蒼天の花



 べしゃり、と水気を含んだ足音を立てて、「それ」が洞窟を這いずり回る。「それ」が通った後はまるで蛞蝓が這いずったかのようにぬめり気を帯びた筋が浮かび上がり、一直線に海へと向かっていた。洞窟の先では微かな潮騒の音が聞こえ、丸くぽっかりと空いた出口だけが、暗く淀んだ洞窟内で白く輝いて見える。青白く、清廉なその光を見る目が、俄かに山なりに細くしなった。薄暗い洞窟内であっても、眩しいと思えるほどに強くもない淡い光だ。けれど、地面に近く、腹這いになって這いずるように動く「それ」の目には、まるで太陽のように眩しく見えるのだろうか。上目使いにねめつける目は、嫉妬と羨望にどろりと濁ってひどく眩しげに出口を見ている。嗚呼。羨ましい妬ましい憎たらしい恨めしい。「それ」の中に渦巻くものを吐き出すように大袈裟に零れた息は鼻につく腐敗臭を纏わせ、洞窟内を更に淀んだものへと変える。
 「それ」は進む。光に誘われる羽虫のように、蜜に群がる虫のように。腐り落ちた肉が、光に手を伸ばした指先からぼとりと落ちる。べちゃり、と、どろどろに溶けたそれが岩場に落ち、その上を「それ」は這いずり進んだ。この先へ行けば。この暗闇から出れば。そうすれば、この無念も恨みも憎しみも妬みも、全て。にたり、と口が裂けた瞬間、「それ」の目の前にマリンブルーが翻った。白い両手が左右に伸びて、丸い靴先が洞窟の岩場にこつりと音をたてる。柔らかに淡く輝きながら、「それ」の前に立ち塞がった。まるでこの先には行かせない、とでもいうかのように、両手を広げて立ち塞がるもの――その姿を認めた瞬間、「それ」のねめつけるような上目が、ガッと大きく見開き裂けた口元からおぞましい鳴き声が洞窟内を震わせた。怒り。憎悪。嫉妬。「それ」の行く先を邪魔するものに向けて、泣き喚く赤子のように駄々をこねてかろうじて残る爪先が岩肌を引っ掻く。カリカリという音と共にべちゃべちゃと腐った肉片を撒き散らせながら、甲高い鳴き声をあげて「それ」はマリンブルーを睨みつけた。それから、どれぐらいそうしていただろうか。行く手を阻むものと阻まれたもの。薄らと淡く光るそれの指先が解けるように滲んだ瞬間、ふと「それ」はにぃ、と嗤った。
 立ち塞がるものが、実に他愛ないものだと理解したかのように、ケタケタと幾重にも重なる哄笑を響かせ、「それ」は一度止めた足を動かした。ずるり、ずるり、べちゃ。先に立ち塞がるものがまるで無力だと見せつけるように、ケタケタと笑いながら「それ」は進む。
 毅然と立ち塞がるそれの靴先まで近づいて、その白く折れそうな足首に手を伸ばす。

さぁ、お前もこちらへおいで。

 腐った指先は腐敗臭を纏わせ、その白い柔肌に触れる刹那――チリン、と、涼やかな音色が響いた。





 一仕事終えた後というのは、大概無礼講となるのが通例だ。リヴァイアサンの攻撃から難を逃れた海の家・・・シェロさんが経営する海の家は、昼間の水着やら海遊びの道具やらを並べ立てていたショップ経営から一転、豪華な食事を提供する食事処に様変わりをし、リヴァイアサンとの激戦を労う祭り会場となってアウギュステ海岸線防衛戦に参戦した多くの人で溢れかえっていた。
 よくまぁあの広範囲無差別攻撃反射から逃れられたものだと思ったが(なにせリゾート地に元より設置されていただろうロッジは直撃を受けて大破である)、なんとなくシェロさんの持家、いや店なら大丈夫そう、という妙な納得はしていた。だってあのシェロさんだし。
 たくさんのお酒と料理で埋め尽くされたテーブルは、物がなくなればすぐさま補充されて開いた皿が忙しなく動く店員によって回収されていく。
 温かな気候の島でこそ取れるフルーツの盛り合わせや、アウギュステだからこそ取れる魚介を惜しげもなく使用した名物の料理に、店の外で行われるバーベキューやキャンプファイヤー。燃え上がる火と煙が夜空に立ち上り、楽しげな笑い声と囃し立てる声が響き渡る。海岸に残る傷跡は深いし、正直周りをみれば地形すらも変わっているところがあるのでこう、ぞっとするものがあるのだが、今はそんなことよりも無事に終わったことを喜ぶべきだろう。復興にはそれなりの時間と労力と金銭が動くだろうことはわかっていたが、できることなんて微々たる募金ぐらいだろうか。そうか・・・ここでも募金活動しなくちゃなのか・・・。ちなみにポート・ブリーズにも定期的に微々たる義援金は送っていますよ?グランサイファー名義で。いや・・・さすがに当事者だから・・・助けたよねはいさよならー!ってわけには・・・ね?まぁラカムさんが送ろうとしているのを目ざとく見つけたルリアちゃんが私もやります!宣言をしてそれからなんやかんやグランサイファー名義で一括して送ろうぜ!ってなったわけですけど。まぁそうだとしてもラカムさんは個人的に送ってるみたいだけど。それとこれとは別ってわけですな。それを考えるとアウギュステにも当然義援金を送るようになるだろうし・・・救いなのは海岸線の被害だけで街にまで被害が及んでいないことだろうか。あのロッジの経営者は実に運が悪いことだが、被害がこの程度で済んだと前向きに考えて欲しい所である。
 それにしても、と賑わう万屋シェロ~アウギュステ出張店~を見渡して私は果汁滴るライムの身を剥きながら、口に放り込んで目を半眼に細めた。すわアウギュステ壊滅かと思われた星晶獣との戦いの最中、一体いつこんな場所と料理やお酒を準備していたのか・・・先見の明にしてもちょっとシェロさんの嗅覚の鋭さと根回しの良さが怖すぎる。
 いつの間にか店員も増員して、オイゲンさんの仲間も含めた大所帯の飲み食いを完璧にサポートする手腕、全く恐れ入る。指先から伝い、肘まで滴る果汁をテーブルの上に置いてある布巾で拭い取ると、同じ席についていたオイゲンさんがボイルされたエビを頭を毟り取りながら口を開いた。

「今回は随分と世話になっちまったな。改めて言わせてもらうが、お前さんたちがいてくれて本当に助かった。俺からの言葉で悪いが、アウギュステを代表して礼を言わせてもらう。本当に、ありがとよ」
「いえ。僕達でもオイゲンさんの・・アウギュステの役に立てたならよかったです」
「オイゲンさん達とリヴァイアサンの絆を守れて、私もグランも嬉しいです」

