三角形の底辺です。



 頬にぬらりと垂れた血を指先で触れ、じんじんと鈍く痛みを訴える傷跡に爪を立てる。自虐的な行為を、しかし見咎める相手などおらず、容赦なく食い込んだ爪から走る痺れるような痛みに顔を顰め、咄嗟に傷口から手を離すと唇を噛み締めた。
 薄っすらと赤くなった爪の間に入り込んだ血が、酸素に触れて黒く変わる。目の前でぐっちゃぐっちゃと、死肉を貪る生き物の凄惨な光景を見据えながら、私は踵を返して森の中へと逃げ込んだ。―――あぁ!!

「なん、で・・・!」

 痛む頬の傷跡が、忌々しくて、仕方ない。





 ズズゥ・・・ン・・・ズズゥ・・・ン・・・・。
 地面を揺らすほど大きな足音が聞こえるたびに、私の体も小刻みに揺れる。見上げた木々の枝葉も足音に合わせて揺れ、軽く地震じゃね?と思うような足音の持ち主は、ゆっくりと木々の間を抜けてどこかに去っていく。長い尻尾が歩く動作に合わせて左右に揺れて、時折木々に当たるとべきべき!と可哀想な枝が折れて地面に落ちる。
 だが折った張本人は我関せずとばかりに歩みを止めないままで、その姿が見えなくなるまで私は木の影に身を潜めてじっと息を殺していた。やがて足音も小さく聞こえなくなると、ようやく詰めていた息を吐き出して強張っていた体から力を抜いた。
 けれどもピリピリとした緊張感は抜けきらないまま、左右に頭上を確認して、巨大な木の幹を背中に、そろそろと顔を覗かせた。
 視界の中には先ほどの巨大生物・・・見る人が見れば、きっと「恐竜だ!」と言われるような巨大爬虫類の巨大な足音といくらかの破壊された後が残り、げっげっげっとなんとも言いがたい鳥の鳴き声が森中に響く。私は辺りを警戒しながら巨大爬虫類・・・便宜上恐竜と呼ばせてもらうが、それが通った道に出て、恐竜が折った木の枝に近づくと、手頃な枝を拾って辺りを見渡した。・・・木の実でも一緒に落ちてないかと思ったが、果樹が辺りにあったわけでもないので、そんなもの都合よく落ちているわけがない。
 さほど期待していたわけでもないので、早々に見切りをつけるとまた変な生き物が出ない内にと、その場をそそくさと後にした。
 そうして着いたのは、一応自分の寝床にしている水辺の近くの木の洞の中である。
 生き物も規格外にでかいが、植物もビックリするぐらい大きいここで、私みたいな小柄な、いやむしろ子供がすっぽりと入って寝起きが可能な木の洞は存外あちこちにあるものだ。
 幸いにも他の生き物が寝床にしている様子がなかったので、安心して寝床に使わせてもらっている。そこに今しがた拾ってきたばかりの木の枝、要するに薪を重ねて隅っこに置くと、今度は踵を返して洞の外に出た。そうして捻れた木の幹に足をかけ、手をかけて、するすると幹を登っていく。伊達に学園で色々学んできたわけではないので、木登りぐらいわけはない。ただあんまりに木が大きすぎるので、体力的な問題で一苦労ではあったが。あと頂上まで登る勇気はなかった。だって超高いんだもん。
 それでも枝が私の体重で折れる、なんて心配がいらないし、そもそも大きすぎるほどに大きいので足場の不安定さ、というのともかけ離れている。そういう意味では安全かもな、と思いつつ、大きな木の枝に立ってとことこと進むと、湖まで垂れ下がっている木の蔦を持って、ぐいぐいと引っ張った。
 ざばぁ、と音とたてて水面から枝で編んだ籠が顔を覗かせる。そのままぐいぐいと引っ張って自分の立つ木の枝まで持ってくると、籠の中を覗き込んでほっと胸を撫で下ろした。
 籠の中に、二匹の小魚がぴちぴちと尾びれを叩いて跳ねている。中身が軽かったから今日は収穫ないかも、と思ったけれどなんとか確保できたようだ。よかったぁ。
 ご飯抜き、というわびしい事態にはあんまりなりたくないしね。ほっとしながら、魚を腰に下げた袋に突っ込んで、そして再び籠は湖の中にどぼんと落す。
 何故わざわざ木の上で罠の確認をするかって?んなもん前普通に下でやったら鮫なのか虫なのか意味不明な生き物に襲われかけたからだよ!!なんで足が六本ぐらいあるんだとそこ鰭じゃないのかよ!超怖かった!ジョーズかと思った!死ぬかと思った!!!間一髪逃げ延びたけれど、それ以後安全を考慮してこうやって高い木の枝から罠を仕掛け回収することに決めたのだ。ここなら多分、そうそう下から攻撃されることはない、と思いたい。本気怖かったんだから!泣きそうだったんだから!生きた心地がしなかったんだから!!当時のことを思い出し、ぶるりと恐怖に体を戦慄かせて、ぎゅっと唇を噛み締める。あぁもう本当、これが夢ならどれだけよかったか!
 それでもそんな恐怖体験をしながらも水辺を離れないのは、水というものが人体にそりゃもうとっても必要なものだからだ。食べなくても人間なんとか保つけど、水がなければそれもままならない。
 はぁ、と溜息を吐きながら木から降り、細い枝に魚を刺して地面に棒を突き立てる。味付けが何もできないのが侘しいが、仕方ない。私の所持品に調味料なんていう高尚なものはないのだから。
 苦無とかしころとか手裏剣とかはなんとか装備してたんだけどねぇ。あと火打石を持っていたのもポイントが高かった。これは、本来ならば夜の野宿実習で使う予定のものだったのだが、いかんせん夜の実習に赴く前にこの状況になってしまったので使い道が・・・リアルサバイバルになってしまったのだ。できることなら当初の予定通り、実習のみで使いたかったです。
 しかし、ぐだぐだ愚痴をいっても仕方ない。幹につけた苦無の傷跡から、ゆうに一週間は経過している現状を省みるだに、これ夢じゃなくね?という恐ろしい事実に行き当たり打ちひしがれたのは記憶にも新しい。しかし、愕然としている暇など、私にはなかったのだ。
 百歩譲ってこれが現実だとしよう。今でも夢じゃないかと思ってるけど、ていうか夢であれと願っているけれど、お腹は空くし疲れは溜まるし、お風呂に入らなかったらそりゃ臭いもするし、おまけに排泄物だってちゃんと出る。そこまでリアルな夢は恐らくないだろう、から。
 けれども、そう。わかっている。私はこれが、何も始めての経験ではないのだ。いやこんな超サバイバル且つ危険度マックスな場所は初めてだけどね。こんな弱肉強食なところほんと初めてだけどね。それでも、初めてでは、なかった。
 再び、今度は先ほどよりも深い溜息を吐くと、火打石を使い薪に火をつける。ぽつっと、木の皮を剥いで解し、作り上げた繊維質で小さな火種を作ると、今度は細い枝にその火種からの火を移し、燃えてきたら今度はもう少し大きな枝に火をつける。
 そうして大きくなった火を、今度は薪に放り投げて、息をふぅふぅと拭きかけながら火をどんどん大きくさせていく。そうしてもう酸素を送らなくても大丈夫だろう、というほど火の大きさが安定してくると、脇にどけていた魚を火の回りに刺して、膝を抱えた。

