例えばこの手が、届いたならば
伸ばした手が、その小さな手を掴むことはなくて、それどころか、目一杯伸ばしたはずなのに、その指先はおろか爪の先すら、掠めることは無くて。
呆然と目を丸くしてこちらを見上げる少女は、恐らく自分の身に起こったことを理解していないに違いない。幼い顔に恐怖も緊張もなく、ただこちらを見上げて今にも首を傾げて何が起こっているのだろう、なんて、軽い調子で考えていそうなぐらい、間抜けな顔をして。
普段は過ぎるぐらいに周囲に気を配っているくせに、どうして、こんな時だけ、そんなにも、常と変わらない、様子で。
心臓にひたりと刃物の切っ先を当てられたような、冷水を頭からぶっかけられたような、それは恐怖と相違ない、喪失の予感に、彼の喉から溢れ出た声はひどく悲鳴染みていた。
「――ーーーーーー!!!!」
ばしゃん、と迸る呼び声とほぼ同じくして舞い上がる水飛沫。小さく華奢な体はいとも容易く青い渦の中に飲み込まれ、ちらりともその姿を現すことはなく。
ぐるぐると渦巻く海流が、少女を、海の底へと、連れ去ってしまう。
「エース隊長?!どうしたんですか、・・・隊長?!?」
「ちょ、隊長なにしてんですか!危ないっすよ!」
「うるせぇ離せ、離せよっ!!!が、がっ」
「た、隊長、お、落ち着いて・・・!・・・っ誰か、誰かーーー!エース隊長止めるの手伝ってくれぇぇ!!」
今にも掴んでいた柱を手放して海へと飛び込んでいきそうなその屈強な体を背後から羽交い絞めにし、止める声すら煩わしい。今すぐに飛び込めば、間に合うかもしれない。
あの小さな体を、穏やかな微笑みを、暖かなぬくもりを、取り戻せるかもしれない。そこに自分が能力者だとか、海に嫌われているだとか、そういったことは一切頭にはなかっただろう。ただ、届くのならば、と。拘束されながらも海に伸ばす手は、騒ぎを聞きつけてやってきた別の手に捕まれ、結局暴れる海へ届くことはなく、苛立ちが、ぼぼっと、音をたててその腕を揺らめかせた。
「っつぅ・・・エース!!落ち着けっ。何があったんだ?」
「海に飛び込むなんて自殺行為だろぃ!」
しかもこんな渦の中飛び込めば、助けになど誰もいけない。能力者にとって死地に飛び込むも同義な行動を必死で押し留めるが、感情の制御が利かないかのように熱を帯びる腕にじりじりと手を焦がされる。それでも離せば今にも飛び込みそうな末の弟の無謀な行動を、止める手がこれだけなのだと思えばその熱も耐えられないものではなかった。
ぐっと、掴む手に力をこめれば、エースの苛立ちに歪んでいた顔が、ふと泣きそうなほどに情けない顔に変わる。悲鳴は、聞こえる範囲の人間の背筋を、ひやりと冷たい手で撫で上げるほどの威力を秘めていた。
「・・・・っが、海に落ちたっ!」
「なっ」
「が?!」
慌てて、最早気力をなくしたかのように体から力を抜いたエースをマルコに預けたサッチが、船べりから身を乗り出すように海を覗き込む背中を、エースの虚ろな目が見やる。
凝らすように細めた目で荒れる海を凝視するも、渦を巻く海面に、見慣れた黒髪も小さな体もなく、ただ泡立つ白い筋がぐるぐると円を描くばかりで、そう、そこに、人の、ましてや小さな少女の、非力な姿など、あるはずもなくて。
呆然と、嘘だろ、と呟く声に、何時の間にか曇っていた空から、ぽつりと、冷たい粒が甲板を叩いた。小さな黒い染み後が、まるで、喪失に呆然とする胸の内を表すように、次々と落ちては、甲板を瞬く間に染め替えていく。
「・・・総員、持ち場につけ!ぐずぐずしてる暇はねぇよい。早くしねぇとこっちが渦に飲み込まれちまうっ」
「で、でもマルコ隊長・・・っ」
「命令だ!さっさと仕事につけ!死にてぇのかよい!?」
怒声にも近い命令に、事態に呆然としていたクルーがびくりと肩を揺らす。視線は躊躇いがちにちらちらと、刺青の刻まれた背中と、悲嘆に染まる白いコックコートを行き来するが、しかしそれでも動かなければならない状況というものがある。誰が最初に動いたのかは分からない。それはほとんど同時だったかもしれない。即座に場を切り替えドタバタと雨に濡れ、渦に傾く甲板を走り回るクルーを見据え、ほっと一息吐いたマルコが苦々しく後ろを振り返る。
「サッチ。お前もさっさと持ち場につけよい」
「・・・わかって、る。・・・・くそぉっ」
未練がましく海を見つめる目が、悔しさとやりきれなさに歪む。ダァン、と叩きつけるように船べりに落とされた拳が震えるのを、舌打ちを打ちたい気持ちで見やりながら、なんとも言えない、ただ呆けたように覇気のない顔を晒すエースに眉を潜めた。
「エース、お前もだ」
「・・・・・・・・・・・、は?」
「隊長だろぃ。自分の仕事はしっかりこなせよい」
「、はっ!?」
「諦めろ」
ギリィ、と歯軋りするようにこちらを強く、憎悪にも似た怒りを浮かべて睨みつけるその顔を、冷ややかな双眸が平然と受け止める。例え、内心がどうであれ。今ここに、見せる感情など、マルコの中にはなかった。ただ淡々と、いっそ彼の青の炎のように冷たく、吐き捨てる言葉は現実を教えていた。
「冷静に考えろぃ。この渦の中に落ちて、無事でいられるわけがない。助けに行ったところで、そいつもお陀仏になっちまうよい。それに、もう、どれだけ引き離されたか。・・・今は、この渦を越えることだけ考えろぃ」
「マルコ!!」
「白ひげの二番隊隊長なら、この船のことを一番に考えろ!!」
「・・・・っ」
叩きつけるように、怒鳴る。その声が、慌しい甲板に響き、叩きつける雨音に紛れて落ちて、ただ、震えた。聞こえたクルーの一部がびくりと体を揺らしたが、それでも次の瞬間には何事もなかったかのように動き出すのは、長年の経験が物を言うからか。
喪失は、何も、初めてでは、なかった。けれども、握り締めた拳と、奥歯を噛み締めた音が、誰かの耳に届くことは無くて。
例えば、この荒れる海面に、少しでもその影が見えたのなら。助けを求めるように、あの小さな小さな、この船にいる誰よりも小さな手が、伸ばされたのならば。
それが例え波間に消えるほんの一瞬の出来事だとしても。その、命が、見えたのならば。
躊躇わずに、飛んでいくのに。思いは、しかし、この場には、不必要なものだった。
俯いた顔が、風雨に晒され影を帯びた。濡れて張り付く髪を払いのけるように、マルコは決然と顔をあげ、項垂れるエースの横をすり抜ける。
かける言葉など、言うべき事など、もう、何もない。
「エース、仕事だ」
とん、と静かに、低く、端的に。通りすがりにかける声に、エースの息が詰まる。あ、とか細く途切れた声に、サッチの視線が向くことはない。遠ざかる背中は、今は真っ直ぐに伸びて。海を見つめていた眼差しは、今は船に向けられて。
エースの頬を、雨が伝った。
「ごめ、ん・・・っ」
例えばこの腕が、弟のように伸びたなら。
小さなその手を、掴んで離しはしなかったのに。