 オイゲンさんの心からの言葉に、兄さんが口元を綻ばせて笑顔を浮かべる。ルリアちゃんも嬉しそうににっこにこ笑って言うので、打算のない心から手伝えてよかったと言っているのがオイゲンさんにも伝わったのだろう。少しばかり浮かんだ苦笑は、どこか昔失くしたものを思い返すような面映ゆさを感じたが、次の瞬間には嬉しそうに破顔したので特に問題はなさそうだ。
 ブイヤベースの味の染み込んだイカを口に運んで、もぐもぐとその弾力と歯ごたえを楽しむ。あー・・・これイカ自体も美味しい・・・さすが海の島だわ・・・・。
 
「それはそうとして、もう出航するってのは本気なのか?」

 剥き身のエビのぷりっとした白身肉に齧りつきながら、雑談を交わしていた兄さん達に、オイゲンさんがそう問いかけた。どこかで明日には島を出航するということを聞きつけていたのだろう。そこにはもう少しゆっくりしていけばいいのに、という気遣いを感じて、私もだよねぇ、と人知れず同意した。これだけ大立ち回りをしたのだから(私はともかく)、もう一日ぐらいここでゆっくり・・・いやまぁ海岸があれなことになっているが、街もあることだしゆっくりすればいいと思うのだが、兄さん達はそうも言っていられないらしい。
 それはどうやら、私は聞けなかった黒騎士とのやり取りが関係しているようなのだが、もうこれが明らかに誘導されてるんだよねぇ。

「えぇ。黒騎士が言っていたことが気になるし、明日にはルーマシー群島を目指そうと思います」
「黒騎士の掌で転がされてる感は否めねぇが、現状放っておくわけにはいかねぇしな」
「それに、リヴァイアサンが落とした空図の欠片にも、ルーマシー群島が示されていた。行くほかあるまいよ」

 微笑む兄さんとは裏腹に、渋面で頷くラカムさんとカタリナさんにそうか、とオイゲンさんが小さく相槌を打つ。まぁ、地図が行先を示しているのだから確かにそこに行くしかないのだが、黒騎士の発言が引っかかるのも事実だ。・・・空図も無しに、黒騎士は行先を把握しているということなわけだし、やっぱり星晶獣の力を集めて何かをしようとしている、と考えるのが妥当な線なんだろうなぁ。

「確か、黒騎士の横にいた嬢ちゃんが・・・そこの嬢ちゃんと同じような力を持っていたっつー話だったな?そもそも、グラン達はあいつとどういう関係なんだ?それに、嬢ちゃんのその力も・・・」

 至極当然の帰結として、述べられた疑問にグラン兄さんとルリアちゃんは目を合わせる。
 まぁ普通に気になることだし、説明もなしにいられるほど些細な問題ではない。こうなることは有る程度予測済みだとして、実は、と話しはじめた兄さん達を横目に、チリン、と聞こえた鈴の音にはっと振り向いた。
 振り向いた先で、お盆に飲み物を乗せて颯爽とテーブルの合間を縫って動くエルーンの女性店員の剥き出しの背中が見える。そこから視線をやや下方に修正すると、腰に巻きつけられたベルトから、ちりちりと音を奏でる青い飾りが見えて発生源はそれか、と遠ざかる背中を見送った。

「あの飾りが気になりますか~?」
「うわっ」

 綺麗な音だったな、とぼんやりと思っていると、突然視界の外からにゅっと出てきた顔に思わず仰け反り息を呑む。パチクリと瞬きをして視界に入ってきた顔を見つめれば、両手に大きなお盆とその上にほかほかと湯気の立つこんがりと飴色に焼けた鶏の姿焼きを乗せたシェロさんがにこにこと笑顔で立っていた。び、びっくりした・・・!

「し、シェロさん。急に視界に入らないでくださいよ・・・」
「すみません~。さんがあまりに熱心にスタッフを見つめていたものですから~。それで、あの腰の飾りが気になるんですか~?」

 言いながら、ルリアちゃんの前に鶏の丸焼きを置いて、そそくさと私の近くに戻ったシェロさんが声を潜めつつにま、と口角を持ち上げる。そして急にそんなにたくさん食べませんよ!と何やら叫んでいたルリアちゃんだが、誰もその発言を信じない内に猛然と置かれた料理を口に運び始めるので、信用度など無きに等しい。いやまぁ、彼女としてはそんなに食べてるつもりはないんだろうけど・・・一般的に見れば大喰らいそのものだからね。がつがつと食べるその食事の音に紛れてくふふ、と笑うシェロさんに思わず瞼を半分に落とした。
 商売の臭いを嗅ぎつける嗅覚が本当に鋭いというか、隙を見逃さないというか・・・。

「あれは、ここで売ってるものなんですか?」
「そうです~。アウギュステの貝殻を加工して作ったアクセサリーで~人気の装飾具なんですよ~」

 そういって、どこから取り出したのやら。小さな掌に乗せられた貝殻のアクセサリーに視線を落とし、ほう、と軽く頷いた。イヤリングからネックレス、指輪といった加工品、その1つを手に取り指先で抓んで引っ繰り返すように形を見る。貝殻そのままのものもあれば、加工して形を変えたものもある。彩も様々だ。赤や黄色といった派手な色目もあれば、アウギュステの海のように鮮やかな青いものもある。発色があまりに鮮やかで、こてり、と首を傾げた。

「この色は人工的につけた奴なんですか?」
「いえいえ~。これは虹色貝という貝を使用したもので~天然の色なんです~」
「天然?これが?」
「よく人工物と間違われるんですが~一切人の手が加えられていない天然の発色なんですよ~」

 そういって、これがその貝の現物です~とやっぱりどこから取り出したのか、大きな二枚貝を取り出したシェロさんにそれを手渡され、くるくると引っ繰り返してはぁ、と感心の吐息を零した。手渡された貝殻は多少くすんだ色に見えたが、それだけでも天然ものとはにわかに信じ難いほどの鮮やかさを保っている。アクセサリーはよりつやつやとした発色を維持しているのは、ある程度の加工が施されているのだろう。よくよくシェロさんの持つアクセサリーを見てみれば、艶めいたアクセサリーもあれば、貝の形を加工しただけの多少くすんだ色味もあるので、本当に彼女が言うとおり基本はこの貝殻そのものの色だけだと思える。
 まぁ、シェロさんが商品に嘘を吐くとも思えないし、パチモンを掴まされるとも思わないので、信用度は推して知るべし、といったところか。二枚貝を返しながら、少し考えて口を開く。

