ワインと薔薇
流れるような動作で傾けられたワイングラスから、ばしゃり、と大きくはないが場を凍りつかせるには十分な水飛沫があがると、ぽたりと名残のようにワイングラスの口から雫が滴り落ちた。
真っ白なテーブルクロスの上に赤い染みが点々と広がり、ぷんとした酒気の臭いが鼻をつく。
誰もが、茫然と口を開けて呆けていた。言葉もなく、突然の暴挙に凍りつくほかできずに、ただ、事の中心地に視線が集まる。集まった視線の先で、ワイングラスを向いの人間に傾けたままの状態で、ひどく冷ややかな眼をした女性がいた。ぴしりと伸びた背筋。細い首筋にメリハリのついた体を真紅のドレスで着飾って、ドレスと同じ真っ赤に燃えるような赤い髪と瞳が、ひどく印象的な――薔薇のように、気高い女性。凛としたその立ち姿に、奪われた視線で食い入るように見つめていれば、彼女は冷ややかな眼で、くっと真っ赤なルージュの引かれた口角を吊り上げた。
凍りついた瞳には不似合いな、苛烈な微笑み。顔が整っているからこそ、余計に迫力を増したその笑みに、ワインを引っ掛けられた男の顔がひきつった。
「ごめんあそばせ。大した実績も実力もない豚の口から、私の友人を侮辱するような言葉が聞こえたものですから、つい」
「な・・・っ!」
「あの子を貶すのでしたら、それ相応の実績や研究成果をあげてからにしてくださいませんこと?子供ではないのですから、お家自慢もほどほどにしてくださいませんと・・・あぁ。そうですわね。実力も知識もないのですから、自慢できることなどお家のことしかございませんわね。私ったら、うっかりしていましたわ」
ふふ、と鈴を転がすような声を零してころころと笑う女性に、周囲から釣られたようにクスクスと笑いが零れる。さざなみのように広がるそれに、面と向かって貶された男は、茫然とした顔から一転して、ワインで顔面を濡らしたまま、赤黒く顔を変色させてわなわなと拳を震わせた。
「ソ、ソフィアリ学部長のご息女といえど、許されませんぞ!!その発言は我が家に対する侮辱だ!」
「あら・・・私、貴方を侮辱はいたしましたけど、貴方の家を侮辱した覚えはありませんわ?貴方自身に価値はありませんけど、貴方の家には価値がございますもの」
「~~~~っ!」
「とどのつまり―――家柄振りかざして踏ん反り返るしか能のない三流魔術師が、知ったかぶった顔しないでくれません?と、いうことが言いたいだけなので。それでは、失礼致しますわ」
留めのように、にっこりと綺麗な微笑を見せつけるように浮かべて見せて、彼女は言葉もなくぱくぱくと口を魚のように開閉することしかできていない男に、なんの未練もない、とばかりに背中を見せた。ハイヒールの踵が、カツン、と硬質な音をたてて遠ざかっていく。その、迷いのないまっすぐな背筋に。ただ、誇りと、気高ささえ窺える、美しい姿に。
思考すら奪われて、半ば無意識に、何も考えずにざわめく周囲を残して、その背中を追いかけた。その際、赤ワインに塗れた男が泡を吹いて喚いていたが、どうせ何もできはしないだろう、と冷ややかな眼でちらと一瞥だけして、当に広間から出て行ってしまった背中を追いかけた。
足の長さか、それとも歩く速さの違いか。そう間をおかずに出たはずなのに、あの赤い背中が見当たらずに、内心で焦りを覚えて長い廊下を走る。きょろきょろと目を動かしながら、あの女性を探せば、すでに玄関のホールに辿り着いていたようで、階段の上から玄関に向かう背中を見つけ、慌てて階段を駆け下りた。
その足音が聞こえたのか、彼女がゆっくりと後ろを振り返る。その燃えるような赤い瞳が、こちらをひたと見据えた瞬間、どくり、と心臓が大きな音をたてたのがわかった。
「あら・・・貴方は」
