蒼天の花



 古びた一冊の日記を綴じる紐はあまりに長い年月を重ねたせいか酷く緩み、ともすれば千切れそうなほどか弱い有様だ。迂闊なことをすればページが崩れてばらばらと落ちてしまうだろう。保存方法がよければもっとマシな状態だったのだろうが、ここにくるまでにどのような経緯があったのか・・・直すにしても綴る紙自体がすでに危ういので、専門家に任せる他ないのだろうなぁ、と思いながら丁寧に布で包んで鞄に仕舞い込む。
 いくつかの貴重品も一緒に鞄にいれると、丁度そのタイミングでひょっこりとビィが顔を出した。

、もう準備できたのかー?」
「できたよー」

 鞄を肩から斜め掛けにし、パタパタと飛んできたビィと受け止めて両腕で抱き抱える。
 つるっともざらっともいえるビィの頭を撫でると気持ちよさげに目を細め、ぶんぶんと緩やかに尻尾をふりながら見上げてきたビィの大きな両目を見返した。

「大公のおっさんの目が覚めてよかったな、
「そうだね。とりあえず健康面に問題はないみたいでよかったよ」
「イオも今頃喜んでるだろうなぁ!」
「喜び過ぎて泣いちゃってるかもねぇ」
「違いねぇ!あいつ泣き虫だもんな」

 笑いながら私の腕をパシパシと叩いて、ビィは我が事のように機嫌良く笑っている。
 思い返せばほぼ涙ぐんでる姿ばかりだったように思うイオちゃんは、きっと大公様の目が覚めたと知れば大泣きぐらいはしているのではないだろうか。まぁ年齢も年齢だし、悲しい涙ではなく嬉し涙なのだから喜ばしいことである。
 なにせあの騒動から三日三晩、大公閣下の目は覚めず、昏々と眠りつづけたそうなのだから――気を紛らわす手段がない分、その心労たるや相当なものだっただろう。
 行方不明の時は大公を捜す、という目的があり駆けずり回って考える時間をあえてなくすこともできたが、今は大公が目覚めるのを待つ他ない。待つしかできない、というのは、存外に精神的にもっともきつい作業の1つではなかろうかと思う。
 恐らく、大公閣下の目が覚めなかったのは極度の疲労によるものだと、専門外ながらそう推察している。なにしろ怨霊をその身に憑りつかせていたも同然で、更には恐らく、だが寝食も疎かにコロッサスに全てを費やしていたのではないかと思う。もう少し発見が遅ければ、別の意味で大公閣下の身が危うかったかもしれない。そう思うとギリギリだったな、としみじみと感じ入りつつとりあえず無事だったんだからセーフセーフ、と誰にともなく言っておく。
 それにしても兄さんが関わった途端のこの怒涛の展開力・・・やっぱりあの人世界から好かれてる系の何かじゃないの?と思わずにはいられない。条件が諸々揃いすぎてるんだよなぁ・・いやまぁ、結末がハッピーエンドでさえあればなんでもいいんだけどさ。
 そう思いつつ、大公が目覚めたという触れを頂き、それに合わせて面会を求められている私達は、宿のチェックアウトもすませて大公の居城へと向かったのである。
 ・・・・・色々無礼を働いた気もするんだが、状況が状況だったんだから、しょうがないよね?





 通されるならば、謁見室か何かだと思っていた。
 バルツの中央に聳え立つ居城に迎え入れられ、普通に暮らしていれば・・いや、並の騎空団であろうとも早々お目にかかることのない豪奢な、かといって煌びやかというにはどこかドラフの武骨さや、職人気質故のシンプルさも備えた広い廊下を進み、思った以上に奥に通されて戸惑っていたのは私1人だけのようだった。なんでだよ。みんなもっと疑問に思えよ。廊下に飾られる調度品も窓枠、柱の細工一つとっても繊細なそれらに感嘆と緊張を覚えながら、数々の扉の前を通り過ぎてあれ?と思ったのだ。確かに城という構造上、私達では想像できないぐらいに広いし、内部も複雑化されてわかりにくいだろう。
 けれど謁見室、というのをそこまで奥深くに作るような国はまずない。密談をするならまだしも、私達は依頼を受けた騎空団として、ひとまずの回復を見せた大公と謁見するだけである。内容としては今回の件の謝礼のお言葉を貰うぐらいで、報酬云々についてはまた後日改めて通達なり現物が渡されるはずである。
 まぁつまり、明らかに客人を通す広間などではなく、居住区に近い奥まで通されることはありえない、はず、なのだが・・・え?どういうこと?内心戦々恐々としていると、ぴたりと案内をしていた兵士の方が足を止めた。自然と全員の足も止まると、一つの扉の前に立つことになり、兵士がこちらで大公閣下がお待ちです、といって頭を下げた。