「あの、鈴のような飾りは?」
「あぁ、それでしたらこちらにありますよ~。でも、いいんですか~?何やら大切なお話をしているようですが~?」

 そういって、出したものを片付けながら掌を店の片隅に寄せられている陳列棚に向けたシェロさんがちら、と兄さん達を見る。合わせて私も視線を向け、どうやら内容的にオイゲンさんも艇に加わるような展開になっていることを察して、ふむ、と頷いた。

「兄さんがいいなら私に異論はありませんし。そもそも想定内です」

 基本的に騎空団としての最終的な判断と人選は兄に一任している。よっぽどがない限り私が口を出すことはないだろうし、オイゲンさんならば人柄としても問題はないだろうから、反対意見を述べる必要もない。ラカムさんが言うように、騎空士としての経験豊富な人が仲間に加わってくれれば今後の運営にも助かるし、兄さん達のような若者には熟練者の助言というものは必要不可欠だ。オイゲンさんならば必要以上のことを口出ししてくるとは思わないし、線引きはキチンとしてくれるだろう。何より、相談相手は多いに越したことは無い。そもそもこの艇、あまりに騎空団としての経験値が低いというか右も左もわからないような面子が多すぎて不安でしかなかったのだ。多少ラカムさんに心得があるぐらいで、後は全然だからなぁ。ここでオイゲンさんが加わってくれるのはむしろ願ったり叶ったりである。仲間になるかもなぁとは思っていたが、もしもならなくてもこちらから誘いをかけようかと思案していたところだ。あちらからわざわざ言ってくれてるんだから、これ幸いとその手を取ることになんの迷いがあるだろうか。
 そういって、がっちりと握手を交わして無事に仲間に引き入れたのを確認してから、私はそっと席を立って兄さんに声をかけた。

「話はまとまった?じゃぁ、オイゲンさんの部屋とか荷物の積みこみとかもあるだろうから、出航日はちょっとずらした方がいいんじゃない?」
「あ、そうだね。そうなると急に明日ってのはちょっと大変か・・・」
はオレが入っても問題ないのか?」
「ありませんよ。オイゲンさんの人柄はこの短い時間でも十分伝わってきましたし、それに兄さんの見る目はそこそこ信じてますから」

 見る目というか、兄さんの吸引力というかカリスマ性というか・・・面倒事には巻き込まれても、対人関係に関して兄がどうこうなるような気は一切しない。しかしそうなると、明日すぐに出航ってのはちょっと厳しいので、せめて明後日ぐらいには変えてほしい所だ。そう軽く提案すれば、兄も納得したのか、じゃぁ余裕を持って、なんてラカムさんと相談を始めている。
 その間、一切会話に参加せずむしろシェロさんと話なんかしていた私にオイゲンさんが確認してくるので、私はにっこりと笑いながら肯定した。

「それに、なんとなくこうなるだろうなとは思っていたので」
「は?」
「それじゃ兄さん、あとは任せたよ。私はちょっとシェロさんと一緒にあっちに行ってるから」
「あ、うん。わかった。あとで報告するよ」
「ん。待ってる」

 きょとん、としたオイゲンさんを尻目に兄さんに軽く声をかけてシェロさんに待たせたことを詫びてから、陳列棚に向かった。リヴァイアサンと戦う前から、薄々こういう展開になるのではないかとは思っていたのだ。それが現実になったからといってあぁやっぱりね、とは思ってもそれ以上思うことは何も無い。
 シェロさんに案内されるまま陳列棚の前まで行くと、彼女はその中から青い貝殻を手に取り、その先についている革紐を抓んで、チリリ、と揺らした。その瞬間、ちりんちりん、と軽やかな音色が賑やかな声に交じって小さく聞こえた。

「お探しのものはこちらですよぉ~」
「思ったよりも小さい、ですね?」
「サイズは色々とありますから~大きいサイズのものをお求めですか~?」

 ついでにカラーバリエーションも豊富ですよ~とずらっと並べられた商品にほう、と頷いて、シェロさんから貝殻の鈴を受け取る。二枚貝の形をそのままに、2枚をくっつけて穴をあけ、中に何か仕込んでいるのだろう。振る度にチリチリと音の鳴るそれを耳元に寄せて聞きながら、目にチカチカするほどの極彩色の貝殻に瞬きをして、思案する。

「・・・これを」
「ありがとうございます~」

 結局、こういうのは第一印象だよな、とばかりに最初に手渡された青い貝殻の鈴をシェロさんに渡すと、にっこりと満面の営業スマイを浮かべて値段を教えられる。
 高すぎもせず、かといって安いというわけでもなく。適度な観光地のお土産価格である。財布から言われた金額分を取り出してシェロさんの小さな掌に置いて代わりに貝殻を受け取り、革紐を抓んでぷらり、と揺らす。濃く深い青い貝殻は、まるでアウギュステの海を写し取ったように鮮やかだ。

「うふふ、その青は~アウギュステの海の色と言われているんですよ~」
「なるほど。確かに綺麗ですよね」
「一番人気の色ですから~さんならきっとその色を選ぶと思っていました~」
「一番人気なら誰でもこれを選ぶんじゃ・・・」
「そうですけど~でも~さんはきっとその色を選ぶだろうなって、思ったんですよ~」

 そういってうぷぷ、と口元に手をあてて笑ったシェロさんはその緑色の瞳をきらりきらりと光らせて、お似合いですよ、とおどけてみせた。世辞なのか本気なのか・・・私はそれに曖昧に笑って、革紐をくるくると手首に巻きつけて固定する。軽く手首を振れば、チリリン、と音が鳴った。・・・うん。良い音。

「シェロさん、私ちょっと夜風に当たってきますね。兄さん達に聞かれたら散歩に行ったって伝えてください」
「了解しました~。でも、一応事は終わったとはいえ、夜道は危ないですからお気をつけて」
「わかりました。では」

