ホットケーキはうちの味
船の上の奥の方、壁の影になったような人目につかない場所で、足を真っ直ぐに揃えて伸ばした。関節が曲がらないように意識しつつ、ゆっくりと息を吐きながら上半身を前方に曲げていって、指先が爪先につくと更に体を沈めていく。ぺたりと足に胸部がつくと、両足を抱えるようにして数秒数える。五秒ぐらい数えると再び体を元に戻して、今度は両足をガバリと横に開いた。体の線が真っ直ぐなライン上に乗るように股関節を限界まで広げて、また数秒待つ。さすがに筋肉が引っ張られる痛みのような違和感を覚えたが、それもいくらか時間を重ねれば慣れるもので、そのまま体を横に倒したりして柔軟を繰り返す。
ふむ。しばらく柔軟体操を怠っていたが、存外柔らかさというものは失われないものなんだなぁ。
「でも、ちょっときついかな・・・」
柔らかいには柔らかいけれど、以前はもっとスムーズにできていた。ここしばらく怠っていたつけが回ってきたのだろうか。それどころじゃなかったものなぁ、なんていうのは言い訳でしかないか。いやでも仕方ないよね。いきなりこんな世界に飛ばされちゃったわけだし、自分の生活が第一だったし。うん、仕方ないってことで厚着先生、許してくれないかな。
もっとも、帰れたらの話なのだが。眉間に皺を寄せて、溜息を零す。授業はどうなっているのだろうか。私は行方不明扱いなのだろうか。彦ちゃんたち心配してるだろうな。家に連絡はいってるのだろうか。ぐるぐると考えると心配は尽きない。帰れる保障もないのに。もしかしたらここで一生を暮らすことになるかもしれないのに。それでももしかしたらを考えると、私のいなかった時間がとても気になるものだ。せめて体の柔らかさだけでも保たなければ面目ない。あ、でも遁術だけはきっとレベルアップしてるはず。あぁ、帰りたいなぁ。
体を前に倒して床に胸をつけ、ついでに額もつけて俯いた状態で溜息を零す。ちょっとホームシック、とべたりと甲板に突っ伏していると、ふいに背中に重みが加わり思わずぐえ、と品の無い声が零れた。お、重い・・・!
「ー腹減ったー・・・」
「ちょ、エースさん?重い、重いですよっ。苦しいし退けて・・・!」
「腹減って力がでねぇよー」
「顔が濡れて力がでないみたいな言い方して・・・いいから早く退いてくださいってば!マジで重たいですから・・!」
ギブギブギブ!とばかりにべしべしと甲板の床を叩いて必死に訴えると、つまんねぇの、とかほざいてエースさんが渋々上に被さっていた体を退けて横に胡坐をかいた。
つまんねぇとか言われてもこちとら十歳の子供なんで成人男性の重みに耐えられるわけないでしょーが!とりあえずまた乗られてはたまらない、と急いで体を起こすと開いていた足も戻して、圧迫された肺に空気を存分に送り込む。ふぅ、と大きく息を吐くと、エースさんはニパ、と笑みを浮かべた。
「案外体柔らかかったんだな」
「えぇ、まぁ。・・・それで?いきなりなんなんですかエースさん」
「いや、腹減ってふらふらしてたら見つけたから乗っただけなんだけど」
「乗らないでくださいよ!重たいってのに!・・・お腹減ったんなら厨房に行けばいいのでは?」
というかエースさんはお腹減ったら大抵食糧庫荒しをして騒ぎ起こしてると思うのだが、今回はしないのだろうか?首を傾げると、エースさんはそれはそれは悲しそうな顔をして、べたりと甲板に体を投げ出した。うぅ、と小さな泣き声まで聞こえてくる始末である。なんだなんだどうしたんだ?
「食糧庫いったらサッチがいてよー。見張り番してんの。あれじゃさすがに盗み食いできねぇ」
「そもそもしたらダメなんですけどね」
「でも腹減ったんだ!」
「厨房に行けば作ってもらえるんじゃ?」
「それがサッチがあいつらになんか言ったみたいで・・・作ってもらえねぇんだよ・・」
「あぁ、お仕置き的な」
この前また食糧庫荒らしてどやされてましたもんね、エースさん。ほぼ同情の余地がなく、納得したように頷けばエースさんがぐすん、と鼻を鳴らした。同時にぐぅぅぅぅぎゅるるるるる、となんとも悲壮な腹の虫の声が聞こえ、どんだけ飢えてんだよ、と思わず目も半目になる。可笑しいなあれだけ朝とか昼とか食べてるのになんでこんなにお腹減ってるんだろう?燃費悪いひと、と思いながら、よしよし、と慰めるようにくせっ毛を撫でるとエースさんは飯ー、と蚊の泣くような声で呟いた。ううん・・・。
「・・・そろそろ三時ですかねぇ」
「あーそれぐらいかー?・・・飯ー」
「三時のおやつぐらいなら許してくれるかもしれませんねぇ」
「・・・・・・・・おやつ?」
「簡単なものしか作れませんけど、食べます?」
「食う!!!」
サッチさんに甘やかしちゃダメだろ!とか言われそうだと思ったが、まぁ、あれだ。さすがに目の前でひたすら訴えられて無視できるほど非情になれんのですよごめんなさい。
色々負けた、と目をキラキラと輝かせて顔一杯に喜色を浮かべるエースさんを見つめて、しょうがないよなぁ、と苦笑めいた笑みを零す。うん。いい年した兄さんが何子供っぽいことやってんだかとも思うんだけれど、違和感がないのが末恐ろしい。
