怨霊



 それを形容するのならば、ヘドロ塗れの川の水、といったところだろうか。澱み、穢れ、どろりと濁った川の水。昔はきっと清らかな清流であっただろうに、見る影もないほどに荒れたそれは、醜悪の一言に尽きた。
 近づくだけで、その異常さがわかる。悪臭と呼べるものはないが、漂う気配はそれと相違ないだろう。なんの対策も取っていなければ、その穢れに飲まれなんらかの不調を訴えることは想像に容易い。
 現に、この周囲に生き物の息吹は為りを潜め、変わりに死臭と瘴気が満ちていた。・・・正直、私とて好んで近づきたくはない。今は守護の護符を携えているのでなんとかなっているが、準備もなしにこんなところにきたら穢れにあたってぶっ倒れる自信がある。それでも、こうやって穢れた龍脈に足を運び、微力ながらも穢れを浄化する作業を行わなければ、より悪化することは目に見えている。・・・堂々巡りもいいところだ。
 ここも、少し前に浄化をしたはずなのに、また陰気が集まってしまっている。遙かのときも、怨霊を封印したとしてもしばらくすればまた復活、なんてことはあったが、それにしたって周期が早すぎる。それほどまでに、龍脈の汚染が酷いのか。
 穢れの酷さに眉を潜めながら、ランサーの影からライダーとウェイバー君を振り返る。二人は一様に顔を顰め、ウェイバー君に至っては顔が蒼いのを通り越して蝋のように白くなっていた。さすがに、ここの連れてくるのに至って、なんの対策もさせないのは彼の健康に関わる。ので、こちらも手製のお守りは渡したのだが、それでも直接的に対峙するときついものがあるのだろう。あるいは、この状況の劣悪さ故の、精神的なものかもしれないが。
 まぁ、これで彼らも私の言葉が真実であるとわかってくれたことだろう。

「どうです?これでも聖杯戦争を続けますか?」
「・・・・これほどの状態になっておきながら、他には誰も感知しておらんのか?」
「さて。さすがにこれほどの汚染ですから、管理者ぐらいは把握していてもよさそうなのですが・・・あえて放置しているのか、はたまた本当に気づいていないのか。それは私にはわかりかねます」

 眉間に皺をこれでもかと刻み、唸るように低い声で問いかけるライダーに肩を竦める。私だってその疑問は覚えたさ。しかしながら、その確認を取るための接触も聖杯戦争中となれば中々に難しいものがある。こちらの思惑がどうあれ、敵同士には変わりがなく、そんな相手の話を素直に聞いてくれるのかどうか・・・。せめて原因が何か、ぐらいまでは調査して、その結果と共に相手に送りつけようかとは思うのだが。そこまでいけばさすがに聞く耳持つだろう。まぁ、・・・知っていてこの事実を無視しているのならば、握りつぶされる可能性は高いだろうが。まぁその懸念もあって、管理者に積極的にアピールするのを躊躇っているのが現状だ。下手したら自分の情報を相手に晒すことになるからなぁ。しかも、確か冬木のセカンドオーナーたる遠坂のサーヴァントはあの金ぴか・・・アーチャーだというじゃないか。いくらランサーに素早さのアドヴァンテージがあるとはいえ、あの物量はちょっと、うん。無理っぽい。相性悪そうだし。だから下手なことはできないなぁって。
 自己の安全と土地の安全、上手いこと両立させることができればいいのだが、ひどく難しい現状に頭が痛い。溜息を零しながら、口元を抑えて顔を真っ白にしているウェイバー君にそっと近づき、その額に手を伸ばした。

「大丈夫?ウェイバー君」
「っせんせ、」
「今、結界を強めるから。・・・そのお守りでも、厳しいのね」

 それなりに力は込めたつもりなのだが、それでもなお、直接対峙するには厳しいというのか。まぁ、ウェイバー君が元々そちら方面の耐性があまりないからかもしれないが・・。この子、知識量や理論に関しては光るものがあるけど、肝心の実技系はあんまり芳しくないからなぁ。まぁ、魔術師なんて研究者体質なんだから、実践がさほどできなくてもそんなに問題はないんだけど。言いながら、素早く呪言を唱えて結界の強化を行う。ついでに術式を書いた紙をウェイバー君に持たせて起点とし、より明確な媒体としての強化も行いながら、ほう、と圧迫感から解放されたように吐息を零したウェイバー君に頬を緩めた。

「あ、ありがとうございます、先生・・・て、ち、近い近い近い!!」
「ん?あぁ、ごめんね」

 気が楽になったのか、ゆるゆると表情を崩したウェイバー君は、はたと気が付いたようにこちらに視線を合わせて見る間に顔を赤く染めた。そして勢いよく顔を仰け反らせて、後ろに一歩大きく下がる。額に触れていた手の位置はそのままに、その大袈裟な反応にきょとんと瞬きながら、そこまで反応せんでも、と内心で思いつつ苦笑を浮かべた。
 初心というか、なんというか。そこまで近いつもりもなかったのだが、実は結構近づいていたのか?どうだったのだろう、と確認のためにランサーを振り返ろうとした刹那、鋭い声で呼びかけられ、次の瞬間、私の足は地面からふわりと浮いていた。

「主!!」
「!??え、ちょ、ランサー?!」

 膝を抱えるように片手で持ち上げられて、上半身を倒してランサーの肩によりかかる。俵担ぎというよりは子供抱きに近く、抱き上げられたと理解したときには、すでにさきほどまでいた場所から遠ざかっており、横を見れば、ライダーに首根っこ掴まれたウェイバー君も同様に目を白黒させて宙ぶらりんになっていた。てかライダー、扱い雑だな!
 いや、それよりも。