 少しだけ眉を下げて、ちらりと外をみたシェロさんの心配そうな声に微笑みながら頷き、さっと右手を振って踵を返す。丁度手首につけた鈴もチリンと鳴って、店の外に出れば店先でもビアガーデンのようにテーブルを置いてキャンプファイヤーとバーベキューに勤しむ人達の姿が見えた。酒を飲んで気が大きくなっているのか、笑い声が絶えない。
 ガハハと響く声の間を縫うように進むと、丁度視界にテーブルを囲んでお酒を飲んでいるゼタさん達の姿が見えた。中にいないと思ったらこっちで飲んでいたのか。それはあえて私達の追及をかわすためなのか、周りを気にせず飲むためなのかはわからない。ただ、まぁ、こちらもわざわざ突っ込んでいくこともないだろう、とふいっと視線を外した。どうせ問い詰めたところでまともな答えが返ってくるはずもないのだし。問い詰めるだけ無駄というものだ。それにしても荒くれ者の中にあってもバザラガさんの風貌は悪目立ちするよな、と思いながら酔っ払いが横行する中をするすると抜けて、1人、静かなさざ波が聞こえる浜辺を進む。
 波打ち際を歩くと、さくさくさく、という足音と共に濡れた砂地に残された足跡がぽっかりと私の後ろに続いて、打ち寄せる波にその形が攫われていく。後に残るものは何もなくなるように、寄せては返す波が私の後を消していくばかりだ。見上げれば、とっぷりと暮れた夜空に煌々と光る星屑と満月が浮かんでいる。夜の浜辺は火の灯された海の家から離れれば嫌が応にも闇が際立つというのに、歩くにも周囲を見渡すにも困らない程度には十分な月明かりだった。いや、やたらと大きな月は、くっきりと浜辺に影を描き出すほどに強く輝いている。眩しくも、熱くもないのに、アウギュステの月はひどく明るく、海辺を照らし出して暗い海を銀色に変えていた。きらきらと月明かりに照らされて、星屑のような波が寄せては返す。まるで、空のような海。静けさも相まって、やたらと幻想的な風景に昼間の荒れ狂う海とは対照的すぎて眩暈を起こしそうだ。二面性を持つ海の顔。昼と夜。慈愛と逆鱗。深すぎるほどの優しさで奇跡を起こし、時に苛烈なほどの残酷さで全てを飲み込む。救いもあれば、絶望もある。海とは、元々そういうものだと思う。いや、海に限らず、自然というものはそういうものだ。人の手でどうこうできるようなものではなく、諦め、受け入れる他ない営みだ。そういうものだと、思うけれど・・・アウギュステは、ちょっと違う。その違いが、きっと、より大きな、歪を生んだ。
 溜息を零して、砂浜からごつごつとした岬の岩場に移る。潮の引いた岩場は、昼間には見えなかった足場を露わにして、月光に照らされながら点々と道を作りだす。
 濡れた岩場から足を踏み外してしまわないように気を付けながら、その僅かな間にだけ出来上がった道を岩壁に沿うように進むとその先に、ぽっかりと空いた暗闇を見つけた。同時に、魚が腐ったような、淀んだ水場の腐敗臭がツンと鼻先を刺激して顔を顰めた。潮風が撫でる肌は粟立ち、ぞくぞくと陰気な気配が口を開けた洞窟から漂い濃厚な腐敗臭に思わず鼻を抓む。そうすると自然と口で呼吸をすることになるのだが、そうするとなんだか舌の上になんともいえない気持ち悪い味が広がっていくようで、どっちにしろ不快な感覚は消えず渋々鼻を抓む指を外した。喉奥にまで残るような味を長く味わいたいとは思わない。途端むわっと腐敗臭が押し寄せてくるのだから、どっちにしろ苦行でしかなかった。あぁ、本当に嫌だ。鬱々とした気持ちで月光さえ届かない無明の洞窟を覗き込んで、溜息を吐いた。
 昼間に入口の半分は潮の中に消えていた洞窟はその姿を現し、奥から漂う生臭い腐敗臭と足元から這い上がってくる冷気が、ビーチサンダルを履いた裸足の爪先を容赦なく冷やしていく。常は潮の中に沈む洞窟だからか、全体的に湿った岩肌は時折天井から雫を垂らして足場を濡らし、僅かに差し込む月光を受けて足元の潮だまりを銀色に照らしていた。
 しかし、その月明かりも洞窟の奥を照らし出すことは叶わず、目を凝らしたところで先を見通すことは叶わない。例え人工的な明かりを持ってきたとしても、あの奥は照らせそうもないだろう。洞窟の前で足踏みをしつつ、この奥に行くのか・・・と気の進まない作業に眉間に人差し指を添えてぐりぐりと解す。そうしている間も肌を撫でる陰気な気配は濃度を増し、漂う腐敗臭もどんどん強くなってくる。ぞくぞくと嫌でも背筋を撫でてくる悪寒に鳥肌を立て、確実に「外」に出ようとしている気配に腕組みをすると、一度きつく目を閉じて、覚悟を決めるように目を開いた。キッと洞窟の奥を睨みつけ、一歩を踏み出す。中に踏み入った瞬間、ぞぞぞぞぞ、と蠢いた闇がまるで小さな生き物の集合体のように見えて、ひえ、と嫌悪感にラッシュガード越しに二の腕を撫でた。やばい、普通に気持ち悪い。洞窟の中は入口よりも冷え込んでいて、寒さとどんどん圧を増す穢れた気配にこっちもどんどんテンションを下げながら、やけくそ気味に手首を振った。

 ――チリン。
 
 手首に巻きつけた虹色貝の鈴が、淀んだ洞窟内に涼やかな音を響かせる。刹那、奥に滞る闇が甲高い悲鳴をあげて波打った。たぷん、と揺れた闇が、のたうつ様に蠢いて奥に下がる。その分だけ、洞窟内の明るさが少し増したように見えて、私は歩く足を止めず尚もチリチリと鈴を鳴らした。

 ――チリン

 ―――チリン

 ――――チリン

 鈴の音は決して大きくはなく、潮騒の音に掻き消えそうなほどに小さく弱い。けれど涼やかな音色は凛と響いて、その音に怯えるように凝るモノが後退していく。洞窟内に潜む巨大な闇が、たった一つの鈴の音に悲鳴をあげながら後退していく様は、こういってはなんだがひたすらに哀れだ。彼らとて、こうなりたかったわけではないだろうに。
 凛と音が鳴る度、足を進めるごと、下がっていく闇の代わりに潮騒と月明かりが広がっていく。背中に海の音を背負って、ようやく月光さえも入口から届かなくなったギリギリのラインで足を止めた。

「・・・間一髪、って奴ですかね」

 声色に込めたのは呆れだ。居てもたっても居られなかったのは理解できるが、それにしても無謀である。語尾には微かな安堵を含めて吐息を零せば、立ちはだかるマリンブルーが、ふらりと体を揺らして振り返った。背中で揺れる長い茶髪の先が滲むように解けて、輪郭が曖昧にぼやける。眉を潜めると、服と同じマリンブルーの瞳がどこかほっとしたかのように緩く三日月を描いた。

