の皇帝を生かすことだ。ロシアの至宝。生ける伝説。彼を死なせないことが目的なので、このバンケットが無事に終わればおおよそのフラグはへし折ったも同然。その後、無理にスケートを続けるよりはさくっとやめた方がよりフラグも折りやすいというものだ。
あぁでもまた発作が起きるのだろうか?それはそれでなぁ・・・いや、今回みたいに反抗しようと思えばできるのだ。いっそそれで入院生活になったとしても、あるいは、死んだとしても。・・・勇利の願いが叶うのならば、それはそれで一つの道ではなかろうか。
「そんなにいいことばかりではないがな。そういって貰えるとこちらも助かる。我が強い奴らばかりだが、来シーズンでは更に飛躍してくれることだろう」
「自慢の生徒さん達なんですね。来年が楽しみです――プリセツキー選手が皇帝を下すところ、見てみたいものですね」
くすっと口元をゆるめて、故意的に細めた目線をうっそりと向ける。大人同士のやり取り、とばかりに滑る会話をつまらなそうに聞いていた彼が、その一瞬目を見開いて次の瞬間にはにぃ、と口角を吊り上げた。
「ったりめぇだ。あそこでへらへらしてる男も、てめぇも。俺が全員ぶっ潰す!」
「ユーリ」
「来シーズンは荒れそうですね。・・・では、僕はこれで。楽しい時間でした。また機会があれば」
頃合いだ。会話に区切りがついたと見て、軽く会釈をして踵を返す。ヤコフ氏も頷き、プリセツキーはえ、とばかりに目を丸くしていたが気にせずに背中を向けた。
当初の目的は果たしたのだ。今後関わることはそうないだろう。大会でも被らなければそれこそ接触などしないだろうし、私に関しては今後スケートを続けるとも限らない。
うんうん。中々理想的に進んでるぞ。このままバンケットを去って部屋に戻ればミッションコンプリートだ!ふふん、と鼻歌を歌いながら足取りも軽くホールを突っ切ろうとした最中、ぞわっと背中に・・・いや、正確には、臀部に悪寒が走った。この気配は・・・!
「っクリス!」
「あーまた失敗かぁ。勇利はいつもつれないね」
あの頃が懐かしいよ、と言いながらお尻に伸ばしていた手を払いのけられた垂れ目のイケメン色男・・・少しだけ着崩されたスーツから見える白い首筋の色香がなんともいえない、色気の破壊兵器と名高い銀盤のエロスが軽く肩を竦めてウインクを飛ばした。低音の腰に響くような艶のある声が、そっと耳元に唇をよせて囁く。
「勇利のお尻が恋しいよ」
「クリス、言う相手間違えてる」
せめて女性か、意中の相手にそのウィスパーボイスは使うべきだ。鍛えてるから堅いだけだろうこんなお尻にそこまでの魅力はないと思う。あと形でいえばクリスのお尻もいいお尻だと思う。ぞくぞくと背筋に走るなんとも言えない感覚に総毛立ちながら、呆れた、という態度を隠さずに言えばにっこりとクリス・・・クリストフ・ジャコメッティは笑った。
「勇利のお尻は特別だよ!形も感触も申し分ないからね。それに女性のお尻を触ったら俺が捕まってしまうよ」
「それが僕のお尻を触っていい理由にはなりません。・・まぁいいや。銀メダルおめでとう、クリス」
どっちにしろセクハラだと言いたいが、これが彼なりのスキンシップで他意はない・・・はずなので毎度のことながら見逃してあげる。まぁ正直こうして彼が絡んでくれるおかげで余計なトラブルが減っているのも事実なのだ。余計なトラブルって何かって?色々だよ、色々。
苦笑交じりに、今回の栄えある銀メダリストにお祝いの言葉をかけると彼は肉厚の唇をきゅっと歪めてありがとう、と返事を返した。
「そっちも、銅メダルおめでとう」
「ありがとう。まさか僕がメダルを取れるとは思ってなかったけどね」
「成績で言えば確かに快挙だったかもしれないけど・・・あの滑りを見ちゃったらそうとも言えないなぁ」
「クリスまでそんなこと言うの?正直僕あの時のことほぼほぼ覚えてないから実感がわかないんだよね」
「あぁ、倒れたんだって?大丈夫なのかい?」
「体に異常はなかったから。精神的なものかな?」
