女神様のお気に召すままっ



 青い縁の少々野暮ったい印象を見せる眼鏡の、少し厚めのレンズの奥から黒というよりも茶褐色の柔らかい色味を灯した双眸が僅かに伏し目がちになる。
 店内の暖色を伴った室内照明が青年を頭上から照らし、伏し目になった目元に存外に長い睫毛の影が僅かに揺れた。マスカラやつけ睫毛を駆使した人工の産物ではないので、長いといってもそこまで長くはないけれど、気だるげに瞬く姿は時々どきりと妙な色気を感じさせる。普段は気弱で割にのんびりとした人柄なのは知っているから、余計に際立つのかもしれない。演技中でもカメラの前でもない、ふとした瞬間に見せつけるような、本人にその気のない色香は性質が悪い。自覚などしていないだろうから、こちらも口にしようがないけれど。そんなことを頭の片隅で考えながら、ごくりと自身の喉が唾を嚥下する生々しい音がいやに響いた。

「本気かい?勝生君」
「はい。今このタイミングしかないと思うので」
「それは、いやでも、これからじゃないか!なのにどうして?」
「理由をあげるなら様々ですが、大きくあげるなら一つの目標が達成されたから、でしょうか」
「君はまだまだ上に行ける!それをこのファイナルで証明してみせた!」
「諸岡さん、声」

 興奮して上擦ったそれを、対照的な冷静な声で冷や水をさす。絶妙な合いの手にぐっと奥歯を噛みしめ、思わず握りしめていた拳を震える手で解くように力を緩めると目の前の青年は苦笑めいて太目の眉を下げた。

「貴方だから今話してるんです。連盟にも申請は出していますし、公式発表はまだですが近い内には。諸岡さんには事前に話しておきたくて」
「それは、光栄だけど、いやでも勝生君。考え直す気はないのか?」
「それ、連盟にも言われました」

 くすくす、と小さな笑い声は少し幼くて、彼のベビーフェイスと相まってどこか微笑ましさも感じるけれど浮かべるものは老成した何かだ。時折、彼の年齢が読めない時がある。間違いなく自分より年下で、けれど自分には及ぶべきもない世界で生きてきた、その差なのかとも思うけれど同じような境遇の相手と会話をしてもここまで年齢と中身の齟齬を起こさせる人間はそういない。
 それでも彼を不気味に忌避しないのは、彼が持ち得るどうしようもないほどの清廉さからだろうか。本人は俗物だよ、というし実際清廉潔白というほど清く正しくを真っ当しているわけでもない人間なのは理解しているけれど。それでも何故だろう。勝生勇利という存在が、その身に纏うものが冒し難い何かを彷彿とさせるのは。それとはまた別の話で、時々マイナスイオンでも放出してるんじゃないかなと思う時がありもするんだけど。
 なんというか、人をほっと安心させるような、変わらずそのまま受け流してくれるような気安さというべきか。彼が自覚しているかは知らないが、国内選手だけじゃなくて国外の選手からも試合前に彼の近くにいたがる人が多いと聞く。例を挙げるとすれば、彼のリンクメイトでもあったタイの選手とか。彼の傍にいると気が落ち着くというか、安心するらしい。僕も仕事前に彼と接触すると割合落ち着いて仕事できる気がするんだよね・・・って、そうじゃなくて。

「君はまだまだやれる。これから上を、金メダルだって十分に狙える。それこそ、あの皇帝にだって負けないはずだ。それでも?」
「買い被りすぎ、と言ったら怒ります?はは、・・・それでも、です」
「・・・このことは正式な発表があるまでは他言はしない。でも、心変わりをするなら大歓迎だ」
「ありがとうございます。心変わりは・・・どうでしょうね?」
「勝生君。僕は信じてる。君は、氷の上でこそ、輝く存在だ。・・というのは建前で、僕はまだまだ、君をあの銀盤で見ていたいよ」