「来てくれるって、信じていたもの」

 か細い声で悪びれない言葉に米神に痛みを覚えつつ、ぐりぐりと指先を押し付けて境界線を踏み越える。刹那、ザザァ、と闇が震え、威嚇するかのような雄叫びがびりびりと空気を震わせた。
 同時にむわりと押し寄せる腐敗臭・・・いや、穢れを帯びた負の気配が体全体に纏わりついてきた。いくつもの腐り、肉の蕩けた手が、骨の見える指先が、私を押し返そうと、排除しようと伸びてくる。その手の何本かが、目の前のマリンブルーにまで魔手を伸ばそうとするから、顔を歪めて思いっきり足を振り下ろすようにして、叩きつけるように靴底で地面を踏み鳴らした。
 ダァン!!と響く音に、まるで叱られた子供のように伸びてきた腕がびくりと震えて動きを止める。続けざまに手首を振って、鈴の音をチリンチリンと鳴り響かせれば、呻き声のようなものをあげて「それ」が身震いした。

「その人を取り込んだところで、あなたは『救われない』」

 はっきりと告げる。言葉に力を籠めるように、それに意味はないのだと言い捨てる。できるだけ毅然とした態度に見えるよう見栄を張りながら蠢く「それ」を見つめれば、オォォオォオン、と咽び泣くような声が響いた。まぁ、声と聞こえるのは私や「それ」に類似したものだけで、実際は声というよりも、超音波のような振動めいた、声というよりも雑音に近い何かなのだが、「それ」からしてみればそれは声なのだろう、と思う。
 腐った体を揺らし、いくつもの手を動かし、近くの岩壁や地面を叩いて泣く姿は嫌だ嫌だと駄々を捏ねる子供そのもの。腐敗し、溶けた肉片と悪臭を纏いながら、「救い」を求めるそれは咆えた。


 何故邪魔をする、嫌だ、出たい、ここから、海へ、復讐を、慈悲を、何故自分達ばかりが、死にたくない、助かりたい、助けて、冷たい、苦しい、海よ、母よ、守り神よ、どうして、救いを、あいつは助かったのに、どうしてわたし/おれ/ぼく/あたし/は、何故、なんで、そいつだけが、あいつだけが、わたし/おれ/ぼく/あたしも、何故「それ」のようになれない!!


 信じて、恨んで、憎んで、求めて、願って、祈って、長く永く、凝った思いが混ざって――腐って、どろどろに溶けて、だけどどこにも行けず。救われず。母なる海に溶けも出きずに――リヴァイアサンの奇跡を、受けられなかった成れの果て。
 守り神に、助けて貰えなかった、命の残骸。長い、永い時間、幾人もの人が、生き物が、あると思いながら、信じて、願って、祈って、だけど、得られなかったものに裏切られた、失意の形。助かったものがいて、助からなかったものがいた。たった、それだけのこと。たった、それだけが生み出した、その歪。
 嘆く声に、怒りの涙に、失意の吐息に、マリンブルーがそっと目を伏せた。

「奇跡は・・・平等では、ないわ」

 受けられるものと、受けられないもの。
 本来奇跡とは、滅多に起こり得るものではないからこそ奇跡と呼ぶ。起こらないことの方が当たり前で、普通のことなのだ。そうであることが当然なのに、それでも生まれた差に、絶望しない人などいるだろうか。なまじ、アウギュステのリヴァイアサンという存在は、その奇跡の信憑性が高い。誰かが受けたのなら、自分もきっと、と、思う気持ちが裏切られた時。昇華できない、凝りが生まれる。

「それでも、リヴァイアサンを恨むことは間違っている。救われなかったかもしれない、助けて貰えなかったかもしれない。だけど、確かに、私達はリヴァイアサンに生かされていたわ!」

 ぐっとぼやける指先を胸元で祈るように組み合わせて、マリンブルーが必死に「それ」に言い募る。

「この海に生かされていたこと、この海を愛していたこと――愛した人がいる海だということ、その全てを忘れてしまわないで!」

 泣きそうに震える声で叫ぶ。腐り落ちた魂に、思い出してと訴えかける。その凛とした背中を見つめて、緩やかに目線を下に下げた。今、その心のまま海に出れば、取り返しのつかないことになる。ただでさえ今リヴァイアサンは疲弊している。その状態で悠久ともとれる時間の中で熟成され腐りきった穢れが海に流れ出てしまえば、リヴァイアサンとてただではすまないだろう。いや、海そのものも、死海と成り果てるかもしれない。
 それを見過ごすことはできない。見過ごしてはならない。だから、彼女は微力な身でここにきた。少しでも押し留めようと、思い直させようと言葉を尽くしている。
 けれど。
 「それ」が、溶けた肉で半分隠れた眼球を、ぎょろりと動かした。ぼこぼこぼこ、体中に生まれた目玉が、ぐわっと見開き、血走った視線で憎々しげに「彼女」を睨みつける。睨みつけ、やがてそれはにんまりと細く歪んだ。傷口のようにぱっくりと裂けた場所からびしゃびしゃと塩水とどろりと腐った何かが混ざった物が飛沫を飛ばして、ゲタゲタと嗤い声はいくつも重なって洞窟内で反響する。嘲笑。悪意。失望。蔑み。吐き出された臭い息が、むん、と洞窟内を淀ませた。

 
 そ れ で ?


 嗤い声に混ざったからかうような問いかけに、彼女のマリンブルーの瞳が丸く見開かれた。え、という意表を突かれた声に、益々「それ」が嗤い声を大きくする。


 それでそれでそれでだからだからだからどうしたどうしたどうしたどうした愛したから愛されたから愛しているからだからそれでなぜそれがなんのどんなどれほどの意味がある?


 嗤う哂う笑う嘲うわらうワらうワラうわラうわらウワラウ。


 ねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえねぇねえねぇねぇねぇねえねぇねぇねぇねぇねえねえねぇねぇねえねぇねぇねえねえねえねえねえねえ―――



ネ ェ ?



 噴き出す。悪意。殺意。失意。びゅるっと飛沫が飛んで、体中から伸びた腕が洞窟の壁という壁、天井という天井に張り付いて、地面を這うように伸びてくる。
 その醜悪な形に、彼女の顔が青ざめ、ひぐっと喉を引くつかせると掠れ怯えた声を零した。引き攣った声がさも可笑しい、とでもいうように、「それ」が不協和音のように煩雑な笑い声をあげて、洞窟の壁という壁に張り付いた腕からぎょろりと飛びだした目玉が一斉にこちらを見た。にたりと三日月に歪んだ目は、間違いなく彼女を見下している。小馬鹿にして、正論を、綺麗事を真面目に説いた自分達とは違う「真っ当」なものを、憎んでいた。

