初めて願った、我が心
「うーん、今回はラニルートで行こうかなー。前は凛ルートだったしぃ」
そんな、ささやかな呟きだった。通りすがりざま、聞こえたそれに思わず彼女を振り返ったのは、単純に知り合いの名前が出ていたからにすぎず、別段少女の何が目を引いたわけでもなかった。
ただすれ違っただけだから、顔もちゃんと見ていない。ただ遠ざかる背中で、栗毛色の髪をしていることだけが認識できた。恰好も、凛やラニのようにアバターのカスタマイズをしているわけではないのか、私と同じ仮想の学校の制服のままである。格別に目を引くようなことはなかったが、それでも、耳に届いた知り合いの名前は、なんだかとても奇妙な響きを帯びていたように思った。・・・ルート・・・?
「・・・・変な子」
なんだ、ルートって。人の名前の後につけるもんではない気がする。まるでゲームのような言い方だな、とささやかな疑問を覚えた、一回目。
疑問が疑念に変わったのは、凛とラニの闘いに、ある少女が割り込んだ、という話を聞いてからだ。いや、それを聞いたことは、実は何度かある。まぁ聞く前に敗戦したり、ちょっとまぁ色々反則技に引っかかってしまったりということがあったので毎回というわけではないが、それでも、三回戦まで終えることができれば、いつも、その話を聞いていた。それは真っ先に凛やラニから聞かされたりそこらのNPCからの情報だったり、他のマスターからの噂だったりと、情報源は様々だが、このループの中で、三回戦を終えると必ず起こる出来事だった。
しかも、いつも凛とラニの戦いの中で。他の人たちには起こりえないバグではあったが、ループという現象の中、同じことぐらい起こるだろうと深くは考えていなかった。どちらにせよ、知り合いが生き残ったという事実に勝るものはない。
しかも片方などは、参加権をなくしたというのに生存できているのだ。聖杯を手に入れることはできなくなったが、その命が失われることがなかったのが、ただただ嬉しく、彼女たちの間に割って入った誰かに感謝すらしていた。
あぁ、でも、そういえば、助けられた方は、毎回同じではなかった。それはどんな運命のいたずらなのか。サーヴァントを失うのは、いつも凛かラニ、どちらか一方だけで、どちらも、ということはなかったし、そしていつも、同じ人ではなかった。気まぐれのように、助けられる側は変わっていって。やがてどちらかと対戦するときもあったし、その前に敗退することもあった。
そして、今回。サーヴァントを失い、それでも生き残ったのは、ラニの方だった。出会い、話して、よかった、とその手を握って。――不意に、あの女の子の「ラニルート」という言葉が脳裏を過ったのは、一体どんな神様の悪戯だったのだろう。ちくりと、心臓に棘が刺さったような小さな違和感が、その時から抜けなくなった。いや、むしろ、周を重ねるごとに、違和感は膨らんでいくようで。
そこから、だろうか。なんとなく、彼女たちの周りを注視するようになったのは。そこで気が付いたのは、時々凛やラニの周りに、特定の女の子が近づくこと。彼女はひどく親しげに凛やラニと接していること。と、いうか、アバターの改変をしているような腕利きの面子に、よく絡んでいるような気がする。大体見かけるのがそういう場面だったし、それ以外はまるで興味がないとばかりにすれ違うばかりで。そういえば、私が凛やラニと話しているときにも絡んできたっけ。そのときは、・・・なんかすっごいじろじろと見られたような・・・なにこいつ、と言わんばかりの視線で、居た堪れなくて離れたっけ。それから、それから・・・・サーヴァントが、毎回違うこと。毎回というか、意識し始めてから、というだけなので実際はどうなのかはわからない。でも、他の面子は変わらないのに、彼女のサーヴァントだけコロコロ変わる。まぁ他の面子といっても私が知っているサーヴァントなんてたかが知れているが。それでも、あぁ、そういえば、凛のサーヴァントだったランサーが、彼女のサーヴァントだったこともあった。そのときは、凛のサーヴァントは、赤い外套に褐色の肌をした男で・・・ふとデジャブのようにどこかでみた気がする光景だったようにも思えたが、よくわからないままで終わってたな。まぁそれはどうでもいい。ただ、そうだ。彼女だけが、繰り返すこの果てのない聖杯戦争の中で、唯一、大きな変化を与え、また、凛とラニの生き死に関わっている。・・・まぁ、彼女たち自身はあんまり彼女と関わりたくないようなんだけど。曰く、「妙に馴れ馴れしい」「現実見てない夢見思考でイラつく」「時々上から目線」とか・・・特に聖杯戦争という生死のかかる現場なだけに、戦争そっちのけな部分が二人・・・まぁ主に凛の癪に障るらしい。ラニは、まぁ、よくわからないから近づきたくないとのことだが。なんだろう。嫌いってほどじゃないけど近くにはいたくない、って感じなのだろうか。
・・いやしかし妙に馴れ馴れしいって、私にも適応されなくね?と内心びくびくだったが、まぁ、内心はどうであれ見た目そうでもないのでよしとしておこう。でもとりあえず自重はしておこう。さておき、だ。
観察していれば、おのずと彼女が何かから逸脱していることは容易に知れた。それはある意味で私もなのだろうが、それでも、彼女もまた、異質であることは明白だ。
真実、それを理解できたのは、図書館の本棚の影。参加者も減り、NPCがせいぜい数人いる程度の、静かな本の海の中で。
「そろそろこのゲームも飽きてきたなぁ。サーヴァントはかっこいいけど、対戦相手も同じだし。ムーンセルももうちょっとバリエーション増やすとかしてくれないかなぁー」
退屈そうな声が聞こえる。聞き覚えのある声に視線を泳がせれば、本棚の隙間から栗毛色の髪が見えた。月海原の制服を纏った生徒の姿。見覚えのある後姿だった。どくりと、心臓が嫌な音をたてた。
「サーヴァントも目新しいのとか・・・いや皆かっこいいけど。ループしたら好感度最初からってのもねぇ、引き継ぎ機能とかあればいいのに・・・。あ、四次のサーヴァントとか出てこないかな。それで、今度は四次時空に転生!とかしちゃって、災害回避とかしちゃってー。鯖峰とか鯖嗣とかでてきても楽しそうっ。あーでもそれならサーヴァントにエクストラのも出てほしいしなー。逆ハーレム展開よっしゃ!・・・よし。これ優勝したら、ムーンセルに別のサーヴァントか、新しいイベントでも起こるようにお願いしよっと」
お願い事きっまりぃ、と楽しげに笑って。図書館でなんの本を借りるでもなく、さっさと出ていく背中を茫然と本棚の影から見送る。彼女の声が聞こえなくなれば、やはり図書館の中は静まり返って、やけにその静寂が耳についた。
どくどくと鼓動を打つ心臓が早い。じっとりと手に汗が浮かんで、口の中がカラカラに乾いていた。
彼女は、何を言っていた?なんといっていた?ゲーム?バリエーション?引き継ぎ?