 求めるように呟けば、彼はただ一言、ありがとうございます、とだけ囁いた。





 こんにちは!GPFでまさかの3位入賞を果たしちゃって運命の神様から「何しとんじゃワレェ」とお怒りを頂戴しかねない歴史改変をやらかした勝生勇利改めです!最近自分のテンションの行先がわからなくなってるけどまぁいっか!
 成り代わりというより自分じゃない他人になる経験ってほぼないからどこにテンション持っていけばいいのかわからないんだよね。勇利に成りきるにしてもそんなの無理だしかといって素の私のままでいくのもいかがなものかと思わないでもないし。まぁでも結局ほぼ素でいってるけどそもそも性別が違うから気を遣うところも違うっていう最早よくわからない状態になっているから正解がよくわからないよ!あと自分がアスリートになってる意味がわからない。アイドル事務所の事務員兼作曲家やら神子様やら後宮女官やら忍者やら本来の自分の人生では選択肢にも上がらない職業についてたことも意味わかんないけど。人生って選択できるっていうでしょ。あれ嘘だから。ほぼほぼなんか知らないけど流れに乗せられて決まってるから。おっかしいねぇ?まぁ人生なんてそんなもん!嘆いて恨んで悔やんだってどうにもこうにもなりゃしない。諦めと許容が肝心です。この歴史改変だって、今後わが身に降りかかるのかもしれない罰もお仕置きもとりあえず今は知らぬ存ぜぬを貫き通すまで。なるようになるし、なるようにしかならない。
 そんな私の人生目標もそろそろ達成の目途がついたので、ここらでちょっとインターバルを挟みたい。そんな欲求がむくむくと起き上がり、東京でのお仕事を終えて新幹線と電車を経由して帰ってきました我が故郷!若者の都会進出に拍車がかかり年々過疎化が進むが、温泉があるしご飯は美味しく人も好い。近年地方再生とかも謳われているおかげか商店街辺りも活性化させようぜ!って動きがあるらしい、至ってどこにもある普通の田舎町が私のふるさとである。長谷津よかとこ一度はおいで!

「勇利!おっかえりぃ!」
「ミナコ先生!」

 そんな脳内ふるさとPRをしているところで、駅の改札口前で立っていた女性が私の姿を見つけると同時に右足を軸に一切ブレのないターンを決め、その流れで左足をぴしっと靴に包まれた爪先まで意識して伸ばした見事なアラベスクの体制で、両手にピンク地に白抜きで私の名前を描いた横断幕を掲げ持った。なにそのテンションの高さ。
 人通りが少ないとはいっても全くないわけではなく、田舎といっても山奥にあるような廃れたところでもなく、都会に比べて田舎だよっていう町の駅の改札口には多くはないが少なすぎることもない人が行き交っている。結論。めっちゃ注目浴びてる。

「み、ミナコ先生、その幕早く降ろしてくださいっ」
「なぁによー折角地元に凱旋だってのにそんなびくびくしちゃって。もっと堂々としてなさい、メダリスト!」
「そういう問題じゃないですよ!」

 別の意味で!目立ってるから!慌てて恩師が掲げ持つ横断幕をひったくるようにして回収し、ぶぅ、と不満を表すように尖った唇と半目に全くもう、と肩を落とす。もうちょっと普通に出迎えしてくれたら私も素直に受け入れるっていうのに・・・。
 あれ勇利じゃね?え。マジかよ勝生勇利?っていう通りすがりの高校生の声にとりあえず微笑みを浮かべて手を振る程度のファンサをしながらぐしゃぐしゃに丸めた横断幕にあとでちゃんと畳まないと、とスーツケースの上に乗せてマスクに指を引っ掻けてぐいっと下す。眼鏡とマスクで顔面の九割を隠していた顔を露わにさせると息が少し楽になる。
 その瞬間目に入ってきた長谷津駅構内の様子はあえて視界からシャットアウトするのも忘れない。帰るたびに思うが、あんな大体的にポスター貼るのマジやめて欲しい。ていうか多すぎる。地元とはいえ多すぎる。こっ恥ずかしか!!ふっと吐息を漏らして、あんたはもっと自信を持って、などと小言を口にする先生に苦笑いを浮かべた。

「だから、これは自信がどうこうって問題じゃないですってば」
「自信があったらこんなこそこそ帰ってこないでしょうが。メダリストの帰還よ?カメラが一台もないってどうよそれ」

 そこが不満なのか。まぁ、地元の活性化に一役買えと言われるのはわかる。そういえば今回帰る日取りもメディアに知らせず身内に割と直前に知らせた程度だったな。
 騒がれるのは好きじゃないから、私としては大体その手法を取るのだが・・・それが不満だと言われるとなんとも反論しにくい。いや、でもほらさ。

「折角地元に帰ってきてミナコ先生たちが出迎えてくれるのに、部外者なんていります?」

 身内に再会するのに一々録画されてると素直に喜べないっていうか素になれないっていうか。やっぱりどこか気を張っちゃうし、ミナコ先生たちだって気疲れしちゃうじゃん?だからやっぱりこれが一番落ち着くよ。それに以前の勇利とは違ってそれなりにメディアへの貢献はしてるつもりだよ?ファンサとかマスコミとか、得意じゃないけどめっちゃ塩対応とかしてるわけでもないし。ただプライベートと仕事はそれなりに分けていたいだけだ。これでも帰国した時のメディア対応は頑張った方なんだよ。その後も色々あったし、東京で頑張った分地元でぐらい「どこにでもいる長谷津人」でいたいです先生。
 こてん、と首を傾げてそういえば言ってなかったな、と思い返して「ただいま、ミナコ先生」と返事を返すとミナコ先生はぐぐっと柳眉に皺を寄せて、やれやれ、と首を横に振った。