「どう、して・・・」

 茫然と「憎しみ」を向けられた彼女に、益々負の力が強くなったな、と洞窟中を覆う穢れに吐き気を覚えつつ、つい、と目を細めた。

「あなたと「それ」では、熟成した期間も数もあまりにも違いすぎるんですよ」
「・・・え?」

 振り向いた彼女を庇うように前に出て、これはなんと形容したらいいのか・・・例えるならイソギンチャク?のような形になった、しかも触手部分の形状は人の手の形という地獄のイソギンチャクとしか言いようのない姿形に、眉を潜めた。
 彼女の考えでは、私が来たことで「それ」の影響が衰えて、声も届くだろうと思ったのだろう。元は自分と同じもの。同じ海を愛し愛されたものとして、言葉を尽くせばきっと思いとどまると思っていたに違いない。自分と違う道を行ってしまった同胞を憐れんで、悲しんで、どうにか救いたいという慈悲の心から起こした行動だ。それは、間違いじゃない。その方法も、有りといえば有りである。心を尽くして、言葉を重ねて説得する・・・そんな方法もあるし、実を結ぶことも有る。そうであればどれほどいいか。でも、それが通じるほどに彼女と彼らは近くはなかった。当然だ。目の前で嗤う「それ」は、幾人もの魂が寄り集まり、永い時間をかけて形成された「集合体」なのだから・・・たった1人の言葉は、ましてや知り合いでも恋人でも家族でもない、言うなれば他人の言葉が、一体どれほどの力を持つというのだろう。
 ぼとぼとと腐った汁と肉が落ちてくるとヘドロのように地面でぬちゃりと音をたてる。可哀想にとかそういう同情心がないわけではないが、どろどろに溶けるまで腐り、悪臭と穢れを撒き散らす姿はどうしようもなく生理的に受け付けようがない姿である。嫌悪感すら覚える姿を見上げて、困ったように眉を下げて彼女を振り返った。

「あなたは正しい。そして優しい。でもね、もう「これ」には正しいことなんてどうでもいいんです。ただ、自分さえよければそれでいいんです――そう腐りきってしまうほどに、永い時間「これ」はずっと海にいたんですよ」

 これは、昨日今日積み重なったものではない。長い時間、アウギュステが出来たときから――リヴァイアサンがこの海を守護すると決め、ここに人が住み始めたその時から、「差」は生まれ無碍にされた「祈り」の慣れの果てだ。誰が悪いわけではない。誰かを悪いと罵ることは出来ない。それは実に不毛で無益なことだ。かといって、恨まないでいられるほど出来た人間がいるわけでもなくて。大なり小なり救われなかった魂が嘆き羨んで嫉妬することは、それもまた自然なことなのだ。そうして、溜まり、淀み、凝り、渦巻いたものが、今こうして具現化しようとしている。この海に復讐をしようと、暗い海底ではなく、明るい日の元に舞い戻ろうと、手を伸ばした・・・本来なら、起こるはずのなかった事象だ。例えいくらこれが時を重ねても、幾人もの嘆きを内包しても、最早原型もなくなるほどにどろどろに混ざり、腐り落ちても――こうして姿を現すことは、なかったはずなのだ。
 静かに、ただ見えたまま、感じたまま、理解したままを告げれば、マリンブルーの瞳が傷ついたように揺れた。ぎゅっと噛み締めた唇が白くなり、ぼやける輪郭が淡く解けていく。

「私では、どうにもできないのね」

 どうにかしたかった。大切だから。なんとかしたかった。その気持ちは痛いほどに伝わる。できるのなら自分の手で。同じアウギュステのものだから、同胞の手で。けれど、酷なことを言うようだけれど・・・彼女の力では、どうしようもない。
 あまりに弱く、微かな、個であり一部でしかない彼女では・・・最低でも500年近くの長い時を過ごし、何百、何千と寄り集まり腐りきった穢れを鎮めるだけの力はなく、そしてその姿をここに留め置く時間も、ない。
 籠った空気に深く息を吐いて、手首を翻す。チリリン、と鳴った鈴の音に、ピン、と空気が張りつめた。

「できるだけのことは、しますよ」

 そのために、わざわざこんなところに来たのだから。そういって微かに笑みを浮かべると、最早限界だったのか、ぼやけた輪郭が小さな気泡のように弾けて解けていく彼女がそっと目を伏せ、光に淡く白く薄れていく唇を震わせた。

 ――ごめんなさい。

 微かな声がしゅわりと溶けて、滴るヘドロのような肉片を僅かに体をずらして避ける。

「しょうが、ないですよ」

 できないことはできなくて、やれる奴がやるしかないのだ。好き好んでしたいわけでもないけれど、みすみす見過ごすわけにも行かない。今喜んでいる兄さん達を、また絶望に叩き落とすわけにはいかないのだから。

「・・・さて。それにしても、どうしたもんかな」

 根を張るように洞窟の壁や天井、地面にへばりつく姿にどう引き剥がしたものかと思いながら、いくつもの目玉がぎょろぎょろと動いてこちらを見下ろしてくる圧巻の姿にうへぁ、と顔を顰めた。
 ・・・昔なら、八葉の皆が総当たりで弱体化させて隙をついて浄化したものだが・・・さすがにこの世界に八葉はいないし、兄さん達にその手の才能はない。まぁ才能といっても八葉とて白龍に選ばれたからこそあれだけの力を得たわけで、そうでなければただの人も同然だ。魔物と怨霊は別種の存在だからなぁ。まぁこれは怨霊というか悪霊というか化け物というか怪異というか。かといって、これだけの大物を1人で相手取るのはかなりきびし、

「っと、うお!?」

 びゅく!と伸びてきた触手が足首を狙ったのに咄嗟に足を引いて避けると、間髪入れずに次々と手が伸びてきた。それを体を捻って横、後ろと捌きながらくるっと回転して地面を蹴って後ろにジャンプする。べちゃ!びしゃ!と私が元々居た場所に張り付く触手からずるずると穢れたものが広がっていく姿におえっと餌付き、再び伸びてきた手を振り払うように右手を横に振った。チリリン、と響く音にびくっと触手の動きが止まる。その隙を突いて一気に後ろに下がって距離を取って、まずいな、とぐっと目元に力を込めた。

「どんどん強くなってる・・・?なんで・・・?」

 先ほどよりも、「それ」が影響を及ぼす範囲が広がっている。私が先ほどまで立っていた場所は、「それ」が手を伸ばせない「境界線」があったはずだ。だが、今そこまで「それ」は手を伸ばしてきた。いや、越えて、私にまで手を伸ばしてきたのだ。その分、洞窟内で「それ」が占領する範囲が広がり、「それ」の場に変えられている。陰の気配が一層高まり、最早洞窟の奥など奴の胎の中といってもいい異空間になっているに違いない。近づきたいとも思わないな、と思いながら、僅かに驚愕に目を見開くと更にのたうつように触手が洞窟の中を覆いつくして行く。