「閣下、騎空団の方々をお連れ致しました」

 外から大きな声でそう中に呼びかけると、しばらく間をあけて、扉が中からキィ、と微かな蝶番の音をたてて開いた。え?!と驚いて息を呑むと、ひょっこりと開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは・・・金髪の毛先の方だけグラデーションがかった髪をツインテールにしているイオちゃん、だった。ぴょこり、と結わえた髪が左右に揺れて、イオちゃんの頬がぷっくりと膨らむ。

「!?」
「グラン、ルリア。待ってたんだよ」
「イオ?」

 私がぎょっと驚いて絶句しているというのに、グラン兄さんは不思議そうにきょとん、と瞬きをしているだけである。ルリアちゃんもイオちゃんもきてたんですね、なんて呑気ににこにこしているが、待ってこれ私が可笑しいの!?と思わずくわっと見開いた目で兵士さんを振り返った。
 突然瞳孔かっぴらいて振り返った私に兵士さんがびくっと肩を揺らしたが、兜に覆われた顔では表情がわからない。ただ直立不動で肩を揺らした以外では動かないので、もしかしてこれがここでは普通のことなのかもしれない、と私はぐっと唇を引き結んで項垂れた。・・・いくらイオちゃんが大公の愛弟子であろうとも、確か彼女は王族でも貴族でもない一般人のはずである。大公自身が養子に取ったわけでもない少女が、なんで普通に中から扉を開けてくるのか・・・バルツ公国緩すぎない?フレンドリーにも限度がない?いや、大公が弟子に激甘なのかもしれない・・・思わず遠い目をしながらイオちゃんに促され(!?)て室内に入り・・・・私はくらり、と眩暈を覚えた。

「よく来てくれた、騎空団の方々」

 一般のご家庭ぐらいは楽に入りそうな広い室内に、ぽつんとある豪奢な天蓋付きのベッド。床から天井まである大きな窓から差し込む光は明かりをつけずとも十分に室内を照らし出し、窓を縁取るカーテンはまるで舞台の緞帳のような重厚感を醸し出している。
 毛足の長い絨毯が敷き詰められた床は裸足でも気持ちがよさそうだし、部屋の端にある燭台なんて果たしていくらぐらいするのか見当もつかない。その中で一切の違和感なくベッドの縁に腰掛け、明らかに寝間着姿で以前の狂気的なそれとは真逆の穏やかな微笑を浮かべる大公閣下の姿にひぇぇぇ!!と内心で悲鳴をあげて、慌てて膝を折って頭を下げた。

「えっ?」
「なにしてんだよっ?」

 どうしたもこうしたもねぇ!!突然跪いた私に驚いたように声をかけてくる兄さんとラカムさんに頭を下げたまま察しろや!!と青筋を立てる。私ら!平民!!目の前の人!国のトップ!!!

「ちょっと、いきなりどうしたのよ?」

 イオちゃんまでも変なものを見るような口調で問いかけてくるので、すごく言い返したいのをぐっと堪えて頭を下げたままでいる。ていうか今私彩雲国式の跪拝してるわ・・・。明らかにここ洋式だから作法が違うや・・・。でも洋式の作法にそんなに詳しくない・・・せいぜい日本式と疑似中華式しか知らない・・・。それでも伝われ敬意!
 びくびく震えていると、くっ、ふふ、と空気を含んだ笑い声が聞こえ、穏やかな声が前方から降ってきた。

「そう畏まらずとも良い。頭を上げてくれないか、殿」
「・・・ありがとうございます」

 名前知ってるんだーと思いつつ、そろそろと顔をあげれば不思議そうな顔をした面々が・・・いやカタリナさんだけ「あっ」て顔をしてる。それからやばい、どうしよう、とばかりに私と大公を見比べて、おろおろとしていた。遅いよカタリナさぁん!!
 内心で泣きながら顔をあげて、目を細めて私を見つめる大公閣下に跪いたまま伏し目がちにしてあまり目を合わさないようにする。いや、貴人とはね、早々目線を合わせるものじゃないんですよ、はい。