「え?なに?どうしたの?」
「異常な魔力の高まりを感じます。主、早くここから離脱を――」

 幾分か焦ったかのように、私を抱えたランサーが、片手に槍を一本召喚しながら、その秀麗な顔を厳しいものにして告げる。ライダーも同意見なのか、さきほどまで私たちがいた場所をきつい目で睨みつけていて、警戒しているようだった。

「他の魔術師の干渉か?それにしては――」
「―――来るぞ、ライダー!」

 ランサーが、鋭い声でライダーに呼びかけ、私を下して、両手に槍を構える。ライダーも、ぽいっとウェイバー君を自分の後ろに下して(落として?)、大剣を構えた。二人が注目する先。ぞくりと、全身の産毛が総毛立つ。龍脈が、ごぽりと何かを吹き上げる。淀んだ黒い風。瘴気を帯びた陰の気が、集まり、溜り、凝り、怨嗟の声を響かせ始める。それはまるで風がびょうびょうと吹き荒れるように、あまりに言葉と表現するには足りないものであったけれど。
 それでも、それは、確かに、形を成して。黒く淀んだ、怨念の、塊、が。

「っ」

 ひゅっと、息を飲んだ。目の前に具現化されたそれ。下半身は木の根を、上半身は女の体を。黒い髪はどろりと濁って広がり、肌の色は生きた人間のそれとは程遠く土気色をして、瞳は狂気を表すように赤く爛々と光っていた。
 耳まで裂けた口元から、真っ赤な舌先がちろちろと見える。ウェイバー君が後ろでひぃ、と悲鳴をあげるのを聞きながら、ランサーの背に隠れたまま、私はその姿を茫然と見つめた。・・なんて、こと。

「なんだ、あれは?」
「魔物・・・妖魔・・・・なんにせよ、化け物には違いあるまい」

 首を捻りながら、びょうびょうと風を吹き荒らして、具現化したそれを見ながらライダーがぐっと口角を持ち上げる。じりじりと相手の距離を測りながら、嘯いてみせたランサーに、違いない!と笑い声をあげてからライダーはこちらを振り返ることなく言った。

「坊主に、ランサーのマスターよ。ここから決して動くなよ?」
「主は俺が必ず守りますゆえ、ご安心を」
「ら、ライダー・・・!」

 怯えたようにライダーを呼ぶウェイバー君を後ろに、ランサーの力強い声を耳にしながらも、私は吸い寄せられるように奇妙な泣き声をあげるそれを見つめ続ける。あぁ、あぁ。なんて、なんてこと。くしゃりと、顔を歪めた。いや、今まで、現れなかったのが不思議なくらいだったのかもしれない。これほどまでに淀んだ龍脈。こうなって然るべきだったのかもしれない。だからといって、だからといって!

「怨霊、だなんて・・・!」
「主?」
「・・・ランサー。使うのならば破魔の赤薔薇(ゲイ・ジャルグ)を。あれは、普通の攻撃では倒せない。必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)じゃ相性が悪いわ」
「あれが何か知ってるのか、ランサーのマスター」
「先生?」

 気持ちが悪い。頭に響くような嘆きと恨みの声。びょうびょうと吹き荒れる風にまぎれて聞こえてくるそれに顔を顰め、震える足を叱咤しながらまさか、こんなところで、とふっと自嘲を浮かべた。

「知っているといいますか、なんといいますか・・・便宜上、あれは怨霊と呼びましょうか。恨み辛み、嘆きや憎しみといった不の感情や、それを内包した魂を媒体として権現した存在。魔物や妖魔、というのもあながち間違いじゃないですけど、もっと霊的なもの、と考えてもらった方がいいのかもしれません。他の魔術師の使い魔だとかじゃないですよ」
「怨霊・・・」

 まぁもっと簡単に言えば悪霊なんだが、さらに性質が悪いものなので怨霊で通しておこう。とにかく、すでにロックオンされてしまった状態じゃ逃げるのも難しいし、というよりここで逃げたら被害が拡大する。なんとか弱体化ぐらいはさせておかないと・・・。
 てか、そもそも英霊の攻撃って怨霊に効くんだろうか?結構物理的なものだよね、英霊の攻撃って。いやでも英霊自体がエーテル体で、霊的なものだし、武器だって基本的に魔力を帯びたものだから、効かないことはない、のかな?まぁでもランサーの赤薔薇は魔術的なものを退けるものだから、恐らく怨霊相手にも効くはずだし。多分。うん。多分。黄薔薇はなぁ・・・あれ完全に物理だから効きそうにないもんなぁ。てかこれでどっちも効かなかったら攻撃手段なくね?八葉はあれを攻撃できる能力持ちだから攻撃が効いてたわけで・・・・あれ、これ、下手したら詰んだ?

「・・・・・・・・まぁ、様子見かな!」

 てか下手したらライダーに戦力外通知を出せねばならんかもしれん。そんな危惧を覚えつつ、今まさに戦闘が開始されんとする状況で、耳に木霊する怨嗟の声に、きゅっと、唇をかみしめた。
 ちょっと様子見にきただけでなんでこんなことになるかな、本当。溜息が、弾かれるように動き出した両者の鋭い音にかき消され、誰にも届くことはなかった。