「時間をかけるだけ不利になる、か・・・うん?・・・時間・・・?」

 そもそも1人で相対するには不利なことこの上なかったわけだが、と首を捻ったところで、はっと天啓のように脳内を白熱電球がパっと点灯する。振りかえって外を見る。入口から繰り注ぐ月光の範囲が変わっており、それはイコールで月の位置が変わっていることの証左だ。
 ここでこうしている間にも時間は刻一刻と過ぎている。そういえばここに来る時で何時ごろだっただろうか。リヴァイアサンとの一件で確か時間帯としては夕方に近かったはず。季節が夏に近いせいか、夕方といっても外は明るいままだから少々感覚が狂うが、時計でみればいい時間だったはずだ。そこから準備や諸々の後始末があり、宴が始まって――そうか、と瞬きをする。

「丑三つ時・・・やっばいな」

 魔が力を増す時間。妖しが跋扈し、人から魔の領域に塗り替わる僅かな時間――その時間が、近づいているのか。人じゃないものがもっとも力が増す時間帯といってもいい。その時が近づいているからこそ、目の前の「それ」も活発になっているのだ。
 そうなると、本格的にその時間を迎えてしまうとさすがに私も1人でどうこうできる範疇を越えてしまう。来る時間をミスったかな、と思ったが来なかったらその時点でアウトだったと思われる。結果的に今どうにかするしかないのだ、と考えを切り替えて、シャン、と手首を振って鈴の音を響かせた。定期的に鳴らさないとこいつ隙あらば攻撃してくるんだよね・・・今めっちゃ睨み合って牽制してるけど、あの大量の目玉の眼力に負けそうになる。
 そもそも見た目がすでに腐ったナニかで更に臭いまで不快そのものなのだ。ゴリゴリ精神力が削られてしまい、挫けそうになる。醜悪というのは、見た目だけで人の精神をどうにかできるから手強いことこの上ないんだよなぁ。恐怖、とか、嫌悪、とか。見た目でそれをアピールしてくるのは理性と一般的な感性を持つ生き物にとってマウントを取るには十分な手段なのだとつくづく思う。まず最初の気持ちで負けたら後手に回るじゃん?そこから持ち直せるかと言われたら難しいじゃん?持ち直せなかったらお陀仏じゃん?慣れとかもあるだろうけど、やっぱり慣れてても「うわぁ」という気持ちがなくなるわけじゃないし・・・できれば近づきたくないなぁって気持ちもなくなるわけじゃないし・・・ホント厄介な存在だな、と舌打ちを零す。

「・・・九郎さん達も歌仙さん達もいないでやるのはきっついんだけどなぁ・・・」

 サポート皆無でオンリーワンでやるのちょっと元神子様でもきっついよ?そもそも現役時代でもサポートあってのメインウェポンだからね?基本後方待機トドメに一発かます程度だったんですからね?それを全部やらなくちゃいけないのかと思うと辛い、と心で涙しながら右手に巻きつけた虹色貝の鈴を鳴らしながら両手を組んだ。

「臨」

 唱えながら、素早く指を組み替えて独鈷印を作る。
 そういえばこれ、景時さん並びに刀剣達に教えて貰ったんだよな、と思う。覚えていて損はないよ~とか言われたけど、まさか本当に活用する羽目になると誰が思っただろうか。ちなみにマジモンの神様はこんなまだるっこしいことしないで「破ァ!!」で終わるぐらい格の違いというものがあるので、実際あんまりこういう豆知識!みたいなことは教えて貰ってないんだよね。私が関わる神様、基本的にめっちゃ位が高いから・・・考えてみれば恐ろしいぐらい格が高いから・・・大概のことをパチンって指鳴らすだけでどうこうできるぐらいに力の差が凄まじいんだよ・・・。当時は深く考えてなかったけど、今思えばいくら神子経験ありとはいえ私不敬だったな?ってぞっとするもん。皆さま、寛容すぎて頭が上がらない・・・刀剣はね、人が作ったものだからね・・・そもそも祀られてるわけでもなかったからね・・・。いや祀られてるものもあったけど。
 
「兵」

 続けて大金剛輪印。慣れないと指が攣りそうになるというか唱えながら指を組み替えるの大変だよね。余裕じゃないかだって?・・・遥かの世界の時はともかく、某審神者時代はなんだかんだホラーが身近だったんだ・・・。げに恐ろしいのは人間也ってな。

「闘」

 外獅子印。組み替えた瞬間、それが体を震わせてぶわっと腐った体を波立たせた。

「者」

 内獅子印。指遊びでもしているような形だが、真面目な印である。ぼと、ぼとぼとぼと、と、天井に張り付いていた触手から腐った肉が滴り落ちてくる。

「皆」

 下縛印。両手を指が外側に来るように握り合わせ、ひたりと目を合わせるとびくん、と「それ」が震えて動きを止める。ぎょろぎょろと動いていた目も、びた、と動きを止めて見開いたまま体を震わせた。

「陳」

 内縛印。外側に見せるように組んでいた指を、今度は内側に仕舞い込んでぎゅう、と力を籠めるとふるふるとそれが震えてきゅぅ、と小さく纏まる。

「烈」

 智拳印。組んだ手を素早く上下にスライドさせて人差し指を握りこむように形を変える。瞬間、「それ」の目がキリキリと細くなり、ぶるぶると大きく体を震わせると体中に裂け目を作り、この世のものとも思えない、言葉に形容し難い叫び声をあげて滅茶苦茶に触手を伸ばしてきた。

「在」

 日輪印。人差し指と親指の先を合わせ、丸・・・日輪を作り、その中に「それ」を収める。滅茶苦茶に暴れる触手が洞窟の壁や天井にぶつかり、時に破壊しながら瓦礫を落としていく。やだ、洞窟崩れたりしないよね?とむしろそっちに怯えながら、息を吸って最後の印の形に組み替えようとしたところで、ギュル!!と音をたてて、一本の触手が私目がけて真っ直ぐに伸びてきた。槍の穂先のごとく鋭く尖った切っ先が、過たず胸部を目指して突進してくる。
 あ、やばい。このままだと胸貫通する。凄まじい勢いで伸びてくる触手の動きを、まるでスローモーションのように視界に収めながら、この九字の最中でも動けるということは、やはりそれだけ強くなっているということだろう、と瞬いた。しかし、今身を崩すと折角作り上げたものが霧散し、逆に無法地帯となってしまう。始めたからには一気に仕上げなければならない。たらり、と米神を汗が伝い落ちる。動けない、と息を詰め「それ」の触手が胸に届く刹那、キィン、と弾かれるようにそれが曲がった。曲がった触手が、地面にぶち当たり砕けた石の破片が四方八方に飛び散っていく。
 一瞬何が、と思ったが、考えを煮詰めている暇はない。即座に指の形を変え、たぷんたぷんと波打ち震え、のたうつ「それ」を睨み据えた。