「ふむ。そなたは随分と・・・いや。いい。立って楽にしてくれ。恩人がそのままではわしの肩身も狭くなるというものだ」
「閣下がそうおっしゃるのでしたら・・・」

 あくまで態度を崩さない私に、ザカ大公は何を思ったのか髭をしごきつつやんわりとそういって起立を促した。まぁ、兄さん達の態度を許容しているところをみるに大仰に畏まられる気はなかったのだとはわかっていたのだが、余計なトラブルを起こさない為にも大公本人からの許可というのは必要なわけで。兄さん達には戻ったら貴人に対する作法と一般常識を叩きこまなければならないな・・・。というかここに来る前に言っておけばよかった・・・。当たり前に作法は知らずとも礼は取るものだと思ってたよ。
 そっか、縁がないんだからそこまで考えが及ばないのも仕方ないのか・・・。王政が敷かれているような国出身ならともかく、ザンクティンゼルのようなど田舎の若者じゃそこまで思考が回らないこともあるのか。
 でも私もこっち式の作法はよく知らないんだよね。まさかこんなことになるとは考えたこともなかったし・・カタリナさんは一応帝国の騎士だったのだから、そういった謁見の作法というものも実践したかはともかく知っていると思うし、要相談だな・・・。
 え?地下で横っ面引っ叩いた人間が言うことじゃないって?あれは!非常事態であり異常事態だからいいんだよ!!とりあえず、しずしずと立ち上がりながら私と大公のやり取りを不思議そうに見ている兄さん達に無言で微笑みを向けた。瞬間、ぴゃぁっと兄さん達の肩が跳ねたので、私の笑顔の裏を正確に汲み取ってくれたと思いたい。あとでみっちり勉強会じゃゴラァ!

「皆も、楽にしてくれて構わない。此度は大公としてではなく、一個人としてそなたらに礼をしたいと思って呼んだのだ。このような見苦しい姿で申し訳ないが・・・」
「いえ!そんな。ザカ大公はもう体調はいいんで、ぃた?!」
「大公閣下。お体の具合はもうよろしいのですか?」

 さっと兄さんの横に立ち、近所の年上に対するかごとく気安い口調で話し始めたので即座に肘鉄を兄の脇腹に叩きこんで黙らせる。だから!ちょっとは察しなさい!!楽にしてもいいけど礼儀は弁えなくちゃいけないの!!
 無防備な脇腹に遠慮なく肘が食い込んだせいで無言で痛みに体を捻らせて悶えている兄を尻目に表情を作りながら問いかけると、大公はくくく、と何が可笑しいのか笑いを噛み殺すように肩を震わせた。ラカムさんも、私の態度に朧げながら状況を理解し始めたのか、あー、とばかりに顔を引き攣らせてそっと後ろに下がった。ルリアちゃんは未だわかっていないみたいで、痛むに唸る兄を心配そうに見ているが、まぁ彼女は生い立ちが生い立ちなのでしょうがないな、と思う。とりあえずそこはカタリナさんに任せて、大公閣下を見れば閣下はにやにやとしながら、どこか微笑ましげに私と兄さんを見下ろした。

「あぁ。万全であるとは良い難いが、起きるに支障はない」
「それはようございました。閣下の身に勝るものはございませんので、ご自愛くださいませ」
「え??なんでそんな・・・はう?!」
「グラン、オイラがいうのもなんだけどよ、もうちょっと察した方が良くねぇか・・・?」

 決して建前ばかり、というわけではないが、作ったような口調に兄からの怪訝な視線が向けられる。そして余計なこというな、とばかりに今度はお尻の肉を抓んでギリギリと捻ると、そのやり取りを後ろから見ていたビィが呆れたように半目になった。そうだね、兄さんはもう少し察してくれな?