「ケ、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトと申します。ソラウ嬢」
「そう・・貴方が。私に何か御用?」
そういって、一瞬瞳を細めた彼女――ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ嬢は、頬の筋肉を動かして微笑を浮かべる。それは、あの広間で見せた苛烈な微笑とはまた違う、ひどく感情の籠らない微笑みで・・・・なぜか、そのことが無償に悲しくなった。
「いえ、その、先ほどは、我が家の名誉を守ってくださり、ありがとうございます」
「――あぁ。いいのよ、そんなの。別に、アーチボルトの家を守ったわけではないもの」
「え?ですが、」
「私が守ったのはの・・・私の友人の名誉。いいえ。守ったわけでもないわ。ただ、許せなかっただけよ」
「・・・前、当主の」
「そうね。あなたの従妹になるのかしら?ふふ、私の自慢の友人よ」
「友人、ですか」
呟くように相槌を打てば、その瞬間、穏やかに赤い瞳が細められる。その、いとおしげな顔に、とくとくと早くなる心臓をぎゅっと服の上から掴めば、彼女は遠い目をして口を開いた。
「そう、友人よ。私の、大切な、たった一人の・・・親友。だから、あんな三流魔術師に侮辱されるなんて我慢ならないわ」
「・・・様は、東洋の魔術師の聖戦で亡くなったと」
「えぇ。元々、戦争向きじゃなかったのよ。送り出した私が言えた義理じゃないでしょうけど・・・馬鹿ね。止めればよかったんだわ。ランサーと一緒に、ここに残って貰えばよかったの」
そうすれば、亡くさずにすんだのに。そういって。悲しげに笑む人に、胸が締め付けられる。
「極東の島国で、聖杯戦争に負けて死んだことを、周りは馬鹿にしているけれど」
「・・・」
「あの子があの地で何をなそうとしていたのか、知りもしない様子は滑稽だわ。いずれ、それも日の目を見るでしょうけど・・・あの男が、最近頭角を現してきたようだし」
「あの男?」
「あの子、生徒に好かれてたのよ。本人はあまり自覚はないようだったけど。そうね、貴方も精々、生徒に好かれる教師になることね?――アーチボルトの次期当主殿」
そういって、不意に表情を消して背中を向ける彼女に、引き留めようと口を開くが、きゅっと無理やりに唇を引き結んだ。あまりにも、最後の一言が、冷たくて。感情の籠らない、その声音は。前当主を・・・彼女が友人だと豪語するあの人を語る声音とは、あまりにかけ離れていて。彼女は、気づいていたのだろうか?アーチボルトの家の中でも、彼女の評価が落ちていることを。勝利を得られなかった彼女が侮蔑されていたこと。東洋の魔術師風情に遅れを取ったと、皮肉られていること――自分も、そう思っていたことを。
あぁ、自分も、あの人の中では、ワインを引っ掛けたあの男と同類だと思われているのだろうか?それが、たまらなく悲しくて、悔しくて、去っていく背中に追いすがることもできずに、じっと見つめるしかできずに、唇を噛む。
「・アーチボルト・・・」
唯一人。薔薇のように気高いあの人の、柔らかな心を得た人。絶大なる信頼を親愛を、手にしていた女。
どうしてこんなにも、あの人が気になるのかわからない。この鼓動打つ心臓の意味も、あの人の冷ややかな瞳にショックを受けた心中も。わからない。けれども。
「聖杯戦争・・・」
当時、そこで、何が起こったのか。あの人がいう、・アーチボルトが為そうとしたことを、知れば。
あの人に、もっと近づけるだろうか?
拳を握りしめ、踵を返した。―――クロックタワーへの入学を、早めた方がいいかもしれない。そうして、辿ろう。・エルメロイ・アーチボルトの・・・・私の従妹の、その軌跡を。