暗にもう平気だと告げて近くのテーブルから小皿に軽く抓めるものをひょいひょい、と重ねてクリスに手渡す。見ていた限り彼はお酒は飲んでいてもまだ食事はまともに取っていたようには見えなかったから、とりあえず少しでもお腹に詰めといたほうがいい。空きっ腹にお酒だけはいかんよ。
「ありがとう。勇利はもう食べたの?」
「そこそこには。僕はクリスほど人気はないからね」
「銅メダリストが何を・・・って言いたいけど、また気配消してたのかい?俺、勇利がジャパニーズニンジャの末裔って言われても信じるよ」
今日だって見つけるの苦労したんだから、と苦笑いで不満をぶつけられてあはは、と笑って誤魔化す。あながち間違いじゃないな、と内心で思うものの、言えるはずもないのでお口にチャック。
「しかもそのまま帰ろうとしてたでしょ。酷いなぁ友人に挨拶もせずに帰るだなんて」
「クリスが忙しそうだったから遠慮したんだよ。あとでラインぐらいはいれるつもりだったって」
多分。内心の不穏な付けたしに気づいたわけでもあるまいに、胡乱気にクリスが目を細める。可笑しいな、そこまで疑われるほどの筆不精をしてきた記憶はないんだが。とりあえずわらっとこ。にこ!
「時々勇利の笑顔ってすごく嘘くさいよね~」
「えぇ、酷いなぁ。それでいうなら、あそこにいる人の方がよっぽど・・・」
まぁ今のはわざとらしかったと自覚しているのでくすくすと悪戯っ子めいて忍び笑いを零し、視線を横に流して・・・あ゛っ。やべぇ、と思った時にはすでに遅かった。宝石のようなアイスブルーと目が合った瞬間、その輝きが一層増した気がした。
「ハァイクリス。楽しそうだね?」
「ヴィクトル。もう彼女はいいのかい?」
にこやかに手を振りながら、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした白い面の銀髪の美丈夫・・・私が最も警戒しておかなければならなかったリビングレジェンドが、透き通ったアイスブルーの瞳を煌めかせて近寄ってくる。多分っていうか確実に高いんだろうな、というスーツを着られることもなく着こなし、むしろ彼以外に似合わないと言わせるような出で立ちはさすがというべきか。
その服装に見劣りしない顔立ちも然ることながらアルコールでほんのりと染まった桃色の肌がやけに性的だ。服の上からでもわかるスタイルの良さと醸し出す色香に、猫の目のように瞳が細まる。白人だからか、肌の色の変化がわかりやすいよね。クリスもだけど。
「今日はもういいかなぁ。みんな同じようなことばかりだからね」
「君は今夜の主役だから、内容が被るのは仕方ないよ」
「それはそうだけど」
人差し指を唇に押し当て、ふに、と歪ませながら退屈そうに唇を尖らせる。
それでも笑んだ口元には彼の処世術が身についているようで、ドキドキと高鳴り始めた心臓にうっさいな、とぼやきながらそろりと足を動かした。
いかん、これはフラグが立つフラグ!!経験上わかる、わかるぞ。ビンビンに立ちそうな旗の気配が!!!あぁクリスなんか無視して逃げればよかったぁぁぁ!!
後悔がわが身を襲うも、もう遅い。とりあえず如何に彼の興味を削ぐか。あるいは絡まれない前に逃げおおせるか。そこに意識を集中させねば、と近くにきた男の存在に全神経を研ぎ澄ませると、クリスと談笑していた男はつい、と視線を横に流した。そう、まさに今からどう動こうかな、と考えていた私に、煌めくようなアイスブルーが向けられる。ひぃ!びくん、と肩を跳ねさせると、こてん、と男の首が傾く。さらさらと細く光る銀髪が男の色づいた頬を滑った。
「クリス、彼は?ジュニアの子かい?」
「ヴィクトル、本気で言ってるの?まぁ、確かに勇利はジュニアでも通じるぐらい可愛い顔をしてるけど」
うぉい。不思議そうな顔に本気でそう言っていることは伺い知れるリビングレジェンド・・・基、ロシアの至宝ヴィクトル・ニキフォロフに顔が引きつる。まぁそれに返すクリスも大概だけどな!!ちょっといくら童顔でアジア人が若く見えるからって!!ジュニアはひどくない!?これでももう成人済なんですけど?!