、グランの顔がひどいことになってるわよ・・・?」
「ははははっ!よいよい、楽で良いといったのだ。そのように尻を抓っていては折角の礼も言えんではないか」
「寛大なお心、感謝致します」

 普通にバレてら。いやまぁわかるか。・・・まぁ、ここまですれば兄さんもなんとなく察してくれるだろう。詳しくは帰ってからやるとして、とりあえず現状ザカ大公も畏まられることを良しとしていないので、通常通りで構わないと見た。そしてここまですれば、部屋にいる部下の方々へのアピールも十分、といったところか。言われた通りに抓っている指をぱっと外すと、兄さんはお尻を両手で覆い隠してさすさすと撫でながら、涙目で私を睨んだ。言葉にするなら「ひどいよ!」といったところか。恨むならば無知を恨みたまえ。
 その視線につんとそっぽを向きながら、ひとまずのパフォーマンスを終えて一旦後ろに下がることにする。団長は兄さんなので、騎空団の礼というなら兄さんが受けるのが道理だ。
 その動作に、ようやく本題に入れることを悟ったのかザカ大公はうむ、と一つ頷き、ごほん、と咳払いを一つ零した。
 一斉に注目が大公に集まる。・・・いやでもホント、寝間着姿で寝室で謁見って普通やらないからさ、もうちょっと体調戻ってからでもよかったんだよ?

「此度は騎空団の方々には弟子共々大変な迷惑をかけた。申し訳ない!」

 そう言って、隣に立つイオちゃん共々大公が私達に向かって頭を下げる。一国のトップが、たかが駆け出しの騎空団に、頭を、下げた。その様子にこの人、本当に本来は掛け値なしの「良い人」だったんだなぁ、と僅かばかり息を呑んだ。普通、一国の王が礼や謝罪を口にしても頭まで下げることはそうしない。まぁバルツ公国がそこまで完全なる王政をしいているお国柄ではないことも一因ではあるだろうが・・・あ、そうか。
 大公は、先ほど一個人として、と言っていた。だからこれはつまり、バルツ公国大公としての礼や謝罪ではなくバルツのザカという個人として私達に言っているのだ。あるいは、イオちゃんの師匠として、という面も含まれているのかもしれない。
 深々と下がった旋毛を見下ろし、律儀というか義理堅いというか、と肩の力を抜いた。

「そして礼を言わせてもらおう。弟子の助けになってくれたこと、わしを止めてくれたこと・・・心から、感謝する」
「いえ、そんな。みんな無事でよかったです!」
「そうです!それにイオちゃんが大公様のことを助けたいって心から願っていたから、私達もイオちゃんのことを助けたいって思ったんです」
「ルリア・・・」

 にこ!と春の雪解けのように、ルリアちゃんが笑顔を浮かべる。ぽかぽかと暖かい、心から誰かのために、と尽くす彼女のその言葉に、うりゅうりゅ、とイオちゃんの目にうっすらと膜が張った。その様子に、あぁ本当に無事に終わったんだな、と実感して胸を撫で下ろす。

「しかし、どうして閣下はあんなことを?」
「帝国が関係しているのでしょうか」

 和やかな空気に、眉を潜めてラカムさんとカタリナさんが少し言い難そうに口を開く。その内容にはっと空気が引き締まり、ザカ大公は重苦しくうむ、と一つ頷いた。

「元々、コロッサスの起動に関しては研究していたのだ。国防の面から見ても、過去の遺産という面からしても、コロッサスの技術はまさに国の宝。技術者としても、大いに興味の惹かれる案件であったことは否めぬ」
「確かに、機械と星晶の融合なんて、研究せずにはいられない内容でしょうね・・・」

 ましてやそれが覇空戦争時代の遺物ともなれば、科学者の興味を惹いて止まない研究材料であることは明白である。それがどういう用途に使われるかはともかくとして、少なくとも「今」のザカ大公がその技術を研究したからといって不用意なことに使用するとは思えない。
 ではなぜあんなはっちゃけた暴走爆走っぷりを披露する羽目になったのかという話なのだが。

「状況が変わったのは、帝国が技術提供を申し込んできたときだ。提携を申し込んできた帝国の者とあったあと、わしは怒りに囚われてしまった・・・」
「黒騎士か!?」
「いや、違う、あやつでは・・・ぐぅっ」
「師匠・・!」

 片手で顔を覆い、その時のことを思い出しているのだろうか。脂汗を浮かべて唸り声をあげた大公に、慌ててイオちゃんが寄り添う。その急な体調の変化に周りもざわつく中、難しい顔でカタリナさんが眉間に皺を寄せた。黒騎士・・・そういえばあの地下遺跡の中でもどうやらいたらしいのだが、こちとら大公の安否と諸々の作業中でその一連のやり取りを全くみてなかったんだよね・・・。なので私未だに今の所最大の敵?らしい黒騎士御一行を目にしていないのだが・・その内会うこともあるのかなぁと思うと、そんな機会一生来なければいいなと切実に思っている。だってなんか聞く限り色々やばそうな人だもんよ・・・人柄とかじゃなくて実力的な面で。化け物かって思うよね本当。