「・・・じょーだんまじりでーウインクなげたらーうちかーえーされたよーひじでっぽー」

 考えてみると随分な歌詞だなこれ。けれども一人ぽつんと魚が焼けるのを待つのも大層寂しいので、仕方なく知っている歌を口ずさみながらパチパチと爆ぜる火を見つめる。
 熱がゆらゆらと揺れて肌を温めるが、ぼんやりと揺れる炎の動きを見つめる私の目は恐らく虚ろなものだろう。
 じゅうじゅうを皮が焦げて油が滴り始めた魚の表面をちら、と見やり、くるりとひっくり返して裏側も同じように焼けるように調節する。勿論そのときは刺す位置も変えたりなどして、焦げないように注意するのだが、私はここ最近で随分と手馴れてしまった作業に、これで野外実習の野宿も完璧だね、と空笑いを零した。あぁけれど、それがあまりにも薄い希望だなんて、そんなことは認めたくない。だがしかし、今現在帰る帰れないよりも重要なことは。

「・・・どうやってここから出ればいいんだろう・・・」

 少なくとも人がいるところには行きたいと思うのに、それすらままならないってどんだけ過酷な状況なんだ。いやすでに、この弱肉強食の世界で巨大生物と明らかに地球上には存在しないよね!っていう進化を遂げた生き物が跋扈している時点で、過酷という度も越えているとは思うけれど。
 あぁ、何故こんなジュラシックパーク的な世界に取り残されてしまったのだろうか。
 ほどよく焼けた魚を素材の味そのままで味わいつつ、私はもう一度盛大な溜息を吐いた。

「・・・どうしよう」

 どうしようもない、だなんて、諦めと達観の返事はいらないよ。