千歳その先に、呪いあれ



 あの男だけは許さない。
 絶対に。絶対に。例えこの身が消え失せようとも、この記憶が記録となり果て摩耗しようとも、もう二度と会うことがないのだとしても。あの男だけは、許してなどやるものか。

「ます、たー・・・」

 体が上手く動かない。嗚呼。嗚呼。あの忌々しいサーヴァントのせいで、壊された回路が、こんなにも口惜しい。データの海に倒れ伏す、愛しい人に手を伸ばす。その体から溢れる鮮血など知らない。ぴくりとも動かない指先も。虚ろな目も。知らない、知らない、知らない、知らない!!
 ずるずると体を引きずりながら、必死に投げだされた手を取った。上から降ってくるまだ動けるのか、という感嘆符交じりの声も、呵々と笑う楽しげな声も知らない。そんなものに興味はない。あぁ、ご主人様。私です。キャスターです。あなたの妻です。あなただけの、サーヴァントです。ですから、お願いです、ご主人様。どうかこの手を握り返して。
 きつく握ったつもりだった。もうそんな力はなかったかもしれないけれど、それでもその小さな手を握りしめた。握り返してくると信じていた。虚ろな瞳が瞬いて、弱弱しくても小さくてもなんでもよかった。キャスターと、呼んでくれさえしてくれればよかった。たった一瞬。生きていると、確信させてくれればよかった。あぁ、でも現実はなんて残酷。
 握った手は握り返されないし、虚ろな瞳はこちらを見ないし、血に濡れた唇はちっとも震えない。
 そこにあるのは死体だった。愛しい人の抜け殻だった。繋がっていたパスから感じた息吹も、本当は、もう、切れていただ、なん、て。

「あ、ぁあ・・・・ああああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁ・・・・・っ!!!」

 声はもはや獣の唸り声にも近かった。言葉にならない慟哭が喉から血反吐を吐くように絞り出されて、人語を介する意味もわからなくなりそうだ。
 消えた魂。事切れた心臓。データの塊になっだけの体。そこに意思も意識も記憶も思いもなにもない。ただの人形がそこにある。
 守れなかった。助けられなかった。守ると言ったのに。絶対にこの戦争を生き延びようと誓ったのに。絶対に、生かして見せると言ったのに。みすみす奪われた大切なもの。あぁ、なんてこの身は無力なのか!!

「ふむ。マスターの方はすでに死んでいるというのに、随分としぶといサーヴァントだの」
「・・・最期の足掻きだ。直に消えるだろう。行くぞ、アサシン」
「呵々!惜しいものだ。そのしぶとさ、直接闘えば実に胸躍る死合いになっただろうものを。が、これもまた運命よな」

 声が遠ざかる。足音が消えていく。閉ざされた空間。冷たく広がる暗闇。ただ、消えゆくだけの。
 マスター(愛しい人)の亡骸を掻き抱いて、最早色すら消えた世界を見つめる。暗闇に消えていく黒い背中を見つめて、くつりと口元を歪めた。

「・・・・のろいあれ」

 呪いあれ。呪いあれ。あの男に、呪いあれ。
 紡ぐ言の葉に、光はない。あるのは凝る闇だけだ。
 憎悪を練りこみ、怨嗟で塗り固めた、あの男に注ぐ毒だけを、言葉という怨念にして。
 甘く、どろりと濁った、呪詛という名の凶器を、あの男に。

「けっして、けっしてゆるさぬ。ごしゅじんさまをころしたそのつみ、さだめられたいくさばでさえなく、そのてをのばしたつみ、けっして、ゆるさぬ」

 言の葉を刃に。憎悪を蜜に。怒りを毒に。絶望を楔に。この身この命この記憶、その全てで、あの男に呪いを注ごう。
 女の情念、その全て。抗いきれぬ呪詛と成して。抱きしめたマスターの、土気色の頬を両手で包み、その血に濡れた唇に舌を伸ばしてちろりと舐めあげた。
 舌先に広がる恐怖と絶望と、溢れんばかりの謝罪は、なんて甘くて、苦くて、寂しくて―――嗚呼。

「――貴様の願い、決して叶えなどさせぬ」

 夢叶わぬまま、無様に破れ果てるがいい。ぶわりと、膨らむ尾が裂ける。電子の海に、大きく広がる九つの影が、ゆらゆらと揺らめいて。紅く染まった唇が、三日月の形にくつりと笑みを浮かべた。
 そうして冷えたマスターの頬に頬を摺り寄せて、華奢な体を閉じ込めるように掻き抱いた。愛し子を守る母のように、最早何人にも犯させない籠の中で。瞳を閉じて、万感の想いで、囁いた。
 嗚呼。ご主人様。

「ごめんなさい―――」

 守れなくて、ごめんなさい。