「すまぬ、その者について思い出すことができない・・・」
「・・・微かにですが、大公様から魔晶の力を感じます」
「なんだって!?ってことはアレか?ザンクティンゼルのヒドラみたいに操られてたってことか!?」
「魔晶って人にも有効なんだねぇ」

 まぁ魔晶だけじゃなかったとは思うが、切欠はそれだったんだろうなぁ。そして今更すぎて驚きようがない。飛びあがって驚くビィに呑気にも口にすればそうゆうこったねぇだろ!と突っ込まれた。いや、魔晶、星晶っていうぐらいだから人じゃなくて星晶獣とかに効果的な何かなのかと思ってただけだってば!でも、人にも影響を及ぼすとするなら。

「・・・今後、帝国の影響は強くなるかもしれないね」

 人を意のままにできるようになれば、星晶獣以上に厄介なことになるだろう。ぼそりと言えば、辺りがしん、と静まり返った。

「・・・魔晶、というものがどういったものかはわからないが、わしが我を忘れ、怒りに囚われ憎悪していたことは事実だ。古の同胞達の無念・・・それを思い胸を痛めぬバルツの民はいまい」

 静まり返った室内に、ぽつりとザカ大公の声が落とされる。静かに語られる内容に、自然と周囲の視線が集まった。切欠は帝国の魔晶の研究であったのだろうが、そもそも今までの魔晶の使い方の傾向を見るだに「ないものを植え付ける」というよりも「あるものを増大させる」といった使用法が主だったものらしい。
 ティアマトに関しても、大公・・・コロッサスに関しても。元々あった怒り、悲しみ、そういった負の感情を増大させ、暴走させる。生きているものの中に、善の心ばかりがあるわけではない。誰しもトラウマや心の闇といったものは抱えていて、それに折り合いをつけて生きている。そのバランスを崩すのが魔晶の役目だというのなら・・・まぁ、それだけで十分混乱に陥らせることは可能だよねぇ。

「・・・ザカ大公」
「うん?」

 少しばかり、暗く沈鬱になった空気を掻き消すようにザカ大公に呼びかける。俯いていた顔をあげて、こちらを見る静かな眼差しにほっとしながら、私は鞄の口をあけて中から布に包んだ日記を一冊取り出すと、そっと大公に手渡した。
 布の包まれたそれがなんなのかわからないのか、大公が不思議そうに手の中のものを見つめる。

「これは・・・?」
「日記です。かつて、古を生きたドラフ族の」
「なに?」

 驚きに目を見張り、少し慌てた様子で包んでいた布を取り払うと、現れた古い表紙に恐る恐る大公の指先が触れた。ざらついた表面を撫でて、ゆっくりと大公の手がページの端にかかる。

、そんなもの何時の間に?」
「ほら、古書店で見つけたって言ったでしょ?ついでだから買い取ってきたの。必要かなって」

 一心不乱に日記に目を通す大公を尻目に、ひそひそと話しかけてきた兄さんに私もひそひそと返事を返す。金額?買い叩いてきましたけど?店主も存在を知らないようなやつだったので、内容は知らせずこの本いいですかー?値段ないんですけどーっていったらそこらにあるのはこれぐらいだよーって気軽な感じで言われたのでそのまま、ね。どうも若い店主だったので、代替わりしてすぐなのか臨時だったのかは知らないがいまいち把握をしていなかった模様。運が良かったね!価値がわかったら私じゃ手が出せないところだったよ。まぁその場合は国にリークしてるところですがね。
 だって貴重な歴史的資料でしょ?当時の様子がよくわかる、バルツ公国としては非常に得難い資料のはずだ。国が買い取りに動きだしても可笑しくないし、店主が寄付という形で差し出しても当然だと思われるぐらいの代物である。博物館とか資料館とか、そういったところも喉から手が出るほど欲しいものじゃなかろうか。それを格安で入手できたって・・・いやぁ、本当運が良いよね!