「前」

 パシン、と軽い音とともに拳を掌に打ち付けるように形を変え、拳を掌で下から包み込む。最後の陰形印の形を作ると次は人差し指と中指を伸ばし、小指と薬指を曲げて、曲げた指の爪を親指で押す。両手同じ形を作り、左の穴に右手の人差し指と中指を差し込んで左の腰に当てる。イメージするのは剣と鞘だ。鞘に納まる刀身の、ギラリと輝く白刃の煌めきが脳裏を過ぎる。
 更に言えばここで真言諸々を唱えるが吉なのだが、この世界にそれに属する仏はいない。それを言うなら九字を切るという概念もないのだが、これは剣を作るための前段階だ。そう思い込むことによって、よりはっきりと明確な「破邪の剣」を描き出す。
 「それ」が叫ぶ。今までニタニタと悪意に嗤っていた顔が、恐怖と怒りと怯えに震えあがりながら、滅茶苦茶な動きでこちらを牽制しようと手の形をした触手をしならせた。
 幾人もの声を重なり合わせ、声ともいえない叫びを迸らせ、ビリビリと空気を震わせた。動物の威嚇のような吠え声は、ともすれば怯んでしまうほどにおどろおどろしい。
 けれど、今更。今更、その程度で怯めるほど、私もか弱くはあれない。というかやらなきゃやられる。もっと昔ならばあるいは、と思いながら、シュッと音をたて、「鞘」から「剣」を抜き放った。

「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前!!」

 四縦五横。指を走らせる度に、光の一線が走る。それはさながら、刀の一閃のごとき太刀筋で、瞼の裏に浮かぶのは鮮やかに翻る刃の、怖いほどに美しい白刃の煌めき。
 肉を裂き、骨を断つ。その場を切り裂く、破邪の切り込み。敵を屠る、美しくも残酷な鋼の凶器―――神の剣も、人の刀も、私はどちらも知っている。

「巡れ、天の声」

 最後に横に指を、剣先を滑らせ、びたりと動きを止めた「それ」に目を細める。
 体中、筋の入ったそれはその傷口からぶしゅぶしゅ、と瘴気と体液を噴き出し、わなわなと震える体で低く空気を震わせる。

「響け、地の声」

 太刀筋から、光が滲み出る。体の奥から溢れるように、ピカッと光が零れ、洞窟内を俄かに明るくしていく。白く、鮮烈な光に、ぎょろりと動いた目玉から、ほろりと。

「彼の者達を――」

 不意に、零れた何かを掬い上げるように、亀裂から光を放つ「それ」に長く、細い体が巻きついた。いや、巻きつくというよりも、抱きしめた、といった方が正しいのかもしれない。
 長い胴体をくねらせ、優しく、柔く、幼子をあやすように、青銀に煌めく鱗を「それ」から溢れる光できらりきらりと星屑のように瞬かせて。
 その光景に目を細め、しゃんと鈴を鳴らしながら鞘に剣を納める。

「封ぜよ!!」

 刹那、溢れる光が洞窟内を隅々まで照らし出し、ぱん、と弾けるように光の粒子が舞い上がる。天の昇って還っていくように、螢火のようにあやふやな光の粒が、ふわふわと揺れて、消えて、穢れ、淀み、濁った場を、清めていく――その中心で。

「・・・また、待つの?」

 下を向いて、ほとほとと涙を零すその小さな姿に問いかける。落ちた雫が、小さな黒い欠片に当たるとつるりとその上を滑り落ちた。ゆるりと、鎌首をもたげるようにこちらを振り返り、見上げた眼差しに眉を下げる。

「私なら、浄化することができるよ。ずっと、抱えなくてもいい。むしろ、早く解放してあげた方が、あなたも、「あれ」も、ずっとずぅっと、楽になる」

 傍らに膝を着き、そっと手の甲を寄せるようにして伸ばせば、すり、と冷たく硬質な感触が伝わってくる。指を動かして、零れる雫を少しだけ受け止めるとキュゥ、と小さな鳴き声が鼓膜を震わせた。

「そっか。あなたがそう決めたなら、それでいいよ」

 どんな姿になっても、抱き続けるというのなら、それでいいよ。手放さず、いつかそれらの心が、前を向くときを信じるというのなら――救わなかった魂を、手放さないというのなら。

「まぁ、ちょっと手を加えたから、前よりは前向きになってくれるとは思うけどね。うん、うん、そうだね・・・あそこまで歪んだのは、これのせいでもあるからね」

 本来ならば、出てくるはずのなかった歪み。ずっとずっと、見捨てず、諦めず、包んで見守っていくはずのそれが、ああして出てきてしまったのはこの魔晶のせいだ。
 地面に落ちた濁った紫色のような黒水晶の鋭利な欠片をひょいと拾い上げ、ぐっと指先に力を籠める。脆い材質なのか、脆くなったのか。ピシピシ、と音をたてて罅の入っていくそれに目を細め、本当に帝国は碌な事をしやがらない、と悪態を吐く。

「あなたを惑わせた魔晶が、「あれ」らにも混ざってしまったんだね・・・だから余計に、力が増したのかもしれない」

 時間帯もあっただろうが、それ以上にあれほど強烈になっていたのは、魔晶が一旦を担っていたせいでもある。そして、巻き込まれた帝国兵の怨嗟もまた、より拍車をかけたのかもしれない。自業自得だとは思うけど、そうとは考えないから厄介な話だ。
 溜息を吐き、黒水晶を抓む指先とは逆の手で、ぱちん、と指を弾く。瞬間、パキン、と指先で高い音をたてて砕けた破片がきらきらと光り、地面に落ち切る前にじゅわっと音をたてて消える。これで後始末は終了、と一息吐いて、どっと出てくる疲労感にどさっと腰を下ろして後ろに手をついた。その手に巻きつくように滑らかな肢体がするりと伝い上り、耳元から顔を出してぱちり、と瞬きをする。

「そうだねぇ、お互い、今日はすっごい疲れたね・・・はは。歓迎会はまた今度、ね。ティアマトもコロッサスも待ってるけど、さすがに今日はもう無理だわ」

 そんな体力も気力もない、と力なく笑うと、彼女――リヴァイアサンもまた、宝石のように輝く瞳を細めて、キュゥ、と喉を震わせた。
 するりとリヴァイアサンの頭を撫でて、ぐっと首を反らして洞窟の入り口を逆さまに見上げる。洞窟の中から月は見えず、僅かに月光の影だけが見えるたから、ぼそりと呟いた。

「お風呂入りたい・・・」

 すっかりと冷え切った体に、くしゅん、とくしゃみが木霊した。