終焉
「龍脈が汚れていた」から、聖杯が汚れたのではない。
「聖杯が汚れていた」から、龍脈が汚れたのだ。
※
私は、認識を間違えていたようだ。いや、気づくのが遅すぎた、というだけの話であろうか。
どちらにせよ、最早逃げも隠れも後戻りもできないのは明白だ。
まさか、優勝賞品そのものが原因だったなどとは、とんだ盲点である。おい開催者、商品の点検ぐらいしとけ。・・まぁ、その管理者もすでにこの世にいないらしいので、今更の訴えであろうが。
だから万能の願望器なんて、信用ならないんだ。悪態を吐いても、答える声はない。いや、近くに人はいるのだが、あまりの事実に言葉もないようだ。私とて、絶句していられるならずっとそうしていたい。けれども、現状はそうはさせてはくれないようだ。
目の前で怨嗟の声を響かせるどろりとした大量の泥が、聖杯という器から溢れてくる。
恨み憎しみ悲しみ狂気絶望嫉妬、ありとあらゆる負の感情を「泥」という形で現界させ、そうして町を覆い尽くさんとその魔手を伸ばしている。あれに触れてはいけない。触れてはあるのは死という絶望のみ。よしんば生き残れたとしても、泥の呪いで蝕まれていくことに変わりはないだろう。
そもそも、聖杯のシステムそのものが歪みの原因だ。東洋でいうなら、蠱毒という呪いの術式となんら相違のない、他者の願いを貪り為す奇跡。そんなもので叶う願いなど、歪んでしまうのも仕方ないだろう。
あぁ、だから、本当に、なんでも願いが叶うなんて眉唾ものの存在なんて、信じちゃいけないんだよな。
溢れていく泥が町を覆い尽くしていく。それが完全に町を飲み込めばどうなるかなど、わかりきっていた。そうして、それが為されれば、この土地が真の意味で死ぬだろうことも。
選択肢はここにある。手元の手札を切ってしまわなければならない。選べ。未来を。結末を。
後ろを振り返る。私の後ろには、二人の男が立っていた。いや、一人は、愕然と地に膝をついて、その瞳を見開き、その死んだ瞳に泥と炎を映して絶望していただけだけれど。もう一人は、やはり茫然と、地獄と化していくだろう町を、見つめていたけれど。――もしもここに、私一人だけで、あったのならば。
「―――ランサー。汝がマスター、・エルメロイ・アーチボルトが全ての令呪を持って命じる」
手の甲が熱を持つ。赤い光が輝きを増して、はっとしたように視線が注がれた。主、と後ろで焦ったように呼び掛けられる。それに振り向いて、目を見開くランサーと、思考が追いついていないかのように、茫然としている衛宮切嗣を視界に収めた。
「セイバーのマスターを連れてこの場から離脱。その後、聖杯を介することなく、座に戻りなさい」
「主!?」
「なっ」
驚愕に目を見開く衛宮切嗣とランサーを見つめて、小首を傾げる。赤い光がランサーを包むと、彼はひどく焦燥に駆られたような必死の形相で首を横にふった。
「主、なりません!!逃げるのならば、あなたも共に!!」
「な、にを考えてるんだ君は!ここにいれば、君まであの泥に飲まれるんだぞ?!」
そういいながらも、ランサーは令呪の魔力に抗えないかのように、衛宮切嗣に手を伸ばしていた。しかし、懸命にそれを抑えようとする姿に、困った子だなぁ、と苦笑を浮かべる。
「ランサー」
「ある、じ・・・!」
「忠義を、尽くしたいと、言っていたね」
「・・・っ」
「なら、お願いだよ。私の願う通りに。私の望みのままに。・・・私を主と思うのならば、どうか私の願いを叶えて」
ひぐ、とランサーの喉が鳴った。見開いた琥珀の瞳は一瞬暗く淀み、僅かに開いた唇が何か物言いたげに震え。けれど、最後には言葉を飲み込むようにきつく噛みしめると、喚く衛宮切嗣を肩に担ぎ上げた。ひょい、といとも容易く俵担ぎされた本人はぎょっと目を剥いて暴れたが、まぁ、普通の人間とサーヴァントの力量差なんてそれこそわかりきっているので、無駄な抵抗というものだ。そのままくるりと後ろを向いたランサーに、見えないだろうけれど笑みを浮かべる。
俵担ぎにされた衛宮切嗣は、丁度私と向かい合う形になったが、私の顔を見るとひどく苦しげな顔をして唇を噛んだ。
「ここに残って、どうするつもりだ・・・!」
「できることをします。・・・あなたも、今、あなたにできることをしてください。きっと、あなたの手を待っている人がいますから」
「・・・っ」
「ランサー」
「はっ」
「お願いね」
「・・・・御意」
短い返事を残して、ランサーの姿が消える。英霊のスピードなんぞ目で追えるわけがないので、まぁきっと走り去ったんだろうなぁ、と思いながら迫りくる泥を振り返った。
「・・・二人がいなきゃ、逃げてたかもね」
一人だったら、怖くて怖くて、死にたくなくて。逃げだしていたんじゃないかなって。思うけど。まぁ、結局、現実はここに一人で残っているのだから、IFなんて意味のないことだ。
「――巡れ、天の声」
ウェイバー君が戦線離脱していてよかった。さすがに事の顛末を伝える術はないけれど、彼のことだからきっとなんらかの形で気づくだろう。そうすれば、彼が聖杯をなんとかしてくれないかなぁ、って思ったり。こんなもの、さっさと廃止になっちゃえばいいのにね。
「――響け、地の声」
ソラウは怒るだろうか。泣くだろうか。アーチボルトの家は大丈夫だろうか。まぁ一応時期当主候補は決めてたし、刻印も戦争前に返却してたから問題はないと思うけど。やっぱり、戦争なんて何が起こるかわからないね。まぁ、こんなことになるとは誰も予想だにしてなかったとは思うけど。友人の泣き顔は辛いな、と思いながら、眩い光に、目を細めた。
「彼の者を、封ぜよ」
あの日、生き残った人はいう。
真っ白な龍が、冬木の空を昇って行ったのだ、と。