何を、馬鹿なことを。
この世界は現実で。負ければ死ぬ世界で。戦いは本物で。思いは真実で。例え繰り返しの中で、それらの感覚が摩耗していたとしても。いや、もしかしたらそうなのかもしれない。彼女も記憶を持ったまま繰り返していれば、これは現実ではなくゲームなのだと認識したのかもしれない。それは、あるだろう。繰り返しなど起きないはずの世界で、繰り返しが起きたのなら。ゲームなのだと、思わなければ正気を保てないのかもしれない。だが、それでも。
ここにいる人間の、想いを、願いを、生き死にを、遊びのように考えることは、同じ空間にいる者として、犯してはならない心の領域のはずだ。何よりも、そう何よりも。
彼女のそれは、明らかに、彼女がこの現象を望んだことのように聞こえなかったか?
もしも。もしもだ。私のように強制ループの果てに、ここがゲームだと思っているのなら。それは心を守る防波堤なのだから、甘んじて飲み込もう。確かに、ゲームっぽいよな、とは思うし。けれども、もしも、最初から。彼女が望んでこの果てない繰り返しを選んだのなら。彼女が自らこの繰り返しを起こしているのだとしたら。
彼女の意識が、最初から、ここがゲームで、遊びなんだと、思っていたとしたら。
そのせいで、私は、彼女たちは、この世界は。先に進むことも、戻ることもできず。何度も、死んで、生きて、恐怖して、後悔して、決意して。そうしてこの戦いに挑んでいるのだとしたら。
そんなこと、認められるはずないじゃないか。
はっ、と詰めていた息を吐き出して、じっとりと浮かんだ手汗を制服のスカートでふき取る。それから震える手で、どくどくと騒がしい心臓をぐっと握りしめた。
許せない、と思った。もしも、この想像が真実なら。あの少女の遊びのような感覚で、この恐ろしい出来事を繰り返しているというのなら。
それは、この戦争に参加する誰かのための感情だったのかもしれない。それは、この戦争で親しくなった友のための憤りだったのかもしれない。それは、ただの個人的な、恨みだったのかもしれない。
踏みにじられた。きっとなんの自覚もなく。ゲームのキャラだから。あるいは、ゲームのキャラにもなれないような脇役だから。他者の思いも経験も痛みも恐怖も喜びも全て。ゲームだから、たったそれだけの言葉で、踏みにじられた。無視された。そんな、そんなことってない。
そんなことのために私は死ぬの?そんなことのために私は死んだの?そんなことのために、凛や、ラニや、レオ君たちと戦うの?こんな、こんな繰り返しのために?
こんなことのために、私は、
彼女の心を、命を。その優しさにつけ込んで、甘えて。道連れにしてきた。
いつだって。痛い思いをしてきたのはキャスターだ。死ぬような大怪我を負うのはキャスターだった。その背中に庇われて。いつだって安全な場所で。その背中だけを見てきた。どんな時だって、いつも心を砕いて私のために戦ってきたサーヴァント。大好き、と、私は悪くないんだと、いつもいってくれた、あの優しいサーヴァントの心を踏みにじって。私を思う心を裏切って、そうやって、いつだって、彼女を犠牲にして、私は繰り返してきたのに。それなのに、それが、こんな、こんな理由の、繰り返しで?
謝罪などなんの意味もない。絶望も後悔も何もかもを飲み込んで。
「・・・勝たないと」
呟きは本の海に消える。それでも、その時初めて。私は、初めて。
「絶対、勝たなきゃ」
生きたい、という願い以外で、勝ちたいという欲を持った。勝利を、欲した。
今まで、そんなこと思ってなかった。生きたいということと、勝ちたいということはイコールではなかった。勝ちたいわけじゃなかった。聖杯が欲しいわけでもなかった。だけど今。私は。きっと、凛や、ラニや、レオ君たちと同じぐらいに。
「