究極の選択
例えば胸の中心、心臓に近い場所。その部分が、ずきりと傷もないのに疼いたような気がした。思わず胸元を握り締めて、目を見開いて唇を戦慄かせる。
瞬きをすると、異常なまでに赤い紅で彩られた唇が浮かんだ。白魚のような指先が冷たく頬を撫でる。赤い唇の端がきゅっと持ち上がって、鼓膜に注がれるのは毒みたいな声。
ずくん、と、胸の痛みが増したような気がした。痛い、苦しい。喘ぐように息が零れると、心臓の動きが早くなる。
どっどっどっどっ、と巡る血液の音が近くで聞こえ始め、目の前が真っ暗になった。あぁ、嫌だ、ダメだ。真っ暗なのはダメ。何も聞こえなくなる、何も感じなくなる。何も、何も・・全部、忘れて、しまう。わからなく、なる。それは嫌なのに、それは怖いのに、それは遠ざけたいのに、どうしても、抗えない。
「っおい、!」
目の前が真っ暗になる一瞬、肩を掴んだ暖かな手が暗闇の終わりを告げる。はっと目を見開いて瞬きを繰り返せば、いつの間にか私は広い甲板の上に座り込んでおり、上から覗き込むようにして心配そうに眉根を寄せるエースさんの顔があった。
パチパチと瞬きを繰り返し、肩を掴んで後ろから支えるようにして顔を覗きこむ彼に、呆けたように口を開ける。
「エースさん・・・?」
「大丈夫か?」
「えっと、私・・・・倒れたんですか?」
座り込んで背中を支えてもらっているということは、なんだ、いきなり倒れこむとかしたのか、私?突然といえば突然の自分の状態に、緊張のあまり貧血でも起こしたのか、と首を傾げつつ、やんわりと肩を支えるエースさんの手を退かして甲板に座り込んだままぐるりと辺りを見回した。
別段ここにきた当初と何も変わらない強面ばかりが並んでいる。多少、なんだか空気が微妙な気もしたが、まぁあれだ。いきなり人が倒れればそりゃ微妙な空気にもなるだろう。
迷惑かけたなぁ、と思いつつ、可笑しいな、と首筋に手を押し当てた。・・・緊張の余り失神とか、そこまでチキンな根性ではなかったと思ってたんだけど・・・それとも疲れてたのかなぁ?まだぐらぐらしそうな視界にぐっと眉間に力を篭めると、マルコさんはいささか咎めるようにオヤジさん、をねめつけた。
「オヤジ、いきなり覇気はねぇだろうがぃ」
「そうだな、ちぃっと悪ふざけが過ぎたようだ」
はき?聞きなれぬ単語に首を傾げるものの、その説明を求めるのは野暮というものだろう。私はさーっぱり現状がわからぬまま、なんだか周囲から白い目で見られているオヤジさんをきょとりとして見つめれば、罰が悪そうに彼は一瞬鼻に皺を寄せ、深い溜息を吐いた。
「悪かったな、嬢ちゃん。ちっとカマァかけさせて貰ったんだが・・・ホントにただの嬢ちゃんなんだな」
「はぁ」
・・・・・・・・・何をどうカマかけられていたのかサッパリだが、というかこの自分が倒れた?っぽい状態もサッパリなのだが、私は何をされたんだろうか・・・?ていうか私はあなた方海賊と違って極々普通の一般人ですよ?!ただちょっと色々不可思議体験を絶賛経験中なだけで!・・・あぁダメだ全然普通じゃねぇ・・・。思わずしょぼん、としょぼくれると、それを気分が悪いとでも勘違いしたのかエースさんが「気持ち悪いのか!?サーッチ!バケツもってこいバケツ!」とか的外れなこと言い出したので即行で違います、と否定しておいた。
だからそこの走り出そうとしたリーゼントの・・・リーゼントとか生で見たの初めてだよ!!お兄さん、バケツとかいりませんから。
正直何について謝られているかさえもよくわからないまま、そういえば、と心臓に手をあてた。・・・嫌な、夢を、見た気がする。いや、あれは夢ではなくて、そう、過去にあった、
「グララララ!まぁこれで何も心配するこたぁねぇってこった。お前等も、不用意なことはすんじゃねぇぞ!」
「オヤジのやり方あんま薦められねぇよ。ったく。、立てるか?」
「え、あ、はい」
またあの笑い声?と疑問視する奇妙な笑い声をあげて高らかに、それこそこの大きな船中に届くんじゃないかという大声で宣言したオヤジさんに、思考を遮られる。あぁ、そうだ。あまり、思い出したくないことだ。エースさんが私の手をとって立たせてくれるのに身を任せつつ、私はそれを奥に押しやり、こてりと首を傾げた。・・・で、どうしろと?