半目になってねめつけそうになる視線を根性で押しとどめ、薄い笑顔を張り付ける。お前、後で覚えてろよ。差し入れのケーキもう持っていかないからな!!
その怨念が届いたのかわからないが、クリスがはっとこちらを見やってこほん、と咳払いをした。
「あーヴィクトル。彼はユウリ・カツキ。今日の銅メダリストだよ」
「Really!?えぇ、本当に?彼が??」
「演技してる時としてない時じゃ印象が大分違うから信じられないかもしれないけどね」
肩を竦めたクリスとぎょっと目を丸くして私とクリスを交互に見比べるヴィクトルに、私の微笑みの仮面も崩れそうだ。いや崩さないけど。
素でこいつら失礼な人間だな、と思うけどこの程度で苛々していたら人生やっていけない。まぁ事実、氷の上と今とじゃ印象が120%真逆であることは自覚しているし、半分ぐらい意図的にしていることなのである意味リビングレジェンドの目も欺けたということで誇らしく思っておこう。これってつまり、この状態で街中歩いていたらこの人達に気づかれることはほぼないってことだよね?よっしゃ。
「Oh・・・ジャパニーズは年齢がわかりにくいとは聞くけど、こんなにわからないものなんだね」
感心したようにマジマジと眺められ、居心地の悪さについ、と眉を動かす。私から見ればそっちも年齢差がわかりにくいけどね。欧米というか西洋人は大人っぽく見えるからなぁ・・・。アジア人とは逆だね!
「ふふ。でも会えてよかった!ユーリ、君とはぜひ話してみたいと思ってたんだよっ」
にこっと人好きのする笑顔を顔一杯に浮かべて、ヴィクトルが声を弾ませる。それにはぁ、と気の抜けた返事を返して、何故?とばかりに首を傾げた。・・・接点あったっけ?あってもクリスぐらいだよね?この大会でまともな知り合いってクリスぐらいなんだけど。疑問符付きで視線をクリスに向ければ彼は愉快そうに目を細めてフォークを翻して小皿のローストビーフを突いていた。あ、それ美味しかったよ。
「それはどうも?ニキフォロフさんも」
「ヴィクトルって呼んで!」
「・・・ヴィクトルさんも」
「ヴィクトル!と敬語もやめてね!」
「・・・・・・ヴィクトルも優勝おめでとう。こうして話せるなんて光栄です」
知ってる。こういうタイプは下手に反抗するとしつこいって。とりあえず印象に残さないためには下手に反抗的な態度を取るよりも彼のペースに合わせるようになぁなぁで行くことが望ましい。言われるがまま呼び名を訂正し、口調もできるだけ砕けるようにしながら無難に返せば、彼は何が楽しいのかニコニコ笑ってうん、ありがとう!と朗らかに受け答える。さすが氷の上だけではなくファンに対しても神対応と言わしめるヴィクトルだ。これだけ笑顔で愛想よく対応されればそりゃ誰も悪い気はしないよね。
「今回も圧巻の演技だったとか。生で見られなかったのが悔しいよ」
「離れずに傍にいて」は生で見たかったな。なにせ勇利とヴィクトルの思い出深いプログラムだし。残念そうに肩を落とすと、彼はニコニコ笑顔を張り付けたままそんなことないよ、と否定を口にした。え?
「俺の演技よりも、君のスケーティングの方が素晴らしかった!確信して言えるよ。今回、この大会で、誰よりも記憶に残ったのは君のスケーティングだ」
微笑みが、うっとりと恍惚を孕む。アルコールだけではない赤味が差した頬で、ヴィクトルは潤んで色味を濃くした碧い瞳でひたりと私を見下ろした。その目と目が合った瞬間、ひっと背筋に悪寒が走る。え、なに。今の。
「え、あの、いや、そんなことは・・・」
「とっても衝撃的だった。あんなに綺麗で、胸が躍るスケーティングを他人から感じたことはないよ。爪先から髪の先、氷を削るその音まで!君が奏でるその全てで、君は愛を謳っていたね。切なくて、優しくて、いとおしい。大好きだって、全身で叫んでいた。あぁ・・今でも思い出すだけでこんなに心臓が高鳴ってる!」
そういって、言葉を重ねるごとに興奮したように声を上擦らせて、ぐいっと取られた手で彼の胸板に強引に掌を押し当てられる。左胸の上に置いた手の下で、ヴィクトルの心臓がドッドッドッドッ、と早鐘を打っていた。本当だ、心臓が早い。
目を丸くさせると、彼はそれに満足そうに目を細めて囁くように吐息を零した。
「ねぇ、君はあの時、誰を思って滑っていたの?友人?恋人?家族?君が愛を捧げていたのは、一体だれ?」
上擦る声とは裏腹に、そこにはやけに真剣な、いや、切実な響きが込められていて、益々目を見開いた。困惑したようにクリスにちらりと目を向ければ、彼も戸惑いを隠せないように眉を下げている。私を食い入るように見つめるヴィクトルの横顔を眺めて、クリスは小さく首を横に振った。うん。わからないよねそりゃ。私もわからない。何故いきなり彼はこんなに息せき切って問い詰めてくるんだろう?