「あぁ・・・」

 そうやって少し自慢気に胸を張っていると、大公から掠れた吐息が零れた。
 視線を向けると、ほろほろと大公の目尻から零れた涙が頬を伝う様が目に映る。その様子に、ぎょっとしたのは私達、というよりも部下の方々だろうか。動揺の走った室内に、大公は泣き顔を隠すように片手で顔を覆い、膝に日記を広げた状態で肩を震わせた。

「そうか、・・・そうか。コロッサスは、悲願とは、あぁ・・・!」
「師匠・・・?」

 そっと、イオちゃんが気遣うように大公の肩に小さな手で触れる。そもそも大公がかなりの巨漢なので、対比が凄まじいな、と思いながら黙ってその様子を見守っていると、大公はゆっくりと顔を覆っていた手を外し、まだ濡れた目元で不器用に口角を持ち上げた。

「ありがとう、殿。この日記を見つけてくれて」
「いえ、偶然ですから。そちらは国に寄付させて頂きます。どうぞ、お持ちください」
「あぁ。すまない、感謝する・・・」

 そういって、大切に、大切に、そっと日記を閉じた大公は一度強く目を閉じた。拍子に、目尻に溜まっていた涙がぽろりと零れたがそれを最後に涙は止まり、ふぅ、と大きく息を吐く。

「・・・我らの感傷は、古には届かぬ。嘆いても、悲しんでも、かつての同胞達に届ける術はない・・・だが、故に我らは古の同胞が未来に残した生きる術で、「希望」を先の世代に繋ぐ――」

 閉じていた目を開け、大公は笑みを浮かべた。寄り添うイオちゃんに視線を向け、肩に置かれた小さな手をそっと握りしめる。

「コロッサスは希望だ。未来に生きる我らのために、同胞が残した「生きる希望」。届かぬ悲しみは過去に、同胞達の願いを先の世代に伝えることこそが、わしらにできる唯一の手向け――それこそが、悲願だったのだ」

 怒り、憎しみ、力を振るうことが全てではない。確かに、始まりはそうだったのかもしれない。コロッサスは、そのために生まれてきたことは間違いない。だけどその先に望んでいたのは、怒りに燃やし尽くされた高野ではなく――笑顔が咲く、満面の花畑であったはずなのだ。
 コロッサスには、ドラフ族の希望が、未来が、笑顔が、託されていた。怒り、悲しみ、憎しみだけが全てではなく、ただ、ずっと願っていたのは・・・誰かの笑顔だったのだ。

「イオよ」
「え?」
「お前こそが、我らの願いそのものだ」

 ぎゅっと、一度強く大公がイオちゃんの手を握りしめる。突然名前を呼ばれて目を丸くした彼女はぱしぱしと瞬きをして大公を見つめ、くしゃりを顔を顰めた。ほろほろと零れる涙は止めどなく、嗚咽を繰り返し肩が上下する。その様子と、ひどく愛おしいものを見つめる眼差しで大公は見つめ、そっとその頭に手を伸ばした。

「何を泣いておる。お前はいつまで経っても泣き虫じゃな」
「だって、だってぇ・・・」

 優しく、大きな手で頭を撫でながら、口調は少し呆れた様子なのに、その眼差しだけはどこまでも優しい。まるで本当の家族のように、大公はイオちゃんを深く慈しんでいた。そして、ようやく、大好きな師匠に会えて、イオちゃんもまた堪えきれないように涙を次から次へと零していく。
 やがて泣き止みそうもないその様子に、大公はしょうがないなぁ、とばかりにそっと握っていた手を緩く開いて、小さな手をその上に乗せた。

「ほら、ここに手がある」

 少しだけ芝居がかった、何かをなぞるような物言いにイオちゃんのしゃくりあげる動きが止まった。小さな手だ。大公の手からしてみればまるで赤ん坊のように小さな、頼りない手。
 その手こそが、何よりも大切な宝物のように――希望のように、大公はそっと握りしめて、額に掲げた。

「この手が、わしを笑わせてくれた―――魔法使いの手じゃよ」
「―――っししょう!」

 飛びつき、抱きしめる。その光景は一等尊く、あぁこれが、彼らが求めていた、望んでいた光景なのだと思って――横でがん泣きしているラカムさんは視界に入れないようにした。
 いやラカムさん泣きすぎ。もらい泣きしすぎ。ルリアちゃんも兄さんも涙目だが、そこまで泣いてないから。思わず引くぐらい泣いているラカムさんはさておき私は何気なくルリアちゃんの胸元をみやって、くすっと笑みを零した。

「よかったね」

 きっとこの光景こそが、古から変わらぬ希望の姿なのである。