「あんた、私だからいいけど迂闊に余所でそういう発言すると勘違いされるわよ」
「さすにが他人にはこんな言い方しませんし、メディアの前なら尚の事気を付けてるつもりですけど」
「自覚ありときたか!あぁもういいわ、ほら、寛子たちが待ってるんだから早く帰るわよ」
「はーい」

 諸々を飲み込んだのが処置無しと諦めたのか、ぐっと言葉を引き止めてミナコ先生がひらひらと手を振る。それにいい子の返事をしてゴロゴロとキャリーケースを引きずりながら、小さい女の子やおばあちゃん(誰だったかのーなんて言われつつ)に求められた握手を返して、ミナコ先生が乗ってきた車に乗り込む。キャリーケースはトランクに押し込んで、助手席に乗り込んでミナコ先生が車を発進させる。まばらに人が歩く長谷津の町を車窓から眺めてほう、と吐息を零した。見慣れた景色になんともいえない安心感が身を包み、どこか気張っていた体から力が抜けていくようだ。幼いころから面倒を見てきてくれた人の横で、その人の車で運転で揺られながら実家に帰る。堪らなく眠気をそそられながらうとうとと瞼を落としかけていると、隣でハンドルを握っていたミナコ先生が、それにしても、と口を開いた。

「んー・・?」
「よくあのSPから挽回したわよね。あんたのメンタルからいって無理だと思ったわ。・・・ヴィっちゃんのこともあったし」
「あぁ・・・」

 話しかけられて夢現の中、最後の一言だけやや遠慮がちに告げたミナコ先生に、落ちかけた瞼をゆっくりと持ち上げる。まだ頭の中は眠気と戦うように思考回路はまとまらないが、ヴィっちゃん、と小さくその名前を口の中で転がした。

「・・・ミナコ先生、FSって録画してます?」
「当たり前でしょ。なに?気になるの?」
「んー・・・僕、その時のことあんまり記憶に残ってなくて・・・なんかやたら周りに褒められるんですよね。だからどんな演技してたのかなぁって」

 やたら感動しただの胸に来ただの愛に溢れていただの、よくわからないこと言われて曖昧にかわしてきたんだよね。基本的にあんまりテレビで流れたような自分の演技を見返すのは好きじゃないから(他の選手は別)見ないんだけど、そこまで絶賛(お世辞も含め)される演技とは果たしてどういうものだったのか。あんな私情に塗れた試合度外視の演技でよかったのかなぁと思うのだ。今回のプログラムに対してはぶっちゃけズレたものになっただろうし。正反対でもなかったからまぁまぁの評価を貰えたけど、やっぱり試合でやっちゃいけないよねぇああいうの。

「記憶ぶっ飛ばすほどトランス状態だったの?よく滑れたわね」
「ギリギリでしたけどまぁなんとか。・・・ヴィっちゃんには、あったかいものだけ、あげたかったから・・・」
「・・・そう。あとでお墓参りにも連れて行ってあげる。ほら、もう着くわよ」
「あ、本当だ。ありがとうございます、ミナコ先生」
「いいわよ・・・ねぇ勇利」
「はい?」

 見えてきた特徴的な門構えの実家に、帰ったらカツ丼食べたいなぁ、なんて考え、ミナコ先生の声に横を振り返る。

「お疲れ様。しばらくゆっくりできるわね」
「・・・はい」

 ふっと持ちあがった口角の、柔らかな慈愛に私はそっと目を伏せた。
 本当に、ここは優しい人達が多い。帰ってくればおかえりと言ってくれる人。どんな結果であれ経緯であれ、拒みも問いかけもせずに受け入れてくれることのありがたさよ。
 決して、私が関わってきた人達が優しくなかった、というわけではない。というかぶっちゃけどんな神の御加護かと思うほどに優しい人達ばかりであったと思う。私が近くにいるには過ぎるほどにどの世界の、どんな人たちも。今更ながらに、めっちゃくそ面倒なことも多かったけれど、悪人などという非道徳的な人間が近くにいなかったのは私にとって幸いであったのだろうとそう思う。いや、私の持つ価値観と大きな差異を持つ人間があまりいなかった、といったところか。朗らかな母親の出向かえに相好を崩し、勧められるままに実家の温泉に浸かり、金メダルは取れなかったけど台乗りができたので自分へのご褒美に名物のカツ丼を頬張り、帰ってきた自室で荷ほどきをして、それから。最後に。