答えない私に、ヴィクトルは両手で私の手を包み込み、きゅっと眉を寄せ、ユーリ、聞いてる?とぶぅ、と拗ねたように唇を尖らせる。そのまるで幼い子供のような動作に、顔がいいからまだ許されるよね、と溜息を吐いた。
さて、彼はどういう回答をご所望なのか・・・というかどうやれば彼の興味を削げるのか・・・ヴィクトル、と躊躇いがちに名前を呟いて、そこでそういえば、と思い至る。
・・・そういえば彼ってこの時、イマジネーションの枯渇だとかなんだとか、まぁ要するに壁にぶち当たっていたんじゃないだろうか?なんだっけ、そうだ。観客を驚かせるような演技ができなくなって、「皇帝」という肩書きに自由が利かなくなって、彼は自分のスケートに迷いが生まれていた、はず?確かそんなことを勇利に言っていたような気がする。イマジネーションが涌かない自分なんて死んだようなものだとかなんだとか。要するにスケートが今あんまり楽しくないんだな。でも好きだから、なんとか打破をしたい。・・・彼のこの異様な興奮具合はそこからくるのか?でもなんで私?感情豊かな演技なら他の選手もできているんじゃないかな?
なんとなく自分の中で理由を見つけてみるも、だからといって私に対してこんな必死にならなくても、と思う。可笑しいな。勇利でもないのにヴィクトルの琴線に触れたのか?運命ってすげぇ。いや知っていたけど。え、でもこれって下手にやらかせばまた繰り返しちゃう?それとも皇帝引退ルート?・・・生きているなら引退ルートでもいいかな?
あぁでも、どうしよう。必死なんだよね、彼。ちら、と彼の整った白磁の顔を見やり、困ったように眉を下げる。拗ねたような表情の下で、ゆらりと揺れる眼差し。まるで迷子の子供のように心許ない、笑顔の下のか細い声が聞こえてくるようだ。
いい大人に途方に暮れた子供のような態度を取られると、素っ気なく突き返すのも気が引ける。とはいっても、この答えって他人があげられるものじゃないと思うんだけど。そもそも聞いたところで糸口になるんだろうか?疑問を挟みながら、私はふぅ、と息を零した。
「・・・あのスケートは、僕の最愛に捧げたものだよ」
「最愛?」
「そう。あぁ、言っておくけど恋人とかじゃないよ。どっちかというと家族かな?実家のね、犬に向けてなんだ」
「い、犬?」
「え、勇利あれ犬に向けた演技なの!?」
ポカン、と、口を開けて呆けた顔をするヴィクトルに、私は笑みを浮かべる。クリスはまさか、と言いたげに目を丸くして、私はその様子に呆れるよねぇ?と目を細めた。
「たかが犬に、と思うでしょ?でもね、世界中の誰よりも、何よりも。僕にとってあの子は大切な存在だったんだ」
だから捧げた。最初で最後の私のスケートを。他の誰でもない。あの子のためだけのスケートを。そっとヴィクトルの手を外して、自分の胸に添える。とくとくと鳴る心臓。壊れそうなほどに暴れていたあの中で、ただ一つ、その為だけに運命に反抗した。大概だなぁと思うけれど、譲れなかったから仕方ない。譲りたくなかったら精一杯滑ったのだ。あれほどの演技をこの先できるかはわからないし、そもそもあれほど「私」を見せる滑りは今後しないだろう。うん、と満足そうに頷いて、私は目を細めた。
「こう見えて僕、スケートを私物化したことはないんだよ。もうきっと、あの一回だけだろうね」
「ユーリ・・・」
「それが誰かの、ヴィクトルの心に響いたというのなら、きっとあなたも「最愛」を探しているのかもしれないね」
言えば、彼はハッと表情を引き締めてぐっと唇を引き結んだ。