・・・このまま流れ作業で陸に帰れないかな、と考えているとグラララ!とまたあの笑い声が響いて思考の波から引きずり上げられる。ぱちっと瞬きをして前を見れば、大きすぎるオヤジさんは目元の皺を一層増やして瞳を細めると、最初はあれだったが、と口火を切った。
「息子達が世話になった礼をしなくちゃなぁ」
「いえ、そんな・・・こちらも初めて人に会えて嬉しかったですし」
すぐ前言撤回したくなりましたけどね!最後は言わずに適当に笑みを浮かべて首を横に振る。礼とかいらんから私を帰してくれ。これ絶対なんかよからぬフラグが立ちそうで怖いんだよぉ・・・!内心の私の不安など終ぞ知らぬように、オヤジさんはニィ、と特徴的な髭の下の口を吊り上げた。
「それじゃぁ示しがつかねぇ。こっちは息子を助けられたんだ。それ相応の礼をすんのは当然だろ」
「いえ本当に、お気になさらず。そんな大層なことはしておりませんので」
「グララララ!餓鬼が変な遠慮をするもんじゃねぇ」
遠慮じゃなくて全力回避の方向性です。なぁんて、やっぱり言えるわけがなかったので私は困ったように眉を下げ、これじゃ押し問答だな、と早々に諦めることにした。
事を荒立てないためには、時に自分の主義主張を押し込めることも大変大切なのである。ちょっと考えさせてください、と一つ前置きして、不毛な押し問答を終了させると、顎に手をあてて思考に耽る。
さて、しかし礼と言われても特に思いつかない。あれか、食糧分けてくださいとかか。あれ、でも確かマルコさん食糧が心許ないからここに寄ったとか言ってなかったっけ。てことは食糧はNGかな・・・。水、とか?いや水はこれで結構島にも豊富にあるからいらないか。
えーと、服は・・・この男所帯で私のような子供が着れる服があるわけない。お金?そういえばここの通貨ってなんなんだろう?ドルとか?ガルドとか?
てかここマジどこなんだろう?あぁ、じゃぁそれについて教えてもらうか?うんしかし、聞いて不審に思われないだろうか・・・。ていうかそれはお礼として成り立つのだろうか?
えーと、・・・あぁ、ならあれだ。陸に帰らせてくださいって言おう。それがお礼ですってゴリ押せば問題なくね?いやあるかもしれなけど、こんな嫌な予感ビシバシな船にずっといるよりもきっとマシなはず!
名案!とばかりにパッと顔をあげれば、何故か集中していた視線がおぉ!と何故か盛り上がった。人が考えているところを凝視するのはいかがなものかと。思わず微妙な顔をしつつ、エースさんがなんか思いついたか?と笑顔で尋ねてくるので、はい、と頷いた。
「えーと、私を」
げっげっげっげっげっ!
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
すごい出鼻挫かれた今。頭上から聞こえた不気味な鳴き声に、勢いをそがれて思わず変なところで言葉が尻すぼみになる。甲板も「なんだありゃあ」と上空を見上げて変なマーブル色をした鳥を面白そうに指差していて、私は思わず溜息を吐き・・・ハッと気がついた。
待てよ。単純に海賊と聞いてここから逃げることだけを考えていたが、よくよく考えて、帰ったところで戻るのは学園ではなく、あの森である。あの規格外にでかい上に凶暴性も高い肉食動植物が跋扈している危険極まりない、弱肉強食の世界だ。
そのことに思い当たると、さっと顔色を変えて私は唇を閉じた。続きを言え、と視線で促すオヤジさんに、掌をあげてストップをかけながら、たらりと背中を冷や汗が流れる感覚を感じた。
冷静に考えてみよう。ここは海賊船だ。本人達が言ってたし、見た感じ悪い人たちで一杯だ。エースさんは気のいい奴等とか言ってたけど、それにしたってそれは彼が同じ海賊であるからしてそう思うわけで、無関係の私にしてみりゃ何されるかわかったもんじゃない危険ゾーンだ。そう、言っちゃなんだが海賊のイメージなんて悪いものがほとんどだ。だって賊だよ?悪者だよ?よしんばここの人たちがいい人だとしよう。したとしても、海賊というだけで色々厄介なことが起きそうじゃないか。それは是非とも遠慮したい。
しかし、帰ったところであの島に私以外に人はおらず、常に何かに命を狙われる始末。狩るものと狩られるものという法則が実に分かりやすく、尚且つ私のあそこでの立場はピラミッドの底辺だ。絶対的に捕食される側の生き物である。今まで生き残れたのは一重に運と逃げ足とかそんなののおかげで、それもいつまで続けられるか。そもそもずっとあそこにいるとか耐えられない。ずっとサバイバルとか精神的にも肉体的にもきつい。きつすぎる。
あぁ、なんてことだ。危険という意味でどちらにもさほど差がないとか、それどんな究極の選択?絶望的な事実にうっかり顔を覆って項垂れると、オヤジさんが待ちくたびれたように溜息を吐いた。
「で、どうすんだ?」
究極の選択は、案外ゆっくり考える時間も与えてはもらえませんでした。どっち選んでもデッドオアアライブの上に確実デッドの確立が高いってどんないじめだ!!
思わず仰いだ上空には、忌々しいマーブル鳥が、げっげっげっげ、とこちらを嘲笑っているようだった。被害妄想だなんて、わかってるけどね!