「ただいま、ヴィっちゃん」
 
 人間様と一緒に置いておくのもどうかと思うけれど、家族以上に家族だったかもしれない愛犬の居場所をここ、と定めてくれた父母には頭が下がる。
 仏間に、ご先祖様と一緒に置かれた写真を見つめて、ゆっくりと微笑みを浮かべた。写真の中の愛犬は記憶と変わらずに元気そうだったけれど、実家に帰ってくれば真っ先に出迎えてくれた姿がなかったのは喪失を思い知らされる。ほんの少しの寂しさに気づいた母が、そっと温泉を促してくれたのはありがたかった。冷えて疲れた体に温泉の暖かさは助かったし、体の緊張が解れれば心の方も多少は解ける。
 向き合った仏壇の前で線香をあげて手を合わせていると背後ですらっと襖の開く音がして顔をあげて後ろを振り返った。開けた襖にもたれかかるようにして、旅館の従業員にしてはいささかファンキーな容姿をした姉が、どちらかというと父親似の目元を細めてゆるい笑みを浮かべた。

「おかえりぃ、勇利」
「ただいま、真利姉ちゃん」
「悪かったね、すぐに顔みせらんなくて」
「仕事中だったんだから気にしないで。あ、お土産買ってきてるからあとで部屋持っていくよ」
「いいよ、こっちから部屋行くから」

 軽い雑談を交えながら、父母にあとでお土産渡さないと、あぁそうだアイスキャッスルにもいって、と予定を組み立てていると姉さんは煙草を取り出しがてら、これが本題、とばかりに口を開いた。

「で、あんた今度どうするか決めてんの?」
「んー・・・まだはっきりとは。それを考えるために休養宣言してきたわけだし」

 そう。私、基僕こと勝生勇利。またしても歴史改変・・・もとい今後の人生選択のため、東京で長期休養宣言をしてきた身の上なのである。ちなみに復帰は未定。むしろ復帰するかも未定。運命のGPFが終わった今、殊更にスケートにしがみつく必要もなければ、これ以降をどう動くかも考えなくてはいけないからだ。今まではおおよそ勇利と変わらぬ道を歩んできたつもりだが、あの大会から大きく道は逸れた、と思う。少なくともヴィクトルが自分のコーチをする、という胃に穴が開きそうな未来は蹴り砕いたはずだ。
 おかげで東京ではドタバタだったよ・・・色々まだ片付いていないこともあるから度々向こうに行かなくちゃいけないけど、これからゆっくりと進退を考えるには十分な時間だ。
 年齢的にも引退しても可笑しくないし、それを決めても世間様もそう何も言うまい。フィギュアスケーターの命は短いのだ。まさに命短し恋せよ乙女、基命短し滑れよ選手ってところか。この選択がどう出るかはわからないが、人間足を止めることも大事だよ。うん。大丈夫。まだタイムパトロールも刀の付喪神もきてないから許容範囲のはず。

「ふぅん。案外サッパリしてんのね。もうちょっと悩んでるかと思ってた」
「悩んでるよー。続けるか辞めるかの瀬戸際だしね。心配?」
「べっつにー。あたしはどっちでもいいよ。あんたが決めたことならね」

 そういってニヒルに口角を持ち上げた姉はふぅ、と紫煙を吐き出してひらり、と片手を振った。

「なに選んでも、あたしらはあんたを応援するだけだし。好きにやんな」

 じゃ、仕事あるから、とそれだけを言ってさっさと踵を返した姉が後ろ手に襖を閉めた後に、ほう、と思わず恍惚の溜息を零す。

「真利姉ちゃんばりかっこよか」

 ぶっちゃけこの世界のナンバーワン男前はミナコ先生と真利姉ちゃんだと思う。ほんとカッコいいあの人達。うっとりと呟いて、うふふ、と笑みを零す。他人に決めて貰わずに自分で決めることはひどく責任を伴うことだけど、今後のことだって曖昧なままだけど。
 それでも、迷っていれば助言もくれるし、背中を押してもくれる。間違っていれば止めてくれて、私が望むなら応援もやぶさかではない。うん。いい休養になりそうだ。




 なんて、思っていた時期が私にも確かにありました。




「ユーリ!!あれはなんだい!?」
「おい豚!この服どこいきゃ買える?」


 騒ぐロシアのイケメン共のはしゃぐ姿に、現実を受け止めたくないよ!と声高に叫んだのは私だったのか、勇利だったのか・・・わかんないけど、とりあえず私の休養がどこかにすっ飛んで行ったことは、間違いないと思った。