1人で滑り続けるのは、誰にだって限界はあるだろう。例え孤独に銀盤の上に立とうとも、本当に孤独に滑る人間などいやしない。それは全てのスポーツに言えることだと思うし、全ての生き物にも言えることだ。もしもヴィクトルが今自分の納得できるスケートができていないというのなら、きっと自分が向けるべき愛の矛先を見失っているのだろう。
満たされなければ、満たし方も解らなくなるに違いない。ある意味で、次のステップに行くために、彼は試練を与えられているのだ。・・・フィギュアスケートという競技の中で、長老ともいえる年齢に差し掛かっておりながら今なお成長する兆しがあるとか、この男マジ怖い。感心と畏怖を交えて、私は告げる。
「ヴィクトルは旅行が好き?」
「え?」
「僕はどっちかというとインドアタイプだけど、ヴィクトルはアウトドアタイプっぽいよねぇ」
「あー、うん。まぁ、出歩くのは嫌いじゃないよ。そういえば、最近は旅行なんてしてないなぁ。家に帰ったらすぐ寝ちゃうかも」
「疲れてるんだねぇ。偶にはゆっくりする時間も取らなくちゃだめだよ。人間なんだから」
それこそ、シーズンが終わればゆっくり旅行でもしてみたら?最後にそう付け加えて、口を半開きにして固まっているヴィクトルに美形はどんな顔をしていても大概美形だな、としみじみと思いながらぺち、と彼の額を叩いた。そのままさらりと左目にかかる前髪を掠めるように指先を動かして、一瞬垣間見えた両目のアイスブルーを眺める。うん。綺麗。
「疲れたなら休むことも大事だよ。このバンケットの後でもね」
「・・・Да」
頑張りすぎると人間マジやばいことになるから。何事もほどほどが一番だよ。気の抜けた少しばかり無防備な様子で子供のように頷いたヴィクトルによしよし、と言葉だけで言って(さすがに頭は撫でられない)前髪から手を放し、前髪が彼の目元を覆い隠すと同時に視線を逸らして感心したように成り行きを見守っていたクリスを振り返った。
「クリス、僕そろそろ戻るよ」
「あ、うん。・・・え?」
「じゃあね、お疲れ様」
待って、勇利!と呼び止められたけれど、その声を無視してさっさと背中を向ける。いやだって、あれだよ。うん。自分で今フラグぶったてた気がしなくもないんだけど、まぁ、なんだ。コーチになってとまでは言ってないから、あそこまで(お前のコーチになるぞ☆発言等々)突飛な行動はしないだろうし、そもそもそこまで琴線を震わせていないはずだ。ヴィクトルが勇利を意識したのって、バンケットで弾けちゃったあの時でしょ?あれほどはっちゃけてないんだから、驚きと感動をそこまで与えてはいないはず。だってあんなのちょっとした助言だし、それぐらいのこと、誰でも言えるよね。ヤコフコーチでも言ってそうだし。
それにもうくったくただ。今日一日で色々ありすぎたんだよ・・・あー疲れた!チェレスティーノにはラインいれておけばいいだろうし、さっさと部屋に戻って寝ちゃおう。
それから日本に帰って、ヴィっちゃんのお墓参りもして・・・あー本当、どっと疲労感が押し寄せてくる。凝り固まった肩を解すように左肩に手を添えて揉みこみながら、まぁこれで若人が少しでも元気になればいいなーとうっすらと考える。
考えてみればヴィクトルもクリスも年上だけど、私からすればすっげぇ年下なんだよね。頑張る若者は応援しなくては。
「うーん。これであとはちゃんとヴィクトル生存ルートに乗せられたかなんだけど・・・どうなるかな」
ゲームみたいにわかればいいのに、現実だから確認のしようがない。こんな夢物語みたいな目にあっているのに、本当やってらんないなぁ。
くぁ、と欠伸を零して、世の理不尽に不満を零す。あとは運命が強制力を働かせなければいいんだが、どうなることやら。