ちっさい子みたい。・・・いや、むしろちっさい子の方がもっとしっかりしてるかもしれない。少なくとも、彦ちゃんたちはもっとしっかりしてたような・・・。いやでもあれは年相応ともいうか。あれ、エースさん10歳児と同レベル?・・・まぁ、やるときはやるんだろう。隊長なんだし。おっやつ、おっやつ、と鼻歌まで歌いだしたエースさんが、それこそ前は急げ!とばかりに私を小脇に抱え、甲板を疾走するまで、暢気にもそんなことを考えていた。
うん、エースさん。この抱き方お腹圧迫されて結構苦しいっていうかもっとこう振動がない感じで運んでくれませんかね?!厨房についたときにはすでにややぐったりとして嬉々としてテーブルに座ったエースさんを恨みがましい目で見てから、渋々厨房に入る。
一応厨房の中は作りたいもんがあれば好きに使えよ☆とコック長さんに許可は頂いているので、使っても問題はないと思いたい。かといって乱用はできないし、大したものも作れないんだけれど。
そう考えると随分信用されてるんだな私、とどこかくすぐったくも思うのだ。この海ばかりの船の上で、厨房を好きに使っていいだなんて。冷蔵庫から卵と牛乳を取り出し、小麦粉と砂糖も並べながら、本当に私なんかが使用していいものかと少しだけ手を止めた。こんな、この船の一員でもない小娘が。船にとって一番重要といっても差しさわりが無いほど重要なこの場所を、許されたからといって。いいよって、言ってもらえたからって。
そうは思いつつも、目の前ではエースさんが今か今かと楽しみにしていて、その期待の篭った眼差しを今更裏切るのも気が引ける。小さく溜息を零すと、まぁ、一応この船の二番隊隊長が目の前にいるんだし、問題視はされない、と思う。多分。作ってることが問題かもしれないが。なにせ彼は今はお仕置き中らしいし?まぁでも、私に作っちゃいけないといわれてるわけじゃないんだから・・・卑怯だが、言われてないのだから、何か言われたら知らぬ存ぜぬで通してみようか。
本人に見張りの意識はなかろうと、見張りがいるようなものなんだから、とりあえず今は彼の胃袋を大人しくさせるものを作らなければならない、と小麦粉と砂糖、卵と牛乳を掻き混ぜた。
「何作るんだ?」
「ホットケーキもどき?ですかね。ホント簡単なものしかできないませんから」
「ホットケーキ。俺大好きだ」
ニッと口角を持ち上げたエースさんは言葉通りに好きなようで、ていうかこの人の場合嫌いな食べ物を探すほうが難しいんじゃないかとも思うのだが、それはよかった、とこちらも笑い返す。
出来上がった生地を熱したフライパンに流しいれて、ふつふつと気泡が出てくるまでしばらく置いておく。その間にバターとメープルシロップ、それからチョコレートソースなんかもあったのでそれを用意しながら、気泡がでてきたホットケーキをくるっとひっくり返すと、うん。・・・きれいなきつね色、とまではいかないけどまぁお店で出すようなもの期待されてもな。まぁまぁムラはあるけれど焼けたホットケーキの片面をまた焼きながら、お皿をだしてフォークとナイフを取り出す。・・・今度誰かに綺麗なホットケーキの焼き方とか教わろうかな、と思いながら焼きあがったそれをお皿に重ねて、バターとメープルシロップを添えてエースさんの前に置く。フォークをナイフを握り締めてエースさんはおぉ!と歓声をあげると、それはもう目にも留まらぬ速さでホットケーキにナイフをいれ、フォークを突き刺し、大口あけた中に放り込んだ。膨らんだ頬がまるでハムスターのよう。というか熱くないんですかエースさん。
「うめぇ!うめぇよ!」
「それはよかったです。まぁさすがにここのコックさん達みたいに綺麗にはできませんでしたけど」
「ん。でもなんか、・・・うめぇよ。このホットケーキ。おかわり!」
「ちょっと待ってくださいねー。今次焼いてますから」
「早く、早く!」
だからあなたは何歳なんだ!あっという間に平らげたエースさんを予想はしておきながらも、食べるペースに作り手が追いつかない、とあくせくしながら次を焼く。
作った端から消えていくのになんだかとても無駄な作業のようにも思えたが、もっきゅもっきゅと非常に幸せそうに食べている人がいるので、報われているのだろう。
こんな、この船のコックさん達に到底及ばないホットケーキを、これだけ美味しそうに食べてもらえるのだ。それだけで、十分、幸せなことだと思う。
口元を綻ばせながら、最後に焼いたホットケーキは、自分でも会心の出来だった。真ん丸いホットケーキは、両面綺麗にきつね色に焼けていて、その上にバターとメープルシロップがこれでもかと乗せられとろりと流れた。
「そういや俺が作ったもん初めて食った」
「私も始めてこの船で作りましたね」
普通コックでもないのにやらないからね、こんなこと。今気がついたように瞬きをしたエースさんに、それもそのはずだと肯定すれば、更に彼の顔が笑みに彩られる。満面の笑みを浮かべつつも、口周りに食べかすとかチョコレートとかシロップとかついててらてらしてるんだが・・・とりあえず布巾用意しておこう。水でぬらしていると、エースさんはそっか!とやたら上機嫌にホットケーキを口に含んだ。
「うん。美味い」
「食べ終わったら顔これで拭いてくださいね」
きったないですよ、ほんと。何故にそんなに嬉しそうなのかは知らないが、まぁ、お腹がそこそこ満たされたようで何よりです。布巾を手にとって、ごしごしと顔を拭きながら上機嫌なエースさんに首を傾げつつ、後片付けの準備に取り掛かる。掴んだスポンジは、